幕間 小さな侍女とキングプルン
野外に建てた小屋で一晩を過ごす。
ほんの少し前までは、こんな経験をするなんて思いもしませんでした。
姫様と二人きりの旅でも苦労はありました。
ですが、不満はなかったのです。
荷馬車に乗ったのは初めてでしたが、お尻が痛くなるくらいは我慢できました。
眉を顰めたくなるような味の食事や、薄い毛布一枚で寒さに耐えるのも、私にとっては幼い頃に経験したものです。
姫様に苦労を掛けてしまうのだけは、とても悔しく感じていました。
ですが、何事も経験だと、姫様は仰ってくださいました。
それどころか、ほんの少し旅の手伝いをしただけで誉めてくださったのです。
質素な服を着ていただいたり、粗雑な平民ばかりの商隊に紛れ込んだり、そういった我慢を姫様に強いてしまっただけなのに。
王宮での生活に慣れていたとはいえ、私が育ったのは教会付属の孤児院でした。
両親の顔はぼんやりとしか覚えていません。
最後の記憶は、教会の前に私を置いて去っていく二人の後姿です。
迎えにくるまで大人しく待っていなさい、と。
そう告げられたことを守って、私は教会の前でずっと待っていました。
夜になって神父様に拾われましたが、両親に捨てられたと受け入れられたのはずっと後になってからです。
「……いけませんね」
一人きりになると頭をよぎる嫌な思い出です。
いまは、そんなことを考えている場合じゃなかったはず。
そう、この小屋が問題なんです。
姫様が快適に過ごしてくださっているのは間違いありません。
でも非常識です。
そもそも野営するからって小屋を作るのが有り得ません。
部屋のベッドはふかふかですし、居間まで作られていて、そこのソファの座り心地は王宮にある椅子だって比べ物になりません。厨房も使い勝手がよく、美味しい料理を作れます。望めば、お風呂にだって入れてしまいます。
こうして夜中に部屋を出て、一人でいても安全です。
商隊とともに街道を進んでいた時は、気が張って眠れない夜もあったのに。
「普通の野営でも、見張りはいましたけど……」
廊下の窓から外を覗うと、サラブレッドが軒下で休んでいるのが見えます。
魔物が見張りをしている、というのも普通じゃないです。
しかも小屋の周囲には、侵入者を察知する魔法も張り巡らされているとか。
こんな安全な野営は、やはり有り得ません。
でも一番の非常識はアレでしょうか。
居間を覗いてみると居ました。淡い月明かりの下でも目立っています。
入り口のドア近くに鎮座している、黄金色の塊が。
「……ぷるるんさん、寝てますか?」
「ぷるっ!」
「起きてるじゃないですか!」
「ぷるぅ……」
ぷるぷるの黄金色がしぼむみたいに揺れる。
何を言ってるのかは分からない。
でも、こちらの言葉は理解しているみたいです。
「……本当に、おかしいです。こうして魔物に触れることも……」
最初は近づくだけでも怖かったはずです。
だって相手は魔物ですし。いくら従魔とはいえ、本来は人間の敵なんです。
なのにいまは、ぷるぷるの感触を撫でています。
毎日、馬代わりに乗せてもらってますし、守ってもらったこともあります。
「分かっているんです。スピアさんに悪意がないことも。純粋に、姫様のために行動してくれていることも。ですけど……」
ぷるるんに当てていた手を戻して、ぎゅっと握る。
いつの間にか、私は項垂れていました。
胸の奥底から、ふつふつと熱い感覚が沸き上がってきます。
渦を巻くような、黒々としているような、これはあまりよくない感情です。
分かってはいます。私は、スピアさんに嫉妬している。
でも仕方ないじゃないですか。
私はただ、もっと姫様のお役に立ちたいだけなんです。
だって、そうでないとまた一人ぽっちに―――。
「ぷるっ!」
ぽよん、と頭に柔らかな感触が乗せられました。
この場には、私とぷるるんしかいません。頭を撫でられたのだと、すぐに分かりました。
「……慰めてくれても、なにもできませんよ?」
私が役立てるのは、侍女として身の回りのお世話をすることくらいです。
魔物との接し方なんて知りません。
治療術も少しは使えますけど、キングプルンに通じるかも分かりません。
だいたい、ぷるるんが傷つく場面だって想像できません。
「本当に不思議な魔物……いえ、魔物という枠で考えるのもよくないのでしょうか」
目の前で、ゆるゆると黄金色の塊が揺れています。
なにかを言いたいようにも見えますけど、さっぱり分かりません。
実はなにも考えていないのかも知れませんね。
でも緩やかに揺れる様子を眺めていると、不思議と心が鎮まっていく気もします。
「……もしかして、眠っちゃいました?」
返答は無し。
なんで話の途中で寝ちゃうんですか!、と普段の私なら怒っていたでしょう。
だけど夜中なのでやめておきます。
ぷるるんも、旅で疲れているのかも知れませんし。
……キングプルンでも疲れるんですかね?
「まあいいです。明日も旅を急ぎますし、お世話になります」
一礼して、部屋に戻ろうとしました。
「ううん。お世話なんて思ってないよ」
「うわぁっ!?」
背後からいきなり声を掛けてきたのはスピアさんです。
というか、こんな悪戯をするのは彼女しかいません。
わざわざ手元に魔法の光を灯して、顔だけ浮かび上がるように見せていました。
「な、なにをしてるんですか! こんな夜中に!」
「エミルディットちゃんこそ。もしかしてトイレ? 一人でいける?」
「子供じゃありません!」
折角、静かに眠れそうな気分になれたのに。
台無しです!