ダンジョンマスターvs英知の神④
仄かな光を纏った拳を、スピアが素早く突き出す。
まるで羽虫を叩くような軽やかな動作だ。
けれど響く音は鈍く、痛々しい。そして容赦無い。
『や、やめっ……わたくしはっ、神で、こんなブベぇっ!?』
錐揉み回転をして、メルファルトノールは地面を舐める。
そのまま突っ伏して、ビクビクと痙攣する。
神の威厳とか、風格とか、なにもかも台無しだった。
「この技だと、殴るしかないのが不便です」
呑気な口調で零して、スピアはまた拳を振るう。
神の色々なものを壊した犯人だというのに、悪びれた素振りもない。
そのスピアの正面に、アリエットは座り込んでいた。
胸元で輝く『聖痕』に小さな拳が打ち込まれるのを、黙って受け止めている。
アリエット自身への被害は皆無だ。殴られる痛みもない。だけどそのたびに背後で神が悶絶するので、大変なことが起こっているのは察せられた。
失っていた意識は、スピアが治療薬をぶっかけてくれたおかげで回復した。
他の細かな怪我も治っている。
だけど、とても落ち着いてはいられない。
いっそ気絶したままの方が精神的には安全でいられたかも。
とんでもない事態の中心にいるのでは―――、
そう困惑するアリエットは、冷や汗が流れるのを堪えきれなかった。
なんかもう笑うしかない。
操られていた時とは違った意味で、またその瞳は虚ろになっていた。
『ぐっ……こんな真似をして、許されるとおブフッ!?』
「しぶといですね。割と必殺のつもりでやってるんですけど」
自分の吐瀉物に埋もれるメルファルトノールを横目に、スピアはまた拳を突き出す。
カエルが潰れたような悲鳴が響き渡った。
所謂、浸透撃。打突の衝撃を相手を貫くように伝える技。
スピアが行っているのは、その応用だ。
メルファルトノールと繋がっている『聖痕』を介して、衝撃を伝えている。
ほとんど距離を無視した技だが、スピアは元よりその手段を持っていた。
ダンジョン魔法には、時間や空間に干渉するものも多い。
例えば転移陣。広大なダンジョンを管理するとなれば、階層間を行き来する手段として転移陣は必要不可欠になる。他にも召喚魔法など、時空への干渉を当り前のように行っている。
それらを応用すれば、神域にも干渉可能―――なんて無茶苦茶な理屈だ。
だけどスピアはやってのけた。
『有り得まっ、せんわ……だいたい、わたくしの神域に干渉なブゴぉっ―――』
メルファルトノールが混乱するのも、まあ無理はなかった。
そもそも神が傷つくというのが有り得ない。
痛みすら、最後に味わったのはいつだったか、記憶を探るのが難しいほどだ。
だというのに、スピアの打撃は筆舌に尽くしがたい激痛を与えてくる。
単純に殴られる痛みだけではない。
体の内側まで直接に、衝撃が浸透してくるのだ。
きっと常人なら正気でいられない。というか、生きていられないだろう。
すでに心臓は三度も潰されている。他の臓器も加えたら数え切れない。
肋骨はいまも折れたままだし、全身の血はもうすべて入れ替わっている気がする。
それでもメルファルトノールは瞬時に回復しているのだから、神の力自体は完全に作用していた。
『くっ……こうなれば、神剣ですべてを薙ぎはラヴァっ!?』
悶絶させられながらも、メルファルトノールは反撃を試みた。
だけど、腹に大穴を開けられて崩れ落ちた。
『うぅ……アリエット、何をしておりますの! 貴方は使徒でヴォらぁっ!?』
搦め手に頼ろうとしても、やはりスピアが許さない。
勢いよく顎を跳ね上げられて、メルファルトノールはくるくると宙を舞った。
そうして散々に痛めつけられて―――、
さすがに心も折れる。大人しくなった。
『……ひっく、ぅぅ……もう勘弁してくださいませぇ……』
ぐずぐずと泣きながら、ズタボロになった姿を晒している。
メルファルトノールは地面に正座をして、深々と頭を下げた。
おい神!、とエキュリアがこの場にいたらツッコミを入れたかも知れない。
スピアが軽く拳を握るだけで、ビクリと肩を縮める。その姿には哀愁すら漂っていた。
「そうですねえ。トドメを刺すのも時間が掛かりそうですし……」
涼やかな口調で、スピアは物騒なことを述べる。
だけどその眼差しは油断なく、メルファルトノールをじっと見据えている。
ついさっきまで殺意を向けられていたのだ。
もしも少しでも状況が違えば、この場にいる誰もが無事ではいられなかった。
だから、許さない、と言うのも簡単ではある。
「もう二度と、こんな真似はしないって誓えますか?」
『はい……スピアさんに手出しする恐ろしさは、それはもう痛いほどに承知いたしましたわ』
「わたしだけじゃありません。アリエットさんや、他の人にもです」
『そ、それも承知しておりますわ。可能な限り、もう人の世には関わりません』
だからどうか勘弁してください、とメルファルトノールは重ねて頭を下げた。
どうやら本当に敗北を認めたようだ。
それも神の立場からすれば、苦渋の決断だったのは間違いない。
ひとまず拳を収めて、スピアは横にいるアリエットへ目線で訊ねる。
「えっと……スピアさんが判断して良いと思います。あ、でもリゼットの治療法だけは聞き出したいのですけど……」
「そういえば病気だって言ってましたね」
詳しい話を聞いていなかったので、スピアはすぐに治る病気だと考えていた。
だけど深刻なものらしい、と認識を改める。
「治療法、知ってるんですか?」
『ええ。そこに嘘はありませんわ。ですが―――』
はっと息を呑む。
メルファルトノールだけでなく、スピアも同じ気配を感じて首を回した。
その視線の先にはリゼットがいた。
幼い体はぐったりとして、黄金色の塊に抱えられていたが―――、
「ぷるるん、離れて!」
スピアが警告を発するのと、青白い閃光が放たれるのは、ほぼ同時だった。
雷撃にも似た閃光に、ぷるるんが弾かれる。二度、三度と地面を跳ねたけれど、深刻な負傷には至っていない様子だ。
それよりも、閃光を放ったリゼットの方に異常が起こっていた。
全身から青白い光を散らしながら、黒い靄に包まれている。まるで雷雲の中心にいるように。顔色を失い、浅い呼吸を繰り返しながら、その体は空中に浮かんでいた。
薄っすらと押し開けられたリゼットの瞳には、まだ色が感じられる。
意識はある。けれど体の自由は利かない様子だ。
いったい何が起こっているのか―――、
その問いに、メルファルトノールならば答えられただろう。
『良くない状況ですわね。このままでは魔神の使徒が生まれて……』
そんな言葉よりも早く、スピアは駆け出した。
疑問はある。だけど解決が優先だと、すぐさま判断した。
「ちょっと痛いだろうけど、我慢して」
駆けながら口早に告げて、リゼットの眼差しを確認する。
そこには同意の光があった、気がした。
なのでスピアも頷くと、遠慮無く手刀を振るう。
幼い体から溢れる黒靄と雷撃を、まとめて切り裂く。その裂け目に突撃したスピアは、リゼットの体に掌を押し当てた。
とん、と掌底を打ち込む。
柔らかなお腹に衝撃は留まると、一拍を置き、全身へと弾けた。
まるで雷に打たれたように、リゼットの体が震える。
それは一瞬の出来事だったが―――何かが、確かに破壊された。
「リゼット……っ!?」
傍目には、幼い少女が打ち据えられたように見えただろう。
スピアの見た目も幼いのはともかくも。
妹を案じるアリエットが、この世の終わりみたいな顔をしたのも無理はない。
けれど悲嘆はすぐに安堵へと変わる。ぐったりと力を失ったリゼットを抱えると、スピアはすぐに身を翻して元の位置へと戻った。
「大丈夫です。呼吸も安定してます」
掌底を受けて、リゼットは意識を失っていた。
全身から溢れた雷撃のためか、小さな裂傷もいくつか刻まれている。
幼い体を地面へ横たえると、スピアは『倉庫』へ手を伸ばす。
治療薬を取り出し、ぶっかけた。
「念の為に、もうひとつ出しておきます。飲ませてあげてください」
「あ、はい……」
アリエットは戸惑いながらも薬瓶を受け取る。
つい顔を顰めてしまうような匂いがしたけれど、効果があるのはリゼットの様子から見て取れた。小さな裂傷はすぐに塞がったし、血色もよくなってきている。
ほっと、アリエットは息を吐く。
けれどまだ完全には安心できないようだった。
「逃げられました」
唐突な言葉には不満も滲んでいた。
アリエットは顔を上げて、辺りを見回す。
メルファルトノールの姿が忽然と消えていた。
逃げた、というのは、つまりはそういうことだろう。アリエットの胸にあった『聖痕』も、いつの間にか失われていた。
「あとでまた問い詰めないとダメですね。でも……」
スピアはひとつ息を吐く。
小柄な体が緊張感を纏い直したのが、アリエットにも感じ取れた。
「その前に、アレを片付けないといけないみたいです」
すっと目を細めて、スピアは一点を見つめる。
つい先程、リゼットが浮かんでいた場所だ。
そこには黒靄が留まり、寄り集まっていて―――、
ギョロリ、と目玉が浮かぶ。
次いで、のたうつ触手が何本も生えてくる。
『―――QOOOooooohhhh!!』
怨霊じみた奇声を上げて、禍々しい異形が姿を現した。
ダンジョンマスターからは逃げられない、かどうかはともかく、裏ボス登場。
触手への過度な期待はお控えください。