お姫様と侍女
ベルトゥーム王国、王都マルヴェール。
大陸でも有数の大都市で、三層に分かれた高い防護壁に囲まれている。
最も古い中央防壁は、かつて『神聖国』の一領土だった時代に造られたもの。古くとも輝きを失わない白い壁は、巨人や竜の突進を防ぐほどの頑強さも保っている。
その奥に聳え立つ王城も白く、大陸一美しい城だとも言われている。
王国民にとっても誇りであり、凶悪な魔物から守ってくれる武力の象徴でもある。
とはいえ、その内部まで美しいとは限らない。
「領地の聖職者どもを全員連れて来い。俺はそう命じたはずだが? 辺境伯には伝わらなかったのか?」
玉座に深く腰掛けて、苛立ち混じりの声で問い掛ける。
半年前に王位に就いたばかりのロマディウスは、まだ二十歳にもなっていない。
頬杖をついて使者を睨んでいる。けれど威圧感は伴っていなかった。
元より穏やかな顔立ちで、体格にもさほど恵まれていない。身分を隠していれば、そこらの平民に紛れるのも簡単だろう。
それでも対峙する使者は跪いていて、ずっと蒼い顔をしている。
「哀れなものだな。辺境伯には、伝令すら務められぬ配下しかいないのか」
痛烈な皮肉を投げられても、使者は頭を下げたままだった。
握った拳は微かに震えている。
これから自分は殺されると、半ば覚悟してやって来ていた。
ロマディウスの悪行は、貴族の間では知れ渡っている。
顔が気に喰わないというだけで、城務めの文官が幾名も殺された。
鎧に反射した光が目についたというだけで首を刎ねられた騎士もいる。
反抗的な報告をした使者を斬るくらい、この王は躊躇いなくやってのけるのだ。
「まあいい。これで辺境伯が敵であるのはよく分かった」
「お、恐れながら陛下、それは違います。いま東方国境で荒事を起こすのは避けるべきだと……」
「意見など求めていない」
冷ややかに、ロマディウスは一方的に告げる。
「顔を上げろ」
使者はずっと頭を下げた姿勢のままだった。
王から重ねて命じられて、ようやく顔を上げる。
そして王と目を合わせた途端、息を呑んだ。
「少しは足掻いてみせろよ」
王はつまらなそうに吐き捨てて、“倒れ込んだ”使者を見下ろす。
使者の胸には影のように黒々とした槍が刺さっていた。背中まで貫いているのに、その黒色には血の染みひとつ付いていない。
胸を貫かれた使者は、悲鳴を上げる暇もなく絶命していた。
玉座から伸びる絨毯には、使者が口から吐き出した血が広がっていく。
「片付けろ」
ロマディウスが命じると、壁際に控えていた騎士たちが動き出す。
彼らも死んだような表情をしている。
黙々と、与えられた仕事を片付けていく。
不満も恐怖も胸の内に抱えているが、もう理不尽な人死にも慣れていた。
無駄口を叩くのも、ロマディウスのみに許された特権だ。
「はぁ、思い通りにはならないな。面倒くせえ」
王らしからぬ言葉を吐き捨てて、ロマディウスはがりがりと頭を掻いた。
窓越しに柔らかな光が注がれている。
外に訪れている冬の寒さも、この部屋の内では無縁のものだ。高価な魔導具が常に稼動しつづけて空気を暖めている。
調度品も品の良い物ばかりが揃えられていて、すべて丁寧に手入れもされていた。
城内で流れる血の匂いも、犠牲者たちの叫びも、この部屋には届かない。
部屋の主が心穏やかに過ごせるよう、王命が下っていた。
けれど部屋で暮らす当人は、そんな籠の鳥のような扱いを望んでいない。
「そう……兄はまた無用な血を流したのですね」
窓からみえる曇った風景を眺めながら、レイセスフィーナはそっと目を伏せた。
白いドレスに包まれた肩が微かに震えている。
その背後では、幼い侍女も困惑した表情を浮かべていた。
「ですが姫様、ロマディウス様にもなにかお考えがあるのかと……」
「……ありがとう、エミルディット。ですがもう決めました」
艶やかな金色の髪を揺らして、レイセスフィーナは振り返る。
今年で十六になるレイセスフィーナは、本来ならばもうこの王宮にはいないはずだった。東の帝国へ婚姻のために向かうことが決まっていた。
半ば人質のようなものだ。
しかし強兵を誇る帝国からの要求を、ベルトゥーム王国は断れない。
それで国境が安定するならば悪い話ではなかった。
レイセスフィーナも国のために尽くすことは覚悟していた。
その婚姻が立ち消えになったのは、兄であるロマディウスが玉座を奪ったためだ。
王位簒奪―――、
貴族間での噂が真実であるのを、レイセスフィーナは知っている。
他でもないロマディウスから、自分が兄王を殺したと告白を受けていた。
「もっと早くに決断するべきでした。ここまで国が乱れてしまったのは、すべてわたくしの甘えが原因です」
「そのようなことは……姫様は、なにも間違っておりません!」
幼いながらも侍女として教育を受けてきたエミルディットは、常に控えめな所作をするよう心掛けている。それでも声を荒げずにはいられなかった。
「ロマディウス様もラングガルド様も、とても仲の良い兄弟であらせられました。それを知っていれば、簒奪など有り得ないと考えるのが当然です!」
「……そうであればと願っていました。ですが、もう戻れないのです」
静かに首を振ってから、レイセスフィーナは顔を上げた。
その眼差しに迷いはない。
「『聖城核』を停止させ、わたくしは城を出ます」
「姫様、それは……危険すぎます!」
「犠牲を少なくするには、これが最善です。アルヘイス公爵の協力を得られれば、兄も命だけは奪われずに済むかも知れません」
ただ城を出るというだけでも、ロマディウスに止められるだろう。
あるいは、斬り捨てられるかも知れない。
かつての優しかった兄はいないのだと、レイセスフィーナも理解していた。
「エミルディット、最後のお願いです。せめてわたくしが城を出るまでは、このことは黙っていて……」
「そのような真似はできません!」
主の言葉を遮るのも、侍女としてはけっしてやってはいけない行為だ。
けれどエミルディットは小さな拳を握って、さらに強く主張する。
「私も一緒に参ります。ですから、最後などと仰らないでください!」
「ですが、危険だとエミルディットも……」
「御一人で行かれるなど、それこそ危険です。国のためと仰られるのなら、私を使い潰すくらいの覚悟はなさってください」
力強く見上げてくる眼差しに、レイセスフィーナはしばし呆気に取られた。
目をぱちくりさせる。だけどやがて柔らかく頷いた。
「……本当に、感謝します」
エミルディットの手を取って、自分の手を重ねる。
そうしてレイセスフィーナは誓った。
この幼い勇気だけはけっして裏切るまい、と。
「す、すべてエミルディットが悪いのです!」
レイセスフィーナはあっさりと裏切った。
「わ、わたくしは騙されただけです。この侍女に唆されたのです」
エミルディットは愕然として顔色を蒼くする。
いやまあ、“あっさり”と言うのは酷かも知れない。
剣を構えた騎士に囲まれて、命の危機を覚えるほどの状況だったのだから。
少なくともこの瞬間までは、主従は協力して旅を続けてきた。
密かに城を出た二人は、平民に紛れて王都から南へ向かった。
質素な服を揃えたり、偽名を使ったり、姉妹をよそおったり。
商隊と同行する知恵を出したのもエミルディットだ。
最初こそ王族専用の秘密通路を使って抜け出した。
けれど世間知らずのレイセスフィーナでは、次の街へ辿りつくのも無理だったろう。
「エミルディットは、随分と物知りなのですね」
「教会にいた頃に色々と習いましたから」
王宮勤めの侍女というのは、本来なら貴族の子女に当てられる仕事だ。孤児であったエミルディットが引き立てられたのは望外の幸運だった。
神聖魔法の才能があり、同年代の子供と比べて利発だったというのもある。
たまたま教会を訪れたレイセスフィーナと話す機会があった。
そこで仲が良くなり、最終的にエミルディットを召し上げたのは、妹への贈り物を探していたロマディウスだった。
「私は御二方には、返しきれない恩があります。ですから、不敬かも知れませんが……以前のように仲の良い兄妹に戻ってほしいのです」
「そう、ですね……わたくしもそう願っています」
そんな願いは叶わないと、もはや分かりきっている。
けれど少しでもエミルディットの憂いを消せればと、レイセスフィーナは淡い笑みを作っていた。
そうして馬車に揺られながら、二人の逃避行はしばらくは順調に続いた。
目的地は王都北西のアルヘイス公爵領。
真っ直ぐ向かうには、その間にあるワイズバーン侯爵領を通らなければならない。けれどワイズバーン侯爵は、王への積極的な協力を申し出ている。
それくらいはレイセスフィーナも把握していた。
なので、その領地を迂回する形で、遠回りにはなるが南への道を選んだ。
正しい選択ではあったのだろう。
けれどあと少しでセイラールの街へ着くというところで、馬車の列は止められた。
「我らは王命によって動いている! 全員、動くな!」
木陰から現れたのは近衛騎士の一団だった。
追っ手というよりは待ち伏せだ。
ほんの十名足らずだが、小さな商隊を止めるには充分な戦力だろう。
護衛の冒険者もいたが、盗賊や魔物相手ならばともかく、彼らには近衛騎士と争う理由はない。
荷物の中まで検分されて、レイセスフィーナは身を隠すことも叶わなかった。
騎士のほとんどは王族の顔を覚えていたし、「ただの街娘です。セフィーナです」と誤魔化そうとしても無駄だった。
そして剣の威圧感に押し負けて、情けない声を上げてしまったのだ。
「あ、兄に申し開きをします。ですから、ここで斬り捨てるのだけは……」
「姫様……」
裏切られたエミルディットも取り乱すのが当然だったろう。
けれど残念そうな声を漏らしても、そこに憎悪や侮蔑は混じっていなかった。
それどころか、レイセスフィーナを慮るように見つめていた。
「……傷つけずに捕らえるよう命じられております」
「そ、そうですか。よかった」
レイセスフィーナはほっと胸を撫で下ろす。
王族の威厳など欠片もない態度に、むしろ騎士たちの方が呆れていた。
幾名かの騎士が嘲笑を零す。
騎士隊長もそれを咎めるでもなく、商隊の方へと冷酷な眼差しを向けた。
「残りは、全員殺せ」
「なっ……!」
レイセスフィーナはとても臆病で恥知らずではあった。
けれど王族としては正しい姿だったのかも知れない。
時には、臣下を犠牲にしても生き残る義務があるのだから。
それに、最低限の良心は持ち合わせていた。
自分の命だけは助かるとあって、余裕も出てきたところだ。
「何故です!? わたくしだけを連れていけばよいではありませんか!」
レイセスフィーナは声を荒げて抗議する。
けれど怯え混じりの声には、騎士たちを止める力など在りはしない。
それどころか、腕を捻じり上げられて押さえ込まれてしまう。
「陛下の御命令です。関わった者は一人も残しておくなと」
「貴方はそれに黙って従うのですか!?」
「いいえ。喜んで従っているのです」
思わぬ返答に、レイセスフィーナは息を呑む。
近衛騎士は笑っていた。
剣を構える全員が、心の底から狂喜しているように頬を吊り上げていた。
「我らは『影近衛』、陛下の御命令に歓喜を覚える者しかおりませぬ。それと人殺しも大好物ですな」
「なにを……貴方がたは、いったい何を言っているのです?」
「ひどい人たちですねえ」
え?、と全員がきょとんとした顔をする。
「やってることは、盗賊と一緒じゃないですか」
呑気な声は、近衛騎士たちの背後から投げられた。
商隊の者はまとめて目の前にいるので、そちらには誰もいないはずだった。
一拍の間を置いて、近衛騎士たちは振り返る。
レイセスフィーナもそちらへ目を向けて、ぱちくりと瞬きを繰り返した。
「これで、わたしも関わっちゃいました。どうしましょう?」
小首を傾げる子供がいた。
黄金色の、ぷるぷると震える塊に乗って。
まるでこれから遊びにでも出掛けるみたいに、朗らかに微笑んでいた。
お姫様かと思った? 残念、汚姫様でした!
そんな出会いから始まる第三章、いよいよ王国の争乱に関わっていきます。
次回更新は週が明けてから。また週三回に戻る予定です。