地下室の罠
スピアを罠に掛けて捕らえる。
英知の神からの指示を、アリエットは葛藤を覚えながらも受け入れた。
計画としては、そう難しいものではない。
誰かの邪魔が入らない場所へスピアを誘い出し、予め設置した魔法陣によって捕らえるというもの。そのための魔法陣も神から教示された。
具体的には、自宅の地下室を使うことにした。
そこならば、まず他人は訪れない。
家主であるアリエットでさえ、最後に足を踏み入れたのは季節二つ以上も前だ。
埃が積もっていた地下室を掃除をして、床に魔法陣を設置する。
あとはスピアを誘い出すだけ。
正面から家に招くのは単純すぎるのでは、とアリエットは懸念を抱きもした。
だけど準備も実行もアリエットが一人で担うのだから、そもそも複雑なことは不可能だった。
『くすくす。計画とは単純なものほど良いのですわ。不確定要素によって崩れる恐れがなくなりますから』
愉しげな神の声に、アリエットは黙って従った。
恐れなんて、神も抱くことがあるのだろうか―――、
そんな疑問も浮かんだけれど、口にはせず、罪悪感とともに押し殺した。
そうして準備は整い、スピアを自宅へ招くことにも成功した。
次は地下室へと案内する。誘導するための台詞も用意してある。
計画はすべて順調で―――。
「妹さんに挨拶します」
いきなり崩された。
奥の部屋へ向かおうとするスピアを、アリエットは唖然として見送ってしまう。
「ちょっ、ちょっと待ってください!」
慌てて呼び止める。
アリエットは両手を振って、スピアの前へと回った。
「挨拶って、いきなりそんな、妹にはなにも言ってないですし……」
「大丈夫です。お見舞いの品は用意してます」
そういうことじゃない!、とアリエットが突っ込む暇もない。
スピアは手元に影を浮かべると、そこから大きな果実を取り出した。
表面を網目模様で囲まれた緑色の果実は、すぐに甘い香りを漂わせる。
「メロンです。お見舞いの定番です」
「は……? え、えっと、美味しそうな果物ですね……?」
「はい。みんなで食べましょう」
アリエットは思わず頷きそうになってしまう。
甘い香りに釣られた、なんて理由ではない。それも影響しているとはいえ、一番の理由はスピアの笑顔だ。
太陽みたいな笑顔を向けられると、つい惹きこまれそうになる。
それでもアリエットは、辛うじて頭を振って堪えた。
「だ、ダメです! それは、ほら、夕食の後にしましょう!」
「デザートですか。でも夕御飯も、みんなで食べた方が美味しいですよ?」
「ですから、妹はいま休んでいるので……」
なんとかスピアを説得しようと、アリエットは言葉を探す。
こんなところで計画を崩される訳にはいかなかった。
だけど焦れば焦るほど、口は動かず、言葉はまったく出てこなくなる。
本番に弱く動揺しきったアリエットでは、咄嗟の計画修正なんて適うはずもない。
スピアはしばらく黙って待っていた。基本的には真面目な性格なので、人の話を聞こうとはする。
でも、とても飽きっぽかった。
「今度は、花束も持ってきますね」
「そ、そういうことではなくて―――」
慌てるアリエットの横を、スピアはするりと抜けた。
そのまま奥の部屋へ向かおうとする。
アリエットはすぐに振り向いて―――妹に挨拶をさせてからでもいいのではと、ようやく思い至った。けれどすぐに頭を振って否定する。
このままスピアとリゼットを会わせたら、決意が鈍ってしまう気がした。
「と、とにかく―――やめてください!」
大声を上げる。アリエット自身も驚いて、立ち尽くしてしまった。
だけど、はっとして我に返る。
スピアも立ち止まっていたので、その手を取って地下室の入り口へと向かった。
「むぅ。なんだか深刻な事態ですか?」
「……大丈夫です。スピアさんが少し付き合ってくれれば、全部解決します」
アリエットは俯いたまま返答する。
もしもスピアがその気になれば、簡単にアリエットの手を払い除けられただろう。
でも引かれる小さな手からは力が抜けていた。
「相談にも乗りますよ。なんでも言ってください」
「っ……すいません」
アリエットは呻くように述べたが、振り返りはしなかった。
足早に地下室へと向かう。
暗い階段を下りて、やけに重く感じられる扉を押し開いた。
地下室へ入ったスピアは、ぼんやりと辺りを見回した。
小さな魔導灯が壁に掛けられている。頼りない灯りでも、がらんとした空間には充分だった。いくつかある荷物は壁際に押しやられている。
そうでなくとも、スピアは視覚以外の感覚にも頼れる。
玄関をくぐった時点で、屋敷の内部はすべて把握していた。
寝室で妹が寝ていることも。この地下室の床に、魔法陣が刻まれていることも。
絨毯で隠されている魔法陣なので、直接には見て取れない。
どんな効果があるのかも、詳しくは分からなかった。なので―――。
「この魔法陣は何ですか?」
スピアは率直に訪ねてみた。
前を歩いていたアリエットの肩が、びくりと震える。
「な、ななな、なんのことでしょう!?」
「アリエットさん、慌てるのが上手ですね」
台詞自体は皮肉っぽいけれど、スピアは純粋に誉めたつもりだった。
けれどアリエットは反応に困っている。可哀相になるほどに冷や汗を流していた。
そんなアリエットを横目に、スピアは絨毯をめくる。
魔法陣を観察してみたけれど、やはり効果までは判別できなかった。
「これを見せたかったんですか?」
訊ねながら、スピアはまた室内を窺う。
他に目立つ物は置かれていない。戸惑っているアリエットの顔が面白いくらいだ。
「それは、その……安全な魔法陣のはずでして……」
眼鏡を弄りながら、アリエットは焦りを通り越して泣きそうな顔になっている。
そうしてまた俯いたが、やがて顔を上げると真っ直ぐにスピアを見据えた。
強い眼差しを見せる。どうやら開き直ったらしい。
「この中心に立ってください! お願いします!」
「分かりました」
え?、とアリエットは言葉を失ってしまう。
自分から言い出して、頭まで下げたのだが、素直に従ってくれるとは思わなかった。
対するスピアは、こてりと首を傾げる。
「立ちましたよ。これでいいんですか?」
「あ、はい……えっと、でもそんな無防備でいいんですか? よく分からない魔法陣なんですから、もうちょっと警戒するとか……」
「安全だって、アリエットさんが言いましたよ?」
純粋な眼差しで返されて、アリエットは言葉に詰まってしまう。
そう。安全だと、アリエットも告げられていた。英知の女神から。
神の言葉なのだから真実なのだろう、と信じている。
だけど、もしかしたら―――胸に渦巻く疑念は徐々に大きくなっていた。
「あの……大丈夫だとは思いますけど、もしも変なことを起こったらすぐに離れてください。私もすぐに魔法陣を止めるようにしますので」
「はい。その時は、叩き壊します」
容赦無い返答に、アリエットは頬を引きつらせる。
それでも苦笑を零すくらいの余裕は戻ってきた。
ひとつ息を吐いて、床に手をつく。魔法陣へと魔力を流していった。
すぐに青白い光が溢れて地下室を満たしていく。
「んん? 魔力量の割にずいぶんと複雑そうな……?」
絨毯の下から浮かび上がった魔法陣を見つめて、スピアは眉を揺らした。
呑気にしていた態度に緊張感を纏う。
直後に、拳を叩き下ろした。
「きゃっ……!?」
小さく悲鳴を上げて、アリエットは尻餅をつく。
スピアの拳は石畳を叩き割って、その亀裂はアリエットの足下まで届いていた。
床に刻まれた魔法陣を破壊しようとしたのだ。
当然、その機能は停止して、元の暗闇が訪れるはずだった。
けれどスピアの瞳には青白い光が映ったままだ。
「魔法じゃない……? ううん、魔力になにかが混じってる?」
珍しく、スピアの声色は真剣そのものだった。
床を破壊したのは、単純な腕力だけではなかった。魔法陣ごと破壊しようと、スピアは拳に魔力も込めていた。けれど叩き込んだ魔力はすべて散らされた。
魔法陣は無事なまま、さらにその光を強める。
スピアが眉根を寄せたところで、白い光が床から生えたように形を取った。
細長い帯となってスピアへ襲い掛かる。一本だけでなく、足下から何本も。
スピアは飛び退きつつ手刀を振るう。
けれど白い帯は僅かに動きを止めただけで、手刀の方が弾かれた。さらに触手のように蠢く帯は数を増やし、スピアを捕らえるべく一斉に襲い掛かった。
狭い地下室内では逃げ場も限られる。おまけに―――、
「っ……!」
飛び退いたスピアの背中に、半透明の壁が当たった。
咄嗟に肘打ちをする。しかし白く輝く壁は、硬い音を立てただけでビクともしない。
「ぁ……スピアさん!」
ようやく危機感を覚えたアリエットが、声を上げて駆け寄ろうとした。
けれどそれも壁に阻まれる。半透明の壁に頭をぶつけて、アリエットはまた床に倒れ込んだ。
『くすくす。もう何をしても無駄ですわ』
手首のお守りから、冷ややかな声が投げられる。
『途中では少々気を揉みましたけど、上手くいきましたわね。誉めてあげましょう』
「っ……どういうことです!? スピアさんには危害を加えないと……」
『あら、そんなこと言いましたかしら?』
言い捨てられて、アリエットは愕然と目を見張る。
あまりにも軽い口調で、いったい何を言われたのかすぐには理解できなかった。
『気に病む必要はありませんわ。貴方は神の手伝いをしただけ。そしてわたくしは、彼女を知りたいだけですの』
アリエットは息を呑みながら、白い結界の内へと目を向ける。
そこではスピアが片膝をついていた。
幾重にも白い帯が絡まって、全身の動きを封じている。
『くすくす。すべてを曝け出してあげますわ。その過程で貴方はバラバラになってしまいますけど、構いませんわよね?』
無慈悲な宣告とともに、神の嘲笑が響き渡った。
自分から罠を踏みに行くスタイル。
これにも英知の神も苦笑いでしたが、ひとまずは計画通りです。