姉妹の朝、隠し味を加えて
柔らかな陽射しが窓から差し込む。
春先とはいえ、まだ明け方には冷え込むことも多い。
室内にも侵入してきた冷気に、アリエットは小さく肩を震えさせた。
「ん……?」
ぼんやりと目蓋を押し開ける。
アリエットはベッドの脇にいて、椅子に座ったまま眠ってしまっていた。
「あれ……? どうしてこんなところで……?」
寝惚けた頭に手を当てて、記憶を探る。
昨夜の騒動で、屋敷は半壊してしまっていた。地下室で魔法陣が崩壊したり、黒蛸が暴れたりしたためだ。妹も意識を失っていたので、アリエットはひとまず何処かへ避難しようとした。
城に行けば、とりあえずは安全だろう。
街で魔物が暴れているかも知れないけど、なんとか通り抜けるしかない。
スピアのことも気になる。だけどまずは妹の安全が最優先。
謝るのも、罰を受けるのも、後でいくらでも―――、
そう考えをまとめたアリエットは、妹を抱えて駆け出そうとした。
でも直後に、スピアが戻ってきた。
あっという間に魔法で屋敷を修復すると、夕食を食べて、すぐに客間で眠ってしまった。
アリエットはもう状況に流されるままだった。
「そっか、リゼットの様子を見ながら眠っちゃったのか……」
妹の部屋にいる状況を、ようやくはっきりと思い出せた。
目立った怪我は負っていなかったリゼットだが、意識は回復せず、苦しげな様子が続いていた。だからアリエットは付き添っていたのだ。
そう頭の中を整理し終えたアリエットは、正面にあるベッドへと目を移す。
そこで、気づいた。
「え……? リゼット!?」
ベッドはもぬけの殻だった。
アリエットは慌てて立ち上がると、布団をめくり上げた。
やはりそこには誰もいない。けれどまだ微かな温もりが残されていた。
起きて部屋を出て行っただけ―――、
そうとも考えられたけれど、妹の体調を思えば安心はできない。
アリエットはすぐさま部屋を飛び出した。廊下に出て、声を上げようとしたが、その前になにやら楽しげな声が流れてきた。
その声の方向へとまた駆け出して、扉を開く。
「そこでぷるるんがもきゅもきゅして……あ、アリエットさん。おはようです」
「おはよう、おねぃちゃん」
食堂にいたスピアとリゼットが、爽やかに挨拶をする。
二人ともエプロン姿だ。
どうやら朝食を作っていたらしい。スピアはスープを掻き混ぜながら、ソーセージを咥えてつまみ食いもしていた。
のんびりとした様子を見て、アリエットはへなへなと座り込む。
スピアとリゼットは不思議そうに首を傾げていた。
朝食のスープを口へ運んで、アリエットはほっと息を吐いた。
温かな美味しさが体に染み込んでくる。昨夜はほとんど食事も咽喉を通らなかったので、いっそう美味しく感じられた。
そうして落ち着いたところで、アリエットはあらためて顔を上げた。
「えっと……リゼット、本当に体は大丈夫なの?」
「うん。調子が良いとかじゃなくて、すっかり病気が消えちゃったみたい」
リゼットは両腕を広げて、元気一杯の笑顔を見せる。
強がりではなさそうだけれど、それでもアリエットは素直に喜べなかった。
妹に快復して欲しいと、ずっと願っていた。
だから本当に病が消え去ったのなら、これ以上に嬉しいことはない。
でも、あまりにも唐突すぎる。
昨夜の騒動とも相まって、アリエットは混乱から立ち直れずにいる。
「あの……スピアさんが、何かしてくれたんですよね?」
アリエットは躊躇いがちに訊ねる。
無理だろうなあ、と半ば諦めながらも説明が欲しかった。
「ダンジョン魔法で、通路を元通りにするようなものです」
「はぁ……」
「なので、健康になりました」
「……さっぱり分かりませんよぅ」
やっぱりダメだった、とアリエットは項垂れた。
リゼットが患っていた『雷光病』は、大元の原因は魔神の呪いによるものだ。複雑な呪詛は無作為に人を襲い、様々な苦痛を与えるようになっていた。
けれどスピアは、呪いそのものを叩き壊した。
だからもうリゼットが苦しむことはない。
後遺症として体内の魔力回路がボロボロにされていたが、そちらもダンジョンの通路を修復するように元通りにしておいた。以前に、傭兵たちの『呪刻陣』を封じた際にも魔力回路を弄っていたので、問題なく治療を行えた。
リゼットは完治した。一言で表すなら、そういうことだ。
それをスピアが説明しようとすると、どうにも理解不能なものになってしまうのだが。
「あ、そうだ」
ふと思い出したように、スピアが食事の手を止めた。
服のポケットをまさぐり、“それ”を取り出す。アリエットが持っていた英知の女神のお守りだ。
「地下室に落ちてました」
簡潔に述べたスピアは、お守りをテーブル越しに差し出す。
アリエットはしばしそれを見つめていたが、やがて静かに首を振った。
「もう要りません。怖いですし……処分をお願いしても構いませんか?」
「そうですね。いまも覗いてるみたいですし」
え?、とアリエットが口を開く間に、スピアは指を伸ばしていた。
まるで目潰しをするみたいに、お守りへ突き入れる。
何気ない動作だった。でも直後、痛々しい女性の悲鳴が響いてきた。
「ちゃんと片付けておきます」
スピアは涼やかに述べて、お守りを握り潰す。
アリエットもリゼットも目を白黒させていたけれど、無言で頷き合い、疑問は放置することにした。
体調が回復したとはいえ、しばらくは安静にしていた方が良い。
そうリゼットに言い聞かせると、アリエットは屋敷を出た。
スピアと並んで歩いて城へと向かう。朝の静けさは漂っているものの、普段よりもそこかしこが騒がしく感じられた。
「……やっぱり、昨夜の妖乱黒蛸の影響でしょうか?」
「もう全滅したって言ったんですけどねえ」
ちょうど巡回している兵士と擦れ違ったので、スピアは軽く手を振ってみる。
人の好さそうな中年の兵士が、笑顔を見せて手を振り返した。どうやら朝から元気な子供に会ったと思われたらしい。
「でも訓練にもなりますね。災害対策は大切です」
「まあ、災害みたいな魔物でしたけど……」
控えめに述べるアリエットの顔には、まだ不安が残っている。
きっと巡回している騎士や兵士たちも、似たような気持ちだろう。
現れたのが魔神の使徒だと知っている者は少ない。
それでも、街の中に魔物が現れたのだから一大事には違いない。
一瞬で数名の騎士を戦闘不能にするほど手強いとあっては、一晩経っても警戒を続けるのは当然だった。
もう安全だと確信しているのはスピアのみ。
あとは、そのスピアの言葉を信じられる者も含まれるのだが、詳しい説明が無いので完全な安心を得るのは難しかった。
それと、別の懸念を抱えている者もいた。
「あ、エキュリアさん。おはようございます!」
「……ああ。おはよう」
城門の前で、エキュリアが腕組みをして立っていた。
元気良く挨拶をしたスピアに対して、低い声で返して唇の端を歪めてみせる。
アリエットは立ち止まり、一歩退いた。
「あれ? どうかしましたか? 朝から怒ってるのはよくないですよ?」
「おまえは……ああもう! そうだったな! 心配など要るはずもなかったのだ!」
うがぁっ!、とエキュリアは頭を抱えて吠える。
城門前だったので見張りの兵士が呆気に取られていたが、エキュリアはまったく気に留めていなかった。
そのままスピアに詰め寄って頬っぺたを摘み上げる。
流れるような動作で、鬼気迫るというか、凄まじく磨き抜かれた技量を感じさせた。
「いはいれふ!」
「勝手にいなくなるんじゃない! こちらは夜通し警備に当たって、おまえを探すのにも人手を割いて……アリエット! 貴様もどうしてすぐに知らせない!?」
「す、すいません!」
アリエットからすれば完全な巻き添えだった。
けれど抗弁なんて出来る雰囲気ではなく、睨まれるまま頭を下げるしかない。
そうしてエキュリアのお説教は続く。
朝から怒られるなんて、けっして嬉しいことではない。
でもなんだか、普段の日常が戻ってきた気もして―――、
頭を下げながら、アリエットはくすりと微笑んだ。
覗きを目潰しで撃退。
懲りない英知の女神ですが、しばらくは大人しくなるでしょう。
次回、第五章エピローグです。