幕間 リゼットの穏やかな病床の日々
今回は特別追加更新。シリアスさんが張りきっています。
窓から差し込む朝の陽射しをぼんやりと眺める。
目蓋の重みは感じるけれど、小鳥たちの囀りは眠気を優しく払ってくれる。
ゆっくりと手を上げて、握ったり開いたりしてみる。
うん。あたしは今日も生きている。
そんな当り前の事実を確認してから身を起こした。
また窓の外を眺めながら、ベッド脇の戸棚に手を伸ばす。
少しだけ窓を開けて、夜の内に用意しておいたパンを小さく分けて置いてあげた。
すぐに鳥たちが集まってくる。
一生懸命にパンを啄ばむ姿は可愛い。あたしのちょっとした贅沢だ。
「リゼット、起きてる?」
小気味良くドアがノックされて、お姉ちゃんが部屋に入ってきた。
お姉ちゃんも起きたばかりのはずなのに、すっきりとした顔をしている。一時期はずっと目の下に隈を浮かべていたけれど、最近は随分と健康的になった。
お城で安心して過ごせるようになって、仕事も楽になったみたいだ。
食事が変わった影響も大きいと思う。
「おはよう、おねぃちゃん。ほら見て」
「ん? ああ、また集まってきてくれたんだ」
お姉ちゃんも窓の外へ目を向けて、そっと足音を忍ばせる。
鳥たちを驚かせないように声を潜めながら、二人して笑い合った。
「前に来てた、あの黒くて意地悪な鳥はいなくなったの?」
「うん。追い払ってくれたみたい」
少し離れた位置にある木の上を視線で示す。
そこには、かっこいい顔付きをした大きな鷹が留まっていた。
とっても強そう。だけど優しい。
何処から来たのか分からないけど、鳥たちを守る親分みたいになってる。
「へえ。鷹なんて珍しい……あれ? 何処かで見たような?」
「誰かが飼ってるのかな?」
「上級貴族だったら趣味にしてる人はいそうだけど、聞いたことはないね」
二人で興味の目を向けていると、やがて鷹は翼を広げた。
晴れた空へ向けて勢いよく飛び立っていく。
いいなあ、なんて少しだけ羨ましくも思えた。
「さて、朝ご飯にしよう。起きれるかな?」
「大丈夫。今日も調子いいから、一人で歩けるよ」
ベッドから起き上がって、食堂へ向かう。
朝食はいつも侍女のデボラさんが用意してくれている。あたしも手伝いたいけど、却って迷惑になっちゃう。それくらいは分かってるんだ。
ベッドで過ごす時間の多いあたしは、包丁を使うだけでも疲れちゃう。
だから、時間のある時に少しだけ。
お姉ちゃんが喜んでくれて、その味を覚えておいてくれたらいい。
それと―――。
「いってらっしゃい。気をつけてね」
手を振って、お姉ちゃんを送り出す。それがあたしの仕事だ。
遠ざかっていく背中を、少しでも支えられるように。
昼間は、ほとんどの時間をベッドの上で過ごす。
身体を鍛えたいと思った時もあるけど、すぐに発作を起こしてしまって諦めた。
外に出るのも難しい。
『雷光病』は、周りの人にも迷惑を掛けてしまう恐れがあるから。
だけどあんまり退屈はしない。お姉ちゃんのおかげだ。
図書館から本を借りてきてくれるので、いっぱい勉強ができる。
デボラさんから話も聞かせてもらえる。
最近は、街が賑わっていて面白い話が多い。城よりも大きな竜を倒した女騎士様の話とか、凄い格好をした踊り子さんの話とか、色々と。
まあ、嘘だって思うものも混じっているけど。
子供のあたしでも分かるのに、そういう話が喜ばれて信じられているらしい。
あとは、市場で珍しい商品が入ったとか、値段が変わってきたとか。
そういう話は、あたしが頼んで集めてもらっている。
動けなくても情報があれば、お姉ちゃんの力になれるかも知れないから。
病気になってから、“死ぬこと”を意識しない日はなかった。
あたしが死んだらどうなるんだろう?
そう考えて、まず最初に頭に浮かんだのは「怖い」だった。
自分がいなくなってしまう。それは、よく分からないけど、とにかく怖い。
嫌だって、もっと生きたいって、何度も泣き出したくなった。
だけどそんなことをしても、お姉ちゃんを困らせるだけで―――、
そう思ったら、もっと怖くなった。
お姉ちゃんはきっと悲しんでくれる。そして、独りぽっちになってしまう。
泣いているお姉ちゃんの姿が、目蓋に浮かんできた。
胸が苦しくなった。いつのまにか涙が零れていた。
お姉ちゃんは気弱で、少し頼りない。不器用で料理だって出来ない。
だけど、いざっていう時は何にだって立ち向かっていける。
それと、とっても優しい。
あたしが病気だって知った時も、身代わりになりたいなんて言ってくれた。
力一杯に怒った。だけど嬉しかった。
あたしはもう泣かない。お姉ちゃんも悲しませてしまうから。
もう運命を恨むこともしない。それよりも、精一杯に生きようと決めたから。
あたしが居なくなっても、お姉ちゃんが泣かないで済むように。
神様にお祈りしても叶うかどうかは分からない。だけど願わずにはいられない。
ずっとずっと幸せでいられるように。
どうすればいいのかも、さっぱり分からないけれど―――。
陽が落ちてくると、発作が起きることが多くなる。
何故なのかは分からない。『雷光病』は原因も知られていないから、そういうものだって納得するしかない。
だけど発作が起こる前兆は、なんとなく感じられるようになってきた。
体の奥深くから、黒いもやもやっとした雲みたいなものが膨れ上がってくる。
それが全身に広がると発作が起きてしまう。
でも黒いもやもやも、強い時と弱い時がある。弱い時はけっこう押さえられる。
ぐっと押し込めたり、ばさばさと払ったりする感じにすると、体の内にあるもやもやが消えていく。
今日は、弱いもやもやだった。だからあたしの勝ち。
「おかえりなさい、おねぃちゃん」
元気一杯の笑顔で出迎える。
少し汗も掻いたけど、部屋を出る前に拭いてきたから大丈夫なはず。
お姉ちゃんは心配そうな顔をしながらも喜んでくれた。
今日も一緒にご飯を食べられる。
「おねぃちゃん、セイラール子爵って知ってる?」
「名前は知ってるけど……どうしたの、突然?」
「仲良くした方がいいよ。きっとこれから力を付けてくるはずだから」
スプーンを咥えたまま、お姉ちゃんは目をぱちくりさせる。
面白い顔を見せてくれるのはいいけど、いまは真面目な話をしてるんだよね。
「最近、海のお魚が出回ってるって話はしたでしょ?」
どうやって王都まで運ばれてきたのか、デボラさんに調べてもらったけど分からない。だけどセイラール領で獲れたお魚なのは間違いなさそうだった。
魚の種類でもそうだし、売り文句でも「セイラール領で獲れた」と言われていた。
たぶん、転移魔法を使ったんじゃないかな。
それを王国とも協力して隠している。転移魔法陣の開発に成功したとすれば、とても大きな話になって、他国からも睨まれるから。
最近あった王様や魔族が起こした騒動、市場の動向、関わった貴族―――、
そういった情報を集めていると、なんとなく全体像が見えてきた。
「噂のエキュリア様って、クリムゾン伯爵家の人なんだよね?」
「う、うん。そう聞いてるけど……」
「クリムゾン伯爵とセイラール子爵、それとアルヘイス公爵かな。ここらへんの人達が、力をつけてくると思うの。おねぃちゃんが貴族の事情に詳しければ、もうちょっと正確なことが言えるんだけど?」
あたしが首を傾げると、お姉ちゃんは困ったみたいに肩を縮めた。
べつに責めるつもりはないのに。
誰にだって得意と不得意があるのは当り前なんだから。
でも、そんな顔も面白いかも。
「リゼットが言いたいことも分かるけど……子爵様だって、お近づきになるのは難しいよ。あんまり言いたくないけど、私みたいな下級貴族だと……」
「もー! またすぐにそうやって弱気になる! 悪い癖だよ!」
ばんばんとテーブルを叩く。
お行儀は悪いけど、お姉ちゃんを焚きつけるにはこれくらいしなきゃいけない。
「もっと社交にも積極的になろうよ。親衛隊長さんとも知り合いになれたんでしょ? だったら、その縁をもっと活かさないとダメ!」
「うぅ……それも分かってるんだけど……」
「親衛隊の騎士さんに、かっこいい男の人とかいないの?」
「な、ななな、なに言ってるの!? そんなのリゼットにはまだ早いよ!」
お姉ちゃんは慌てて手を振る。耳まで真っ赤に染めた。
もう。どこまで恥ずかしがり屋なんだろう。
「その様子だと、目をつけた人もいなさそうだね。満足に顔も見てなかったり?」
「だって……親衛騎士っていうだけでも偉いんだよ? 萎縮しちゃうよ」
「おねぃちゃんだって司書長なんだよ。すごいんだから、自信持っていいの!」
そう。お姉ちゃんはすごい。
たとえ王族に嫁ぐことになったって、あたしは驚かないよ。
ちょっと寂しいとは思うかも知れないけど。
「とりあえず、親衛隊で結婚してない人を書き出してみて。あと家柄と年齢、出来れば人柄も調べるの。三日以内ね」
お姉ちゃんは泣きそうな顔になる。でも甘やかしてなんてあげない。
もちろん、お仕事が大変なのは分かってる。
とりわけ最近は、なんだか秘密も抱えているみたいだし。
一人で抱え込んじゃうのも、お姉ちゃんの悪い癖だ。
そういう部分も含めて支えてくれる人を、なるべく早く探し出したい。
たぶん、残されている時間は少ないから。
「それと、あたしのお薬はもう要らないから。代わりにおねぃちゃんの服を買おう」
「え……なに言ってるの? ちゃんと飲まないとダメだよ」
「あのお薬じゃ効き目は無いよ。分かるの。他のお薬でもきっと同じ」
お姉ちゃんはまた泣きそうな顔になる。さっきとは違って、涙も滲んでいた。
あたしは、笑えているはず。
もう泣かないって誓ったんだもの。
「大丈夫。おねぃちゃんがお嫁さんに行くまで、元気でいるんだから」
「……だったら、リゼットが先に結婚しようよ」
「ふふん。あんまりゆっくりしてると、そうなっちゃうかも知れないよ?」
得意気にしてみせながら、そっと首元に手を当てる。
不意に、黒いもやもやが沸きあがってきた。でも冷や汗は誤魔化せたと思う。
「そろそろ寝るね。ごちそうさま」
「……うん。ゆっくり休んで。また明日ね」
頭を撫でられて目を細める。
お姉ちゃんの手は温かくて、優しくて、好きだ。
ずっとそうしていたいけど―――部屋に戻って、ベッドで横になった。
暗闇を眺めて、ひとつ深呼吸をする。
「……大丈夫。あたしはまだ戦える」
息が乱れていないのを確かめてから、静かに目蓋を伏せる。
また明日。目を覚ませるように願って―――。