アリエットの誘い
石造りの廊下を、黄金色の塊が跳ねていく。
巨大な粘液体の姿に、廊下を歩く兵士の中には目を見張る者もいた。
城内に魔物が現れたとなれば一大事だ。何十名もの兵士が駆けつけてきてもおかしくない。
けれどそんな騒動になる前に、呑気な声が投げられる。
「怖くないですよー。ぷるるんは人を襲いません」
黄金塊の上に乗って、スピアは城内をうろついていた。
ぷるるんは普段、城の中庭や練兵場でのんびりと過ごしている。そこに不満は無いようだけど、たまには屋内を散策させてあげてもいいんじゃないかなあ、とスピアが思い立ったのだ。
そして思い立ったら即座に行動へ移すのがスピアだ。
きっと近くにエキュリアがいたら止められていた。
けれどエキュリアは親衛騎士として護衛任務に就いていて、他の兵士もスピアを止められはしなかった。非常識ではあっても、王家の紋章を掲げていたから。
いまのぷるるんは、豪奢なマントを羽織っている。
肩当ても煌びやかな親衛隊専用のマントには、王家の紋章が刺繍されていた。
そうして城内を練り歩く、もとい練り跳ねる姿は、正しくキングらしい風格を漂わせている。
「こんにちはー! キングですよ、ひれ伏せー!」
乗っているスピアも上機嫌で、擦れ違う騎士や兵士たちと軽口混じりに挨拶を交わしていく。
驚いたり蒼褪めた顔をする者もいるが、事情を知っている者も多い。
ノリの良い騎士などは、苦笑を零しながら跪いたりもしていた。
ちなみに、トマホークとサラブレッドを連れてくることもスピアは考えていた。
だけど、どちらも空が見えない場所に居ると落ち着かなくなる。翼を持つ故の性分なのだろう。なのでいつも通りに、厩舎の周りを散歩したり、部屋で羽根を休めていたりと、其々に自由に過ごしていた。
「そういえば、最近は遠出もしてないね」
ぷるっ!、と黄金色の塊が震えて答える。
「王都の外まで行ってもいいけど、お城だけでも広いんだよねえ」
同意するように、柔らかな黄金塊が揺れる。
そうしてスピアとぷるるんは、のんびりと城内を散策していった。
荘厳な建築様式を眺めて感心したり。壁に掛けられた絵画を鑑賞して偉そうに頷いてみたり。
メイドさんからお菓子をもらったり。
お礼に、ぷるぷるの体を撫でさせてあげたり。
そこそこ馴染むほどに城で暮らしていたスピアにとっても、新しい発見は転がっていた。
「ん~……ここら辺は、じめっとしてるね」
さして目的もなく進む内に、人気の無い場所へと辿り着いた。
明かり取りの窓も少なく、薄暗い。このまま奥へ進めば倉庫のある区画だ。
「隠れんぼには良さそうだけど、見るものはなさそうだね」
戻ろうか、とスピアはぷるるんを促す。
ひらりとマントを翻して、ぷるるんは元来た方向へと戻った。
でも、すぐにスピアは首を傾げる。
「んん? アリエットさん?」
「あ……スピアさん。えっと、会えてよかったです」
通路の角から、アリエットが息を乱して駆け出してきた。
急いでスピアに会いに来たようだけれど、その態度には躊躇いも混じっている。
それに、どうしてこの場所に居ると分かったのか―――、
そう疑問も覚えたスピアだが、ひとまずアリエットが話を切り出すのを待った。
「えっと、火急の用件という訳ではないんです。でも急いでいるのは間違いでもなくて……その、なんと言いますか……」
眼鏡を上げ直し、おさげ髪を弄りながら、アリエットは視線を彷徨わせる。
ふぅっと息を吐くと、あらためてスピアを見つめた。
やけに真剣な瞳には、固い決意か、あるいは悲壮な覚悟にも似た色が滲んでいた。
これから重大な告白をする。戦場へ赴く―――、
そんな眼差しが、スピアの黒い瞳を真っ直ぐに見据えた。
「お礼をしたかったんです。色々と、お世話になりっぱなしで……それで、もしよろしければ、私の家にご招待したいと思いまして……」
「分かりました!」
スピアは即答する。対して、アリエットはぱちくりと瞬きを繰り返した。
まあ元気一杯の返答だったし、勢いに驚くのも無理はない。
おまけに、スピアの返答はそれだけに留まらなかった。
「それじゃ、行きましょう」
「え? 行くって……も、もしかして今からですか?」
「善は急げ、です」
スピアはまったく迷いなく頷く。ぷるるんも心得たように跳ねた。
でも、だからといってアリエットは素直に従えない。
家に招待すると言っても、夕食の時間に合わせるつもりだった。
「ま、待ってください! スピアさんだってまだ仕事がありますよね? 昨日だってエキュリア様に怒られてましたし……」
「大丈夫です。今日は有給休暇に決めました」
「ゆうきゅう……? えっと、なんだか分かりませんけど、私もまだ仕事があって……」
アリエットは戸惑いながらも、なんとかスピアを踏み止まらせようと説得する。
極めて突撃思考のスピアでも、他人の話をまったく聞かない訳でもない。
そのまま聞き流す場合が圧倒的に多いのはともかくも。
懸命の説得は、一応の効果を上げた。
「そうですね。無理にお招きしてもらうほど、わたしも礼儀知らずじゃありません」
うんうんと、スピアは納得した表情で頷く。
なかなかに受け入れ難い部分もある台詞だったが、アリエットは頬を歪めるだけに留めておいた。ここでスピアにへそを曲げられては困るのだ。
「今日は、図書館で過ごすことにします」
「やっぱり仕事はしないんですね……」
軽いツッコミを入れながらも、アリエットはもう引き止めようとしない。
ぐったりと疲れたように息を落とす。
だけどその口元には、小さな笑みも浮かんでいる。
眼鏡越しに滲んでいた決意の色は、いつのまにか柔らかく消え去っていた。
長く影が伸びた街路を、スピアとアリエットは並んで歩いていく。
二人の後ろで、ぷるるんの黄金色の体も夕陽に染まっていた。
春先にしては強い陽射しにスピアは目を細める。
「目がしぱしぱします」
「今日はずっと本と向き合ってましたもんね」
目蓋を擦るスピアの様子に、アリエットはくすりと笑みを零す。
まるで幼い子供が眠いのを我慢しているみたいに見えた。
「あの本、何日か前から読んでましたよね。随分と熱心でしたけど、何の本なんです?」
「護身術です。色んな技があって驚きました」
スピアは嬉しそうな声を返す。
だけどアリエットは不思議そうに首を傾げた。
やけに分厚く、細やかな装飾のされた本をスピアは読み耽っていた。
特徴的な本だったけれど、司書であるアリエットには見覚えのないものだ。
もちろん、図書館の蔵書すべてを把握してはいないのだけど、何故だか妙に興味を引かれた。
「武芸について記した本というのも珍しいですね。戦いの記録や、大きな戦術についての本はいくつかありましたけど」
「身を守るだけですから、そんな物騒なものじゃありませんよ?」
「そうなんですか? まあ確かに、護身術って言われると……」
「わたしの技と同じです。安全です」
「え?」
アリエットは唖然とした声を上げてしまう。
これまで幾度か、スピアの戦いぶりを目にしてきた。
それはとても安全とは言えない。むしろ物騒極まりないものだった。
「アリエットさんも習ってみますか? いざっていう時に圧し折ったりできますよ」
「な、なにを折るんですか!?」
「色々です。極めれば、心だって折れます」
聞くんじゃなかった、とアリエットは眉根を押さえる。
色々と怖い想像が出来てしまった。
ともあれ、雑談を交わしている内に、アリエットの家が見えてくる。
これでスピアが訪れるのは二度目だが、家の中まで入ったことはなかった。
「妹さんと二人暮らし、って言ってましたよね?」
「はい。あとで紹介させてもらいますね。たぶん、起きるくらいはできるので……」
「もしかして、病気なんですか?」
「……ええ。だけど伝染るような病気じゃないんで、心配しないでください」
ふぅん、と気のない返事をしてスピアは足を進める。
ぷるるんには外で待機しているように告げた。
「本当に大丈夫なんです。もしもの時は、私が責任を負いますから……」
妙に沈んだ声で呟きながらも、アリエットは微笑を浮かべて玄関を開けた。
促されるまま、スピアは家の中へと入る。
「お邪魔します!」
明るい声で述べて、お辞儀もする。
屈託のない笑みを浮かべるスピアは、警戒心なんて一欠片も抱いていなかった。
家にお呼ばれされる平和な回です。
次回は、罠です。