湯船に浮かぶ
ほわほわと湯気が漂う。
薄灰色の床や壁はなめらかで、水滴に濡れて艶を放っている。
それでいて足を滑らさないよう丁寧に手入れもされていた。
泳げるくらいの広さがある浴室は、王族であるセフィーナから見ても贅沢なものだった。
「この村は、とても裕福なのですね」
「不自然なくらいですけど……ああ~、でもこのお風呂は気持ちいいですぅ……」
湯船に肩まで浸かったエミルディットは、ほっこりと表情を緩める。
年相応の、無邪気な笑みがそこにあった。
昨日、二人は部屋に入ってすぐに眠ってしまった。
そこにはシロガネの働きがあったのだが、ともあれ、気づけば朝になっていた。
そこからまたシロガネに促されるまま、こうして旅の汚れと疲れを落としている。
午後には、クリムゾン伯爵との会談が行われる予定だ。
朝早くにエキュリアが訪れていた。もうサラブレッドに乗ることにも慣れたようで、空からの悲鳴は聞こえなかった。
それでもスピアに対して文句は言っていたが。
エキュリアの不満を除けば、事態は良い方向へ転がっている。
本当に、急転直下というくらいに。
「なにからなにまで、スピアさんには助けられてばかりです」
「親衛隊長ですから」
セフィーナの隣には、頭にタオルを乗せたスピアがいた。
肩まで湯船に浸かって、脱力しきった顔をしている。
王族と村長が同じ湯に入るなど、普通なら有り得ない。親衛隊長でも同じだ。
侍女であるエミルディットも、はじめは側で控えているつもりだった。
でも結局、スピアとシロガネに押し切られた。
そうしていまは三人で肩を並べている。
「お姫様には、大きなお風呂が似合いますね」
「スピアさんこそ、異国のお姫様みたいですよ。夜空色の髪がとても綺麗で」
「そういえば黒髪って珍しいんでしたね。わたしのイメージだと、お姫様と言えば金髪なんですけどねえ」
しっとりと濡れた黒髪を弄りながら、スピアは視線を移す。
セフィーナの長い金色の髪も、綺麗な光彩を描いている。
それにエミルディットも、普段は頭の後で結っているけれど、長く美しい髪をしている。やや白の混じった金髪は柔らかく輝いていた。
肌も白くて瑞々しい。
まだ女性的な曲線はないけれど、とても健康的だ。
「な、なんですか? あんまりジロジロ見ないでください!」
視線に気づいて、エミルディットが身を捻る。
小さく俯いた頭を、スピアはぽんぽんと撫でた。
「エミルディットちゃんは可愛いね」
「へ、変なこと言わないでくださいっ!」
照れるエミルディットを横目に、スピアは湯船の縁に背中を預けた。
もうちょっと巫山戯たいところだったけれど、嫌がられそうなのでやめておく。
それに、向けられた視線も気になった。
「セフィーナさんも、ジロジロ見てますね」
「あ、いえ、失礼しました」
スピアに注いでいた探るような眼差しを止めて、小さく頭を下げる。
それでもセフィーナの顔には、まだ疑問が滲んでいた。
「もしかしたらスピアさんも神の使徒なのでは、と思ったものですから……」
「使徒、ですか? 見て分かるものなんですか?」
「恩寵を得た際に、体の何処かに『聖痕』が刻まれると聞いています。それで……探るような真似をして、本当に申し訳ありません」
セフィーナは姿勢を正すと、重ねて謝罪を述べた。
こういうところは本当に王族らしくない。良心的とも言える。
簡単に頭を下げるなど、下位の貴族でさえ避けるものだ。
だからスピアも、軽く手を振って受け流した。
「そういえば、手の甲に変なアザがあった気もしますね」
え?、とセフィーナは目を見開く。
スピアは濡れた腕を掲げて、ぼんやりと自身の手を眺めていた。
「だけど洞窟を出た時には消えてましたから、見間違いかも知れません」
「あの、それはどういう……?」
「まあ人攫いが恵んでくれる力なんて、欲しくもないですけど」
独り言みたいに述べて、スピアは手を合わせた。
拍手するみたいに重なった手の隙間から、勢いよくお湯が飛ぶ。
「わぷっ! な、なにするんですか!?」
「エミルディットちゃんは知らない? 水鉄砲だよ。こうして手を合わせて……」
「……えっと、こうやって……わぁっ!」
思いのほか激しくお湯が飛んで、エミルディットは大きな声を上げた。
そんな様子を見て、セフィーナはくすりと笑みを零す。
だけどその笑顔はすぐに曇ってしまう。
胸元に手を当てる癖は、セフィーナが城を出てから身についたものだ。
そこにある硬い感触が、大切な目的を思い出させてくれるから。
「ん……? セフィーナさん?」
スピアが気づいて、首を傾げる。
訝しむ視線は、セフィーナの胸元で輝く首飾りに注がれていた。
細い鎖が銀細工と繋がっていて、その中心には明るい緑色の石が収められている。掌で隠せるくらいの石だが、宝石としては大きい部類だろう。素人目にも価値があると分かるくらいの輝きを放っている。
大切なものだからと、この浴室に入る時でさえ外さなかったものだ。
「あ、いえ、なんでもないのです」
「なんでもなくはありません。ご主人様、よろしいでしょうか?」
否定の言葉を差し挟んできたのはシロガネだ。
浴室の隅で控えていたのだが、いつの間にか湯船の脇にまで寄ってきていた。
その眼差しも、セフィーナの首飾りを捉えていた。
「シロガネも気づいた?」
「はい。そこの首飾りが原因だと判断します。破壊した方がよろしいかと」
「な、なにを仰っているのです? これは『聖城核』で……あっ!」
しまった、とセフィーナを両手を口に当てる。
だけど遅い。
「『聖城核』ってなんでしょう?」
普段は色々と聞き流すスピアだが、本当に大切なことは耳に留めていた。
聖城核―――、
それは遥か昔、唯一真実の国の都を支えていた。
神から授けられたとか、超技術の産物だとか、様々な説がある。
現存している幾つかのそれは、劣化した複製品だと考えられている。
それでも都市ひとつを支えられるだけの力を持つ。一瞬にして堅固な城壁を築いたり、街全体を覆うような障壁を張ったりと、大規模魔法でもまず不可能な現象を引き起こせる。
ベルトゥーム王国の興りも、その『聖城核』に頼ってこそだ。
『聖城核』があってこそ国と認められる、という見方もある。
魔物が跳梁跋扈するこの世界では、小さな集落を作ることさえ難しい。
けれど『聖城核』があれば、広く安全な拠点を即座に確保できる。
だから、ある意味では国王よりも重要な存在だ。
『聖城核』を手にすれば平民でも国王になれる、なんて話まである。
まあもっとも、同じような真似を簡単にできてしまう少女も存在するのだが。
「へぇ。正しく国宝ですね」
その少女はのんびりと述べて、グラスに注がれた果実水を飲み干した。
腰に手を当てて、タオル一枚の姿でごきゅごきゅと。
風呂上りの一杯だ。
ほふぅ、と満足げな息を吐く。
「国どころか、世界にとっても宝と言えます。ですから……」
「そうです! 壊すなんて、とんでもないことです!」
スピアたちは脱衣所で向き合っていた。
ひとまず体を拭いて、それぞれが椅子に腰掛けている。
この後はクリムゾンの街へ向かう予定だったが、その前に話し合う問題が出てきてしまった。
「だいたい、どうして急にそんなことを言い出すんですか!?」
可愛らしい顔を歪めて、エミルディットが声を荒げる。
向き合うスピアも、その剣幕に少し押されてしまったほどだ。
「ん~、シロガネ、説明をお願い」
「はい。つい先程、その石から魔法が発動されました」
え?、とセフィーナもエミルディットも目を見開く。
二人が感じ取れなかったのも当然だ。
たとえ魔法に精通している者でも、気を緩めていれば気づけなかっただろう。
けれど、ひよこ村はスピアの“領域”だ。
その内部に現れたものは、たとえ小さな魔法反応でも察知できる。
「極めて微弱な、隠蔽された魔法です。詳細な解析はまだですが、恐らく、定期的に位置を報せているものと推察できます」
「ここにあるよー、って何処かに伝えてるってことだね」
「そんな……」
説明を受けても、セフィーナたちの困惑は消えない。
半信半疑といった表情だ。
魔法反応があったと言われても、その真偽は確かめようもないのだから無理もないだろう。
しかし信じるだけの材料もある。
「では、近衛騎士に待ち伏せされていたのも……?」
「それが原因だと思いますよ」
セフィーナは首飾りを守るように手を当てる。
正確には、その中心部にある緑色の輝石が『聖城核』だという。
ベルトゥーム王都を守る要を持ち出すのは、セフィーナにとっても大きな賭けだった。
すぐに城壁が崩れるようなことはないが、魔法障壁で街を覆うようなことはできなくなる。魔物の襲撃を受けやすくもなるし、他国の間者が入り込む恐れも増す。
当然、人間同士の争いにも影響する。
もしも反国王派の軍勢が王都へ攻め上がった際には、『聖城核』による守りが最大の障害となるだろう。逆に言えば、『聖城核』さえ無ければ、少ない犠牲で戦いが終わる可能性も高くなる。
セフィーナが狙ったのは、正しくそれだ。
内乱の後には、また『聖城核』を元へ戻すつもりだった。
「スピアさんの仰りたいことは分かりました。ですが、やはり壊すのは承知できません。『聖城核』を失えば、この国は本当に潰えてしまいます」
「まあ、構いません。居場所がバレるくらいは大した問題じゃないですし」
だけど、とスピアは首を捻る。
その言葉を告げるのは、さすがのスピアもほんのちょっぴり躊躇いがあった。
「それ、偽物です」
鈴の音のようにスピアの声だけが響く。
セフィーナもエミルディットも呆然としたまま、なにも答えられなかった。
ぷるるんの全裸……そんな発想はなかったです。
予告通りですが湯気は濃い目。健全空間です。
次回から、そろそろ突撃へ向けての助走に入ります。