エピローグ
静謐とした空気が佇んでいる。
王宮図書館はいつものように閑散としていて、物音ひとつ聞こえない。
一時は、妖乱黒蛸の資料を探すために騎士や文官が何人も訪れていた。だけどその騒動も落ち着いて、司書であるアリエットにも緩やかな日常が戻ってきた。
ただひとつ違うのは―――。
「―――わぁっ!?」
静寂を揺らして、可愛らしい声が響いた。
どさどさと、積まれていた本が落ちる。
尻餅をついた妹の姿に、アリエットは小さく笑みを零した。
「リゼットがこんなにドジだったとは知らなかったよ」
「もー! 違うの! ちょっと躓いただけだもん」
頬を膨らませて、リゼットは散らばった本を拾っていく。
スピアの治療―――と言えるのかは甚だ疑問な施術を受けてから、リゼットは順調に健康な体を取り戻していた。まだ何もない所で転んだりするけれど、それも思い通りに動く体に慣れていないのが原因のようだ。
もう発作を起こして倒れることもない。
司書見習いとして、こうして働くこともできている。
「でも図書館の仕事って大変なんだね。古い資料とか、もっとちゃんと保管されてるのかと思ってたよ」
「後回しにされやすい仕事だからね。あ、これも写本しないと」
「いつまでも終わりそうもないねえ」
悲観的なことを言いながらも、リゼットは嬉しそうに笑顔を輝かせる。
「つまり、いつでも人手不足。クビの心配もない。よし、頑張ろう!」
「変な方向で張り切らないでよ。ほら、こっちの目録も作っておいて」
「わぁっ! 新人にも容赦なしだね」
リゼットは声を弾ませて、また増えた仕事に取り掛かる。
アリエットは仕方ないなあと肩を竦めながらも、口元を優しく緩めていた。
そうして姉妹二人は机を挟んで、分厚い本をめくり、筆を握る。時折雑談を交わしつつ、テキパキと作業を進めていく。
「……おねぃちゃん、ありがとう」
ふと、リゼットが小さく唇を揺らした。
だけどアリエットは気づかない。じっと本のページを見つめ続けていた。
「ん……? 疲れたなら少し休憩しようか?」
「ううん。おねぃちゃん、とってもかっこいいね」
「な、なによ急に! そんなこと言っても、甘やかさないんだからね!」
アリエットは頬を紅く染めながら顔を背ける。
そんな姉の様子を眺めながら、リゼットはとても幸せそうな笑みを浮かべていた。
昼過ぎになって、アリエットは図書館の一室を訪れた。
特別閲覧室。ほとんど思いつきで作られた、贅沢で快適な部屋だ。
その部屋にスピアはいた。ソファに寝転んで、妙に分厚い本を読み耽っていた。
「あの、スピアさん? もうお昼ですけど……」
昼食のために一旦図書館を出るので、アリエットは声を掛けてみた。
よろしければ一緒に、と続けようとしたところで、スピアが勢いよく顔を上げた。
「もうそんな時間ですか?」
「え? あ、はい……ありますよね、集中していて時間を忘れちゃうことって」
少々驚かされたアリエットだが、苦笑しつつ言葉を返す。
本を抱えたまま困った顔をするスピアは、素朴な子供みたいだった。頼もしくてもドジなところもある妹の姿と重なって、アリエットは柔らかく目を細める。
それに、どんな形であれ夢中になるほど本を読んでもらえるのは嬉しい。
書物が人に喜ばれるのは、司書であるアリエットにも誇らしいことだ。
「むぅ。お昼前には移動するつもりだったのに」
「なにか予定があったんですか?」
「予定というか、予測です」
端的すぎる返答に、アリエットは首を傾げる。
でも疑問は放置されるままで、スピアはソファから立ち上がった。
「それじゃ、お昼御飯にしましょう。リゼットちゃんも一緒なんですよね?」
「はい。ちょうど仕事も一区切りしたので……あ、待ってください」
流されそうになったアリエットだが、辛うじて踏み止まる。
呼び止めたスピアの前に立つと、眼鏡を上げ直した。
そうしてしっかりと姿勢を正して、真っ直ぐに向き合う。
「遅くなりましたけど、きちんとお礼と謝罪を申し上げたかったんです」
アリエットは深々と頭を下げる。
これまでは事件の事情説明に追われたり、スピアが捉まらなかったりして、後回しになってしまっていた。
何が起こったのかの詳細は、未だにアリエットにも全容は掴めていない。
けれどスピアに救ってもらったのは疑いようがない。
アリエットが裏切りを行ったのも事実だ。
だというのに、事件の後もスピアはアリエットを守ってくれた。
王都全体を騒がせる事件だったために、エキュリアやレイセスフィーナへの事情説明はアリエットも直接に行った。見たままを包み隠さずに打ち明けた。
親衛隊長を罠に嵌めたのだから、重罪人として処断されてもおかしくなかった。
どういう形であれ魔神と関わったリゼットも、危険だとして排除される可能性は高かった。
それでもスピアは庇ってくれた。だからこうして無事でいられる。
どんな遣り取りがあったのか、アリエットは詳しく聞かされていない。
だけど返しきれない恩義ができたのは間違いなかった。
「けっして赦されたとは思っていません。どれだけの贖いが出来るかも分かりませんが……」
「気にしないでください」
重々しく謝罪を述べようとしたアリエットを、スピアは一言で押し留めた。
そうして、朗らかに口元を緩めてみせる。
「わたしも魔女狩りみたいな真似は嫌いです」
アリエットはぱちくりと瞬きを繰り返した。
相変わらず、スピアの言葉は理解が難しい。だけどその屈託のない笑顔は、すべてを許すと語っていた。
もちろんアリエットは、それで己の過ちを忘れはしない。
だけど、張り詰めていた心は少しだけ軽くなっていた。
「それよりもご飯です。育ち盛りのリゼットちゃんを待たせちゃ可哀相ですよ」
スピアは両腕を広げて、早く行こうと催促する。
その様子は、まるっきり育ち盛りの子供みたいだった。
アリエットは半笑いになりながらも黙って従う。でも閲覧室から出ようとしたところで、その扉が勝手に開かれた。
カツン、と苛立たしげな足音が響く。
「見つけたぞ、スピア!」
部屋に入ってきたのはエキュリアだった。
眉を吊り上げて、頬を歪めている。怒っているのがありありと分かる。ある意味ではいつもの表情だ。
ああ。また何か仕出かしたのか―――、
そう瞬時に理解したアリエットは、静かに部屋の隅へと身を引いた。
「あれ? 大切な会議はもう終わったんですか?」
「ああ! ザーム殿が隊長代理を務めてくれたおかげでな!」
エキュリアは握った拳を震えさせる。
今日は朝から、城勤めの主だった騎士や文官が集まる会議が行われていた。女王代理であるレイセスフィーナも出席するため、親衛隊長であるスピアも同席するように言われていた。
大切な会議というだけで、お堅い場であるのは容易に想像できる。
だからスピアはお休みをいただいた。もちろん、こっそりと。
エキュリアが探しに来るにしても、会議の間は動けないだろうと予測したのだ。
「今回は聖教国に関わる大事な話があると……ああもう! どうしておまえは肝心なところで真面目になれないんだ!」
「まあまあ、落ち着いてください」
「怒らせている原因が偉そうに言うな!」
鼻息も荒く、エキュリアはスピアへと詰め寄る。
いつもなら頬っぺたを摘まれたり、こめかみをグリグリされるところだ。
だけど、今日のスピアは一味違う。
「今回は、ちゃんと理由があるんです」
平坦な胸を反らして自信たっぷりに言い返す。
怒られるのは予想できたので、それへの対応も用意してあった。
はじめから怒られなければ良いというのはともかくも。
「ここは図書館で、わたしはずっと本を読んでました」
「……それがどうした?」
「つまり、司書見習いの仕事をしてたんです。サボってません」
「本を読むのは司書の仕事ではない!」
言い訳はまったく通用しなかった。
鋭いツッコミとともに、スピアはがっしりと頭を掴まれる。そのままギリギリと締めつけられていく。
わたわたとスピアは暴れるが、エキュリアの手は逃がそうとしない。
「エキュリアさん、すとっぷです! わたしの頭はリンゴじゃありません!」
「やかましい! だいたい、勝手に司書見習いを名乗るのもおかしいのだ! ひとつでもまともな仕事をしていたのか!?」
「……言われてみれば、ごろごろしてただけな気がします」
頭を掴む腕に、いっそう力が込められる。
スピアは涙目になって助けを求める。ちょうど横にいたアリエットと目が合った。
「えっと、その……」
眼鏡を上げ直しながら、アリエットは視線を彷徨わせる。
額に青筋を浮かべるエキュリアと、ちょっと楽しげにも見えるスピアと、交互に見比べてから頷いた。
「お探しの本などありましたら、お呼びください」
一礼すると、アリエットはそそくさと閲覧室を後にした。
内心でスピアに謝りながら、言い訳もする。
仮にも司書長なのだから、司書見習いを教育するのも務めなのだ、と。
そうして足早に立ち去ったアリエットは、図書館入り口へと向かった。
「あれ? おねぃちゃん、スピアさんは? なんだか怖い顔をした女騎士様が入っていったけど……」
「大切な話があるんだって。残念だけど、先に行ってよう」
妹の手を引いて、アリエットは優しげな微笑を浮かべる。
その表情にはずっと抱えていた悩みの陰はない。
柔らかな陽射しに照らされた廊下を、姉妹二人は軽やかな足取りで歩いていった。
スピアが知的な司書になれる日は遠そうです。
次回からは幕間を三本、そして新章へ入ります。