司書見習いのお仕事①
アリエットは困惑していた。とてもとても困惑していた。
あるいは、驚いて、戸惑って、呆れてもいた。
「―――という訳で、この部屋を作りました」
「ど、どういう訳ですか!?」
気弱げな口調ながら、アリエットが抗議の声を上げる。
図書館にスピアが訪れてくるのは、もはやいつものことと受け入れていた。
けれどその図書館自体が、いつもとは違っていた。
まず、アリエットの目の前には大きなソファが置かれている。幅が広く、心地良い柔らかさを備えていて、背もたれを倒すとベッドにもなる逸品だ。もしも王侯貴族への贈り物としても、大変に喜ばれるのは疑いようがない。
さらに床には、ふかふかの絨毯が敷かれている。
壁も優しげな乳白色に塗られて、天井には光を調節する魔導具が設置された。
おまけに、室内の温度も魔導具によって快適に保たれている。
スピアはそのソファに寝そべって、図書館から持ってきた本をめくっていた。
「ちょうど図書館の横は土地も空いてましたし」
「だ、だからって、こんなの……」
「大丈夫です。ここの鍵は、アリエットさんにも渡しますから」
「そういう問題じゃありませんよぅ」
アリエットは抗弁しながらも肩を落とす。
もはや何を言っても無駄だと、スピアはこういう人間なのだと学習したのだ。
元々、親衛隊長であるスピアに意見を言える立場ではないと思っている。
それによく考えてみれば、さして困ることでもなかった。
図書館に部屋がひとつ追加されただけ。
快適な閲覧室が増えたと捉えれば、歓迎できる話だとも言える。
常識を取り払えれば、という条件は付くけれど。
「えっと……この部屋が、スピアさんの働きに対する報償だというのは理解しました。衛星都市を解放するのに活躍されたというのも……」
「正確には、裏方ですけどね。エキュリアさんとセリスさんが大活躍でした」
「いえ、その……よく分からないですけど、舞台を作ったというのも凄いことかと」
アリエットは顔を伏せながら、そっと深呼吸をする。
述べた言葉に嘘はない。素直に、スピアの働きは賞讃に値すると感じている。
お世辞を並べ立てるつもりはなかった。
まあ、よく分からないというのも事実だが。
だけど別の思惑もあって、アリエットは袖口に隠したお守りを握り込んだ。
「この部屋も、スピアさんの魔法で作ったんですよね? さっき見てましたけど、いきなり壁が扉になったり、地面が盛り上がったり……とにかく驚きました」
事実なのに、変なことを言っている気がして、アリエットは視線を彷徨わせる。
それほどに信じ難い光景が展開されたのだ。
「なんだか新鮮な感想です」
「え? で、でも、誰だって驚くと思いますよ?」
「そうでもないですよ。最近はエキュリアさんなんて平然としてますし、セフィーナさんやセリスさんだってあんまり……うん、もう一工夫する必要がありそうです」
なんだかとんでもない切っ掛けを作ってしまった気がする―――、
そう悲鳴を上げたくなったアリエットだが、辛うじて踏み止まった。
引きつった笑みを浮かべつつも、言葉を繋げる。
「その……あれはいったい、どんな力なんです? 魔法にしても奇妙で……」
「秘密です!」
スピアはあっさりと切り返す。
アリエットの眼鏡がずり落ちそうになっても、スピアは鼻唄混じりに本の文字を追っていた。
「わたしは大したものじゃないと思ってますけどね。ただのダンジョン魔法ですし」
「は? ダンジョン魔法、ですか……?」
「前に、エキュリアさんには話そうともしたんですよ。だけど結局は忘れちゃって。なので、いっそのこと何処まで秘密にできるか試してみようかと」
どうでもいいような、すごい秘密のような、判別に困る話だった。
ただひとつだけ理解して、アリエットは心の内で呟く。
エキュリア様も苦労なさっているんだなあ、と。
「えっと、よろしければ、そのダンジョン魔法というのについて詳しく話を……」
アリエットは尚も問いを重ねようとした。
けれど、ばさり、と。
本が落ちる音とともに、アリエットの言葉は遮られる。
仰向けに寝転がっていたスピアの顔に、読んでいた本が落下していた。
「え? あの、まさか……?」
恐る恐る、スピアの顔に乗った本をどけてみる。
眠っていた。
すやすやと、気持ちよさそうに。
「……そりゃあ本を読んでて眠くなる時はあるけど……」
どうしよう? 毛布とか持ってきた方がいいのかな?
それにしても、本当に子供みたいに無防備で―――、
そう困惑しながらも、アリエットの口元には優しげな微笑が浮かんでいた。
すっかり暗くなった王都の道を歩く。
アリエットにとっては慣れた道だったが、誰かと一緒なのは新鮮に感じられた。
隣には、スピアが軽やかな足取りで並んでいる。
図書館で眠ってしまったスピアは、そのまま日暮れまで過ごしてしまった。
アリエットに起こされなければ、もっと寝過ごしていたかも知れない。
その間も、アリエットは司書の仕事や調べ物をしていた。
だからなにも、スピアに付き合って帰宅が遅くなったのではない。
普段から日が暮れるまで仕事をしているのだ。
けれどスピアは、「お詫びです!」と言って譲らなかった。
一度言い出したら退かないのは、アリエットももう承知している。
なので有り難く、自宅まで送ってもらうことにした。
「ここら辺に来るのは初めてです」
「スピアさんはいま、お城で暮らしているんですよね? 王都を見て回ったりはしないんですか?」
「下町にはちょくちょく行ってます」
貴族街と、平民が暮らす下町では、まるっきり別の区画になっている。
隔てているのは簡素な壁だが、許可のない平民は行き来できない。
貴族の側でも下町にはあまり関わろうとはしないので、繋がりとなるのは使用人か、一部の商人くらいだ。
アリエットも貴族としては下級だが、下町にはほとんど馴染みがなかった。
「賑やかな場所だとは聞いていますけど……」
「見て回ると面白いですよ。最近の王都は、色々な人が出入りしてますし」
「歌劇とかも、劇場じゃなくて広場でやっているんですよね?」
「はい。おひねりを投げます」
スピアの話には、時折り不可解な部分も混じっている。
けれどアリエットも談笑を楽しんで、足取りは自然と軽くなった。
それに、スピアは子供にしか見えなくとも親衛隊長だ。
夜道で警護をしてくれるのは、素直に頼もしかった。
やがて自宅が見えてきて―――、
「あ……っ!」
アリエットは急に足を止めた。まるで恐ろしい魔物を前にしたように顔を歪めて。
同時に、スピアも立ち止まる。
小首を傾げると、アリエットの顔と前方の影へ交互に視線を巡らせた。
「ご無沙汰しておりまする、アリエット様」
ふしゅるぅ、と荒い息を漏らす男がいた。
とても太っている。まだ春先だというのに立っているだけで汗をかいていて、たぷたぷと腹を揺らしていた。着ている服は上質な物のはずなのに、妙に派手な装飾がされていて品が悪く見える。
貴族と言うには、仕草のひとつひとつが洗練されていない。
身なりだけは整っているが、常に相手を品定めるような目は商人のそれだ。
アリエットの表情は、「会いたくない相手」とありありと語っていた。
スピアにもそれは察せられて、
「すっごいおデブさんですね」
一切の遠慮無く、とても良い笑顔で感想を述べる。
途端に、男は余りまくっている頬肉をひくつかせた。
「テメエ! ボムゥリオ様になんてこと言いやがる! 子供だからって許されると思うなよ!」
声を荒げたのは、贅肉の影に隠れるようにしていた別の男だ。簡素な鎧を着て、腰には剣も下げている。どうやら護衛として雇われているらしい。
他にも、合計で三名、ボムゥリオの背後には護衛らしき男たちが控えていた。
「まあ待て。ひとまずは大目に見てやれ。貴族街での騒動となれば、厄介なことにもなりかねんからな」
ボムゥリオが緩慢な動作で手を振る。
護衛の男はスピアを睨みながらも、大人しく後ろへと下がった。
「失礼を致しました。しかしアリエット様も、従者はよく選んだ方がよろしいかと」
「……彼女は友人です。無礼は許しません」
「おや、これは重ねて失礼を。まさかご友人とは……いったい、どういった身分の方なのでしょう?」
慇懃無礼に、ボムゥリオはねっとりとした眼差しをスピアへ向ける。
ちょっと知識のある者なら、スピアの服装は上質な布を使っていると見て取れる。けれどそれは貴族が着る物とも、平民が着る物とも違う。
なにせ、スピア自身が作り出した一点物だ。
奇異の眼差しを向けられるのも、まあ当然のことだとも言えた。
しかしスピアは、そんな眼差しをまったく気に留めない。
もうボムゥリオに対して興味をなくしたように、ぼんやりと中空を眺めていた。
もしも勘の鋭い者がいたら、警戒心を覚えただろう。
ちょうどスピアたちの真上、夜の空に大きな鷹が舞っていたのだから―――。
「随分と変わった子供のようですな」
「それよりも、今日はいったいどのような用件で? このような時間に、自宅前での待ち伏せとは感心しません」
「おお、それもまた失礼を。なにせ昼間に訪ねても使用人に追い返されるばかりでして。重要な話ですので、是非とも御本人にお会いしたいと考えたのです」
ぬっちょりとした笑みを浮かべて、ボムゥリオは贅肉を揺らす。
アリエットとて貴族として感情を隠すのを心得ている。それでも嫌悪を露わにしてしまうほど、目の前の脂ぎった笑顔は不快だった。
「いったい何の話です? 婚姻の件ならば、はっきりと断ったはずです」
「もちろん覚えておりますとも。アリエット様は気弱なようで、意外と厳しい発言もなさる。そのような意固地な部分も、男を熱くさせるものでして……」
ボムゥリオは下卑た笑みを深める。
けれどその眼光だけは、獲物の隙を窺うように鋭さを増していた。
「それに商人をやっておりますと、色々な話が耳に入ってくるのです。その中には、貴族様にも無理を受け入れていただける話もございまして……」
懐から一枚の紙を取り出す。
ボムゥリオが得意気に掲げたそれは、端的に言えば借金の証文書だった。
元々の貸主はグランシェル子爵。
その権利がボムゥリオへ移ったとされている。
そして借主の欄には、アリエットの父親の名前が記されていた。
「ッ……まさか、そんな……父が借金など……」
「なにを仰られようとも、この証文は間違いなく本物ですぞ。証文官の審査も受けております。御本人に確かめてもらっても構いませんが、お父上はすでに世を去っておられましたな。あとはグランシェル子爵ですが、あの家もいまはゴタついておる様子ですし……」
にやついた贅肉に迫られて、アリエットは言葉を詰まらせる。
グランシェル子爵は、アリエットの父親にとって所謂“寄親”という存在だった。
なにかと面倒を見てもらっていたのをアリエットも覚えている。
しかし借金をしていたという話は初耳だった。
証文に記されているのはかなりの金額で、下級貴族が簡単に返せるものではない。事実なら、生真面目だった父親の性格からして一言くらいは遺しているはずだ。
けれど貴族が関わる証文を、大商人とはいえ平民が偽造するとは考え難い。
もしも偽造だとすれば重罪になる。
おまけに証文官の審査を受けたとなれば、異論を挟めるのはよほどの上級貴族のみだ。
それでもアリエットが抗弁する手段はある。
グランシェル子爵を訪ねれば、相談くらいには乗ってくれるだろう。
けれどその子爵は急な家督相続があって、家中が混乱していると聞く。
だから力になってくれる可能性が低いのは、アリエットもすぐに判断できた。
それよりなにより―――。
「平民相手に諍いなど、貴族様としては恥ずべきところでしょうなあ」
「……分かったような口を……」
忌々しさを堪えきれず、アリエットは激しく顔を歪めてしまった。
仮にも貴族が、平民相手に借金をして喚き立てる。
それは正しく醜態だ。
もしも他の貴族たちに知れ渡れば、アリエットは居場所を失くしてしまうだろう。
司書としての地位も失い、路頭に迷ってしまう可能性だって無視できない。
もっとも、現在の女王代理であるレイセスフィーナは、そんな判断はしないはずだ。責任のない醜聞だけで能力のある者を切り捨てたりはしない。
けれどアリエットには、そこまで冷静に考えている余裕はなかった。
「……借金を消す代わりに、そちらと婚姻を結べ、と……?」
「ええ。話が早くて助かります。こちらも妻から借金を取り立てるほど、非道ではありませんからな。そして家督を、息子に譲っていただければ……」
とどのつまり、ボムゥリオの目的は貴族としての地位なのだ。
少女として可愛らしいアリエットに興味がない訳でもない。しかし愛情とは明らかに違っている。
貴族との血縁を得れば、様々な商売もやり易くなる。
いまでも大商人であるボムゥリオだが、さらに財を蓄えられるだろう。
そんな魂胆は、アリエットにも容易に察せられた。
断れるのならば、いますぐにでも断りたい。断固として拒絶したい。
いっそ、その欲に塗れた顔を殴りつけてやりたいほどだ。
けれど抗おうとすれば、なにもかもを失ってしまう。
自分だけならば構わない。だけど、妹のリゼットを巻き込むのは許されない。
いまはまだ、治療のためにも金銭は必要だ。
迂闊な判断はできない。でも、どうすればいいのか―――、
と、アリエットが唇を噛んだ時だ。
「うん。叩きのめしましょう」
とても朗らかな声で告げて、スピアは歩み出た。
図書館司書になるには、商人の一人くらい叩きのめせないと(偏見