さよならなんて言わない
紅々と染まった陽が王都を照らしている。
遠く離れた荒野から眺めても、その外壁の雄大さは感じられた。
胸に浮かぶのは感慨と、微かな寂寥だろうか。
自分でもよく分からない感情を抱えたまま、スピアはそっと目を細めた。
「そんなに長く居たつもりはないんだけどねえ」
独り言を呟きながら、腰の下にいるぷるるんを撫でる。
なにかを誤魔化すみたいな仕草だった。
中庭での白仮面騒動の後、スピアはそのまま王都を出た。
ぷるるんに乗ったまま街路を駆けて、門も強引に突破した。目眩ましに暗闇を広げたりはしたが、誰にも怪我は負わせていない。とても“平穏無事に”脱出できた。
連れてきたのは、ぷるるんとトマホーク。サラブレッドもすぐに呼び出せたけれど、エキュリアの愛馬として慣れてきたので預けておくことにした。
あまり深く考えての行動ではなかった。
まあ、いつものことだと言える。なんとなくそうした方が良いと思ったから。
そうしていまは、ぼんやりと夕陽を眺めている。
「いつでも戻れるし。エキュリアさんもいるから、大丈夫だよね」
言いながら、スピアはぶらぶらと足を揺らす。
乗られているぷるるんは、曖昧な返答をするみたいにゆるゆると震えていた。
「これから、どうしようかな……」
しばらく身を潜めておいた方がいいのは分かる。
ひよこ村でのんびりと過ごすのも悪くない。
だけど、いくつか確かめたいこともあって―――、
そう思案を巡らせていたスピアだが、ふと上空へ目を向けた。
一緒に王都を飛び出してきたトマホークが、なにやら甲高い声で鳴いていた。
「んん……? あれは、サラブレッドと……?」
夕陽の眩しさに瞬きを繰り返しながら、スピアは遠くの空を見つめる。
ダンジョン魔法による探知を使えば、相手が何者なのかすぐに把握できただろう。
でも、その必要もなかった。影の形だけでも判別できた。
大きく翼を広げたサラブレッドとともに、ゆっくりと地上へ降りてくる。
「―――スピア!」
「エキュリアさん。お散歩ですか?」
「そんな訳があるか! おまえを追ってきたのだ!」
降り立つなり、エキュリアはスピアへと駆け寄った。
小柄な頭へ手を伸ばすと、わしゃわしゃと綺麗な黒髪を掻き乱す。
「勝手に出て行くな! レイセスフィーナ殿下やエミルディットも悲しんでいたぞ!」
「手紙は残してきましたよ?」
「こんな物で納得できるか!」
声を荒げるエキュリアの手には、一通の紙切れが握られていた。
そこには、『旅に出ます。探さないでください』と記されている。
様式美を守った純朴な手紙だ。
でもやっぱり、エキュリアたちには上手く伝わっていなかった。
「ところで、教会の人達との話は大丈夫だったんですか?」
「問題ない。というか、殿下が凄まじかったぞ。あっという間に大司教を黙らせた。おまえの立場を悪くしてしまったのが、よほど腹に据えかねたようだな」
愉快そうに苦笑を零しながら、エキュリアはその様子を語っていく。
元々、聖教国とは有利に交渉を進められる材料が揃っていた。
けれどその材料を小出しにした結果、相手に付け入る隙を与えたのが失敗だった。ロマディウスやアリエットの件があったために、神の介入を必要以上に警戒してしまったのだ。交渉事の定石として、いきなり切り札を出せないというのもあった。
聖教国が欲するものは分かっていた。
それは、人心を掌握するための『権威』だ。
自分たちこそが最も神への信仰が厚く、最も神に近い場所に居る―――、
そう主張し続けなければ、聖教国は存続できない。
その権威を後押しできるだけの材料を、王国は手に入れていた。
魔将の首―――氷漬けになったそれは、厳重に保管されている。
神々の敵を束ねる将の首だ。信仰の功績として示すには絶好の材料と言える。
聖剣や使徒といったものには及ばなくとも、民衆の支持を高めるには充分だろう。
「元より、あれの保管は聖教国に任せるつもりだったからな。おまえも同意していただろう?」
「はい。首なんて要らないです」
「そう簡単に言い捨てるのもどうかと思うがな……」
肩を竦めながらも、エキュリアも頷く。
「ともかく、その首と引き換えに、こちらの要求はほとんど受け入れさせた。教会の特権など、以前から目に余る部分があったからな。大きな改革となるだろう」
「そうですか……クレマンティーヌさんはどうしてました?」
難しい政治に関しては、実のところスピアはあまり興味はない。
ただ、顔見知りになった相手のことは気になっていた。
短い会話をしただけとはいえ、名前も知っている相手だ。『呪いの白仮面』の作り話で、責任を感じさせてしまったのではと申し訳なくも思っていた。
「殿下は聡いな……言われなければ、私も気づかなかった」
「どういうことです?」
「ああ、彼女のことも心配は無用だ。おまえが気兼ねするのではないかと、交渉の際に殿下が口添えをしていた。これからは王都の教会で務めることになる」
今回の騒動は、クレマンティーヌからの情報が発端になった。
下手をすれば、「魔神の呪いを発動させた」として罪に問われる状況だ。
そこまで詳しい経緯は、レイセスフィーナも掴んでいなかった。
けれど後の影響を考え、誰からも責められないよう手を打ったという訳だ。
「とりわけ彼女は落ち込んでいたからな。教会との連絡役になってもらって、しばらくは様子を見ることにした」
「それなら安心ですね。近い内に、わたしも挨拶に行きます」
「ああ。呪いを打ち払ったとでも言えばいい。どうにでも誤魔化せる」
あまり搦め手は好きではないが、とエキュリアは口元を捻じ曲げた。真面目な性格なので、嘘を嫌うのは仕方ないのだろう。それでも不満は少ない様子だ。
一通りの事情を聞いて、スピアも表情を緩める。
胸に留まっていた寂寥感も、すっかり消えていた。
「では、早々に戻るぞ。殿下も待っておられる」
親衛隊のマントを翻して、エキュリアはサラブレッドの鞍に手を掛けた。
だけど―――スピアは少し考えて、静かに首を振った。
「戻りません」
ぷるるんに乗ったまま、背筋を真っ直ぐに伸ばしてスピアは告げた。
珍しく真剣味の混じった声に、エキュリアも表情を引き締める。
「……どうしてだ? 騒動になるというなら、気に掛ける必要はないぞ?」
「ちょっと行きたい場所があるんです」
「旅に出ると言うのか? しかし準備をしてからでも良いだろう?」
「思い立ったが吉日です」
真剣な顔をしていたのは一瞬だけ。いつもの調子に戻って、スピアは屈託のない笑みを見せた。
だからエキュリアも、呆れ混じりの笑声を零す。
「止めても無駄なようだな。せめて心構えをする時間くらいは欲しかったが」
エキュリアは姿勢を正す。
あらためて真面目な顔になって、スピアをじっと見据えた。
「レイセスフィーナ殿下から伝言を預かっている。もしも戻らないと言った時には伝えて欲しいとな」
「セフィーナさんが……?」
「さすがにこんな事態は予想できなかったそうだがな。おまえには城での暮らしは窮屈ではないかと、そう以前から憂慮しておられた」
スピアは複雑に表情を歪める。
べつに王都での暮らしに不満はなかった。だけど騎士として振る舞えなかったのも事実だ。
だから、いつか出て行くのだろうと、そうセフィーナに思われていても仕方ない。
それは嬉しいような寂しいような、なんとも言えない気持ちだった。
「では伝えるぞ。スピア、おまえに特務巡検士の“称号”を与える」
「特務……じゅんけんし、ですか?」
「本来は、各領地で不正が行われていないか調べるための役職だ。しかし難しく考える必要はない。要するに、何処へ行くのも自由ということだ。貰っておけ」
「分かりました。今度、お礼も言いに行きます」
役職ではなく“称号”としたのも、レイセスフィーナなりの気遣いだろう。
王国に縛るつもりはないという意思表示だ。
それくらいはスピアにも、なんとなく優しい感じがするなあ、くらいには察せられた。
「あ、そうだ。親衛隊の方はどうするんでしょう?」
「ほう。一応は気にするのだな? まったく仕事をしていなかったのに」
「むぅ、当然です。わたしは隊長だったんですよ」
「そして、これからも隊長だ。ザーム殿が隊長代理になる」
過労で倒れなければ良いが、とエキュリアは苦笑する。
さらりと言われたが、その返答はスピアにとって予想外だった。
「いいんですか? みんな大好き親衛隊長ですよ? 他にやりたい人もいそうです」
「おまえ以上の適任者はいないそうだ。過分な賞讃だな」
「誉められるのは嬉しいですけど……エキュリアさんが務めれば、セフィーナさんも安心だと思います」
「うん? なにを言っている?」
腰に手を当てて、エキュリアは得意気に口元を吊り上げる。
いつもはスピアに驚かされてばかりなので、お返しができて上機嫌らしい。
「私はおまえに同行するのだ。当然ではないか」
ぱちくりと、スピアは瞬きを繰り返す。
こてりと首を傾げて、また逆方向に首を傾け、しばしエキュリアを見つめていた。
まるで不思議なものを見た子供みたいな反応だ。
対するエキュリアは、軽やかに咽喉を鳴らす。
「そんなにおかしなことか? おまえが故郷に帰るまで付き合うと、そう約束したではないか」
「むぅ。エキュリアさんは行き当たりばったりです」
「おまえが言うな! 今回の件にしても、ほとんど思いつきだろうが!」
鋭く指摘されて、スピアはそっと目を逸らす。
だけどその口元は緩んでいた。
「大変ですよ? どうやったら帰れるかも、まだ分かってないんです」
「覚悟の上だ。今更、断るなどとは言うまい?」
問われて、スピアは軽く目蓋を伏せた。
だけど考えるまでもない。答えは決まっている。
「嬉しいです。ぷるるんも喜んでます」
ぷるっ!、と黄金色の塊が嬉しそうに揺れる。
その隣で、スピアも笑顔を輝かせた。もちろんエキュリアも―――。
「それで、行きたい場所があると言ったな。何処を目指すのだ?」
「帝国です」
「……ゼラン帝国か。また唐突な……」
思わぬ単語が飛び出して、エキュリアは眉根を寄せる。
国境を越えるというだけでも、いくつも問題が立ち塞がるのは確実だった。
「まあいい。詳細は道すがら……と言いたいところだが、もう夕刻だな」
もう随分と影が長くなっている。
二人が立っているのは街道沿いで、そのまま進んでも一応は帝国へと向かえる。
けれど日数の掛かる旅になるので、しっかりと予定を組んだ方が賢明だった。
「そうですね。いまから急いでも、すぐに夜ですし」
「やはり一度は王都へ戻った方が……」
「ひよこ村へ戻りましょう」
言うが早いか、スピアは空中に『倉庫』の口を開く。
石造りの転移陣を取り出すと、無雑作に地面の上に置いた。
「ちょっ、待て! どうしてそこで、ひよこ村になる!? だいたい、こんな場所に転移陣を設置するなど……」
「大丈夫です。草でカモフラージュしておけば、まず見つかりません」
スピアはぷるるんに手招きすると、一緒に転移陣の上に乗る。トマホークもすぐに降りてきた。
溜め息を落とすエキュリアだったが、ここで置いていかれる訳にもいかない。
サラブレッドの手綱を握ると、スピアの隣に立った。
そうして転移陣が起動して、青白い光が広がっていく。
「エキュリアさん」
光に包まれながら、スピアはエキュリアを見上げた。
屈託のない笑顔とともに言う。
「これからまた、よろしくお願いします」
「ああ、もちろん―――」
エキュリアの言葉は転移の光に飲み込まれる。
だけど優しげな眼差しは届いていて、それだけで充分だった。
やがて青白い光は消えて、荒野はふたたび夕陽が支配する場へと変わる。
寂しげに佇む少女は、もう何処にもいなかった。
良い話っぽく一区切りです。
次回から帝国へ向かいます。
それと、あけましておめでとうございます。