ダンジョンマスターvs魔神の片腕①
最初の姿は、実体の無い靄のようなものだった。
けれどその黒靄が集まって、ぬめりとした姿となっている。
もうすっかり陽は落ちているけれど、暗がりの下でも、黒々とした蠢きは異彩を放っていた。
そこらの馬車には収まらないほどに大きい。熊や牛でさえ丸ごと捕食できそうだ。身体の下部から十数本の触手が生えていて、辺りを探るように蠢いている。
生理的な嫌悪感を覚える者もいるであろう、その姿は―――、
「おっきなタコですね」
スピアに言わせると、そうなる。
しかし蛸と言うには禍々しすぎる。大きさも普通の蛸の十倍以上はあるし、触手の数も違う。頭部に見える―――正確には腹の部分は奇怪に膨れ上がっていて、まるでビッシリと卵が詰められているようなコブが無数にあった。
触手の合間からは、息を吐くように黒々とした靄が溢れてきている。
その靄に触れられた芝生は、見る間に萎れてボロボロと崩れ落ちていった。
「まさか、妖乱黒蛸……!」
妹を抱えたまま、アリエットが蒼褪めた顔をする。
スピアはその正面に立ちながら、問い返した。
「有名な魔物なんですか?」
「あれは……魔物の枠には収まりません。使徒です。魔神ギルンベルグの!」
戦慄が、アリエットの声を震えさせていた。
魔神ギルンベルグ―――、
その名を口にすることすら躊躇われる。恐怖の象徴。
かつて最も人を憎悪し、最も多くの凄惨な死を振り撒いた。
神々の使徒や、『はじまりの王』に仕えていた騎士が何人も喰われた。
封印された現在でも人々を呪い、復活の時を待ち侘びているという。
子供でさえ、その名を恐ろしいものだと知っている。
悪戯をすると魔神ギルンベルグに連れていかれる、というのはお決まりの叱り文句だ。
だからアリエットが泣き出しそうな顔になるのも無理はない、が、
「トゲトゲっぽい名前ですねえ」
スピアの感想は呑気なものだった。おぞましい姿に怯んでもいない。
それどころか、あっさりと告げた。
「とりあえず倒しましょう。海産物の評判を下げられても困ります」
「え……? で、でも、相手は魔神の使徒で……」
「ぷるるん、フルバースト!」
どん!、と地面を叩く音が響いた。
少し離れた位置にいたぷるるんが、夜空高くへと跳ね上がる。
そして放たれる水流砲。幾筋もの水流が、凄まじい勢いで撃ち下ろされた。
『QUUUOOOOOooooo―――』
奇怪な叫びとともに、黒蛸がバラバラにされる。
六魔将の一人、グルディンバーグさえも屠ったぷるるんフルバースト。その信頼性は高い。呆気ないけれどこれで決着―――とは、ならなかった。
千切れた頭部が、ぶるぶると震えた。
元より奇妙に膨れ上がっていたが、無数のコブがさらに大きくなる。
そして、ギョロリ、と。
その目蓋を開いた。卵にも似たコブは、すべてが眼球だった。
直後、眼球から光線が放たれる。ただの光ではなく、屋敷の壁を貫き、樹木を焼くほどの威力を持った熱線だ。
それが数十、あるいは百を越えて四方八方へと放たれた。
「ひぃっ―――!?」
アリエットは情けない声を上げながらも、妹を胸に抱えて守ろうとする。
その正面にスピアは立って、空間を歪めた障壁を展開させた。
向かってきた熱線は障壁ですべて弾く。アリエットやリゼットの身に被害はない。
ぷるるんは少し焼かれたけれど、さして堪えた様子はなかった。
けれど散らばった熱線は、周囲の建物や街路樹など、無差別に被害を及ぼした。
そこかしこで破壊音が響く。
あちこちから火の手が上がる。
咄嗟のことで、スピアも周囲にまで意識を向けられなかった。
「い、いったい何がどうなって……?」
ほぼ一瞬で巻き起こされた大惨事に、アリエットの思考は追いつかない。
けれど困惑している間にも、事態はまた動こうとしていた。
残った黒蛸の目玉が空中に浮かぶ。数十の目玉の内、いくつかがスピアを睨んだ。どうやら敵だと認識はしているらしい。
スピアも目玉の群れを排除すべく、静かに腰を沈める。
しかし睨み合いはすぐに終わった。目玉が逃げ出したから。
「むぅ……ぷるるんは待機で。二人を守っておいて」
言いながら、スピアは手刀を振るった。
空間が斬り裂かれて、離れていく目玉数体を仕留める。
同時に、空中から鉄球も降ってきた。そちらも目玉をまとめて叩き潰す。
けれど全滅とはいかなかった。
残った目玉が暗闇へ紛れていく。逃げ出す、というよりは他の獲物を探しに行ったのだろう。
「ぁ……マズイです! 妖乱黒蛸は見境無く人を襲うと言われています! 人の悪意を糧にするとも。放っておいたら……街中に被害が及びます!」
アリエットが混乱しながらも的確な分析を叫ぶ。
その声を背中で受けながら、スピアはすでに駆け出していた。
一匹も逃がしてはいけないのは、なんとなく分かっていた。アリエットの言葉で、それは確信に変わった。
闇に紛れた目玉は、二十体か三十体か、いずれにしても街中で暴れたら大変な被害が出るだろう。しかも逃げた先で、また分裂して増えるかも知れない。
いや、まず間違いなく増える。
そうなったら、被害は加速度的に増えていく。
どれだけの人が犠牲になるか、想像しただけでも嫌になる。
だからスピアは、走りながらも頷いて返した。
「大丈夫です。わたしは親衛隊長で、司書見習いですから」
だったら何なのか!、とアリエットは問い返したくなる。
けれどその反論は、ちらりと振り返ったスピアの表情で押し止められた。
子供っぽい笑みは自信たっぷりで。
アリエットは思わず目を見開くと、安堵混じりの苦笑を零していた。
◇ ◇ ◇
夜の貴族街を、三名の騎士が肩を並べて歩いていた。
これといって目立つところのない中級騎士たちだ。いつものように城での仕事を真面目に終えて、帰宅するところだった。
街路を歩きながら、同僚同士のなんでもない雑談を交わす。
一時期は騒がしかった城内も落ち着いてきた―――、
部隊に入った新人がなかなか見所がある―――、
文官に口うるさいが可愛い女の子がいる―――、
廊下を歩くキングプルンを見掛けた―――、
そんな会話を交わしている内に、ふと一人が肩を揺らす。
不意に、背筋を撫でられたような悪寒を覚えた。伊達に騎士を名乗っている訳ではなく、すぐさま腰の剣に手を当てて振り向く。
妙な気配が漂っていた。
けれど、辺りには暗闇が広がっているだけ。
「……どうした?」
他の二人も神妙な顔になって訊ねる。
暗がりに怯えたのか、なんて茶化さないくらいには同僚を信頼していた。
「よく分からん。だが、念の為に警戒してくれ」
「何も感じないが……」
「いや、俺も首の辺りがムズムズする。どうにも嫌な感じだ」
三人は剣を抜いて、其々の死角を補う形で身構えた。
慎重に周囲を窺う。昼間は見通しのよい広い街路だが、いまは薄っすらと月明かりに照らされているだけだ。道の脇には茂みもあって視線が通らない場所も多い。
「ゆっくりと移動するぞ。一旦、城に戻って……ッ!」
がさり、と茂みが揺れた。
全員の注意がそちらへ向く。
直後に別方向から襲撃が―――なんて想像が、頭の中を掠めもした。
けれど、それは真っ直ぐに姿を現した。
揺れた茂みから、太いミミズのような影が何本も這い出てくる。
蛇が鎌首をもたげるように蠢いた影は、そのまま騎士たちに襲い掛かった。
「まさか、魔物だと!? こんな街中に!」
「くそっ! 兵士たちは何をやってる!」
「信号弾を上げるぞ! 一匹とは限らない、注意しろよ!」
其々に声を上げながら、襲ってきた細い影に対処する。
触手のような影を剣で弾き、あるいは避けつつ、距離を取った。その間に一人が魔法を発動させて、空高くへと発光弾を打ち上げる。
三人ともまったくの無傷。異常を広く報せることもできた。
不意の襲撃に対して、ほぼ完璧な対応だった。
だが、影から現れたモノは尋常な手合いではなかった。
「な、なんだコイツは!? こんな禍々しい魔物は初めて見るぞ!」
「気をつけろ。剣が……!」
驚きは、ふたつ。
まず暗がりから現れた魔物―――妖乱黒蛸の外見に対して。
大きさは子牛程度で、戦いに慣れた者ならば恐れるほどではない。けれど複数の触手を生やし、ぬめりとした姿は、騎士たちには見慣れぬものだった。
二つ目は、触手を弾いた剣に対して。
ほんの一瞬、魔物に触れただけだった。なのに刃の部分が黒ずんで、ボロボロと崩れ落ちている。まだ辛うじて折れていないが、武器としてはほとんど使い物になりそうもなかった。
「動きは早くないな。魔法で攻めるか?」
「ああ。だが油断するな―――ッ!?」
言葉を遮ったのは光。
魔物の頭に見える部分から、ギョロリ、と目玉が浮かび上がった。
その三つの目玉が、矢のような光を放ったのだ。
あまりにも予想外の攻撃に、騎士たちは反応すらできなかった。
放たれた光線は、二人の騎士を貫く。一人が無事だったのは単純に運が良かっただけ。
「なっ……お、おい、二人とも、しっかり……!」
倒れ込む同僚に、咄嗟に手を伸ばそうとした。
けれどその騎士を触手が襲う。咄嗟に剣を構えたが、体ごと弾き飛ばされた。
壁に叩きつけられ、騎士は濁った悲鳴とともに血を吐いた。
『QUUuuuuOOOooooo―――』
黒蛸が勝ち誇ったような声を上げる。
騎士は片膝をつきながら、己の剣と、倒れ伏している同僚たちへ視線を送った。
剣は半ばから折れている。同僚たちもまだ息はあるようだが、立ち上がるのは難しそうだった。大量の血が地面に流れていて、放っておけば間違いなく命を失うだろう。
助けが来るのは、たぶん間に合わない。
信号弾を上げたのはつい先程のことだ。城からは距離があるし、運良く治療術師が近くにいる可能性も低い。
もう同僚を助ける手段はない?
だったら、自分は逃げ出しても構わないのでは―――、
そんな考えも、騎士の脳裏を掠めていった。
「はっ、仲間を見捨てる? そんなんで騎士を名乗れるものか!」
言い捨て、震える膝を押さえて立ち上がる。
まだ助かる可能性はゼロではない。
魔物を片付ければ、止血程度はできる。治療だって間に合うかも知れない。
「掛かって来い、化け物! 王国の平和は―――」
「とぉぉぉぉぉりゃあああぁぁぁーーーーー!」
可愛らしい声とともに、子供みたいな影が突撃してきた。
そして魔物が炸裂する。まるで内側から爆発したみたいに。
はぁ?、と騎士は愕然とした声を漏らすしかなかった。
なにがなんだか分からない。
恐るべき魔物を、子供が飛び蹴りで倒した―――なんて目の前で見ても信じられなかった。
突撃してきた子供みたいな少女は、華麗に着地する。
くるりと身を翻した少女を見て、騎士は思わず声を上げた。
「お、おまえは……」
その顔には見覚えがあった。城内の一部で噂にもなっていた。
いつものキングプルンは一緒ではなかったけれど―――。
「チビっ子親衛隊長!」
「子供じゃありません!」
抗議の声とともに振り返ると、スピアは騎士に治療薬をぶっかけた。
こうして、王都の長い夜は始まった。
ダンジョンマスターvsタコの群団。
触手は一絡みも出来ませんでした。