恐縮のアリエット
スピアと出会った翌日―――、
アリエットは困っていた。とてもとても困っていた。
それはもう、生命の危機を覚えるほどに。
「わたくしも図書館を訪れたのは数えるほどです。ですが、知識を大切にする意義は理解できます」
「セフィーナさんなら、難しい本でもすらすら読めそうですね」
閲覧室の机を挟んで、セフィーナとスピアが談笑していた。
数名の側仕えと騎士も周りに控えている。
アリエットは壁際に立ったまま、懸命に冷や汗を堪えていた。
図書館に王族を迎えるなど、アリエットには初めての経験だった。
下級貴族であるアリエットにとっては、王族と同じ場にいるだけでも恐縮してしまう。
以前、国王であったロマディウスに図書館の存続を訴えたことがあった。
その時だって必死で、震えながら申し出たのだ。
もうあんな緊張する事態は二度と味わいたくない―――と、そう思っていた。
「今度は司書見習いになったんですよ。こっちは上司のアリエットさんです」
紹介なんてしないで―――、
そう胸の内で悲鳴を上げながらも、アリエットは恭しく膝をついて礼をする。
ぎこちない所作を見て、セフィーナは柔らかな微笑を零した。
「そう畏まらなくても構いませんよ。いまのわたくしは王族ではなく、スピアさんの友人として来ているのですから。貴方も、よろしかったらスピアさんと仲良くしてあげてください」
「は、はい。精一杯努めさせていただきましゅ」
噛んだ。が、深々と頭を下げて誤魔化す。
また壁際へと戻ったアリエットは、一段と身を縮ませた。
いっそ逃げ出してしまいたい。でもそれも失礼に当たってしまう。
下手なことをすれば、護衛の騎士に斬り捨てられるのでは―――、
そう怯えきったまま、アリエットはひたすらに時間が過ぎるのを待った。
「ところで……こうしてスピアさんを訪ねてきたのは、お願いがあるからなのです」
アリエットの願いが通じた訳でもないだろう。
しかし話が一段落ついたところで、セフィーナが本題を切り出した。
「分かりました。任せてください」
「え? あの、まだ何も言っていませんけど?」
「セフィーナさんのお願いだったら、いつでも二つ返事でオーケーです」
「はぁ……あ、ありがとうございます」
感謝を述べるセフィーナの顔には苦笑も混じっていた。
けれど控えている騎士や、アリエットの方がむしろ戸惑いは大きい。
いくらセフィーナが友人として認めているとはいえ、スピアの言動は王族に対して無礼に過ぎた。親衛隊長という肩書きがあっても、叱責されるところだ。
だがセフィーナは怒る素振りすらない。
それどころか柔らかな笑みを見せて、王族としての威厳を完全に捨て去っている。
驚いていないのは、エキュリアとエミルディットくらいだ。
そちらにしても呆れた溜め息は零していたが。
「それでですね、お願いしたいのは衛星都市の件です。都市長のブロスペールからも要請が来ていまして、いつまでも放置はできないので……」
「衛星都市、ですか?」
こてり、とスピアは首を傾げる。
しばし空中へ視線を巡らせてから、ああ!、と手を叩く。
「真っ赤なお風呂を作った所ですね」
「思い出すのはそこか!?」
声を荒げたのはエキュリアだ。さすがにツッコミを我慢できなかった。
でも周りからの呆気に取られた視線を受けると、咳払いをして元の位置に戻る。
いまこの場では、王族であるセフィーナとスピアが話し合いをしているのだ。横から口を挟むのは控えなければならなかった。
それでも一応は、エキュリアが怒鳴った意味はあった。
スピアは背筋を伸ばして、表情も引き締める。
「あの衛星都市は、魔族が占拠したって話になってるんですよね?」
「はい。六魔将が倒され、その配下であった魔族も慌てて逃げ出す……そういう筋書きもあったのですが、魔族を倒して街を解放したという形の方が良いかと」
アリエットをはじめ、控えて話を聞いていた者たちが揃って身を強張らせる。
真剣な話、というだけではない。
けっして外に漏らしてはならない話だと、全員がすぐさま理解した。
それくらい察せられないようでは王族の側には仕えられない。
もっとも、実際のところは少々異なる。
たとえ漏らされても王国が困ることはない。事実として、グルディンバーグは討ち取られているのだ。五体とともに斬り裂かれた首は、しっかりと保管されている。
根本に真実があるのだから、いくらでも強弁できる。
それを理解しているから、セフィーナも他者がいるのに構わず話を進めていた。
もちろんセフィーナの性格として、側近を信じているのも理由のひとつだ。
「捕らえられた都市長が密かに王都と連絡を取り、協力して魔族を討ち払った。そういう話にした方が、教会との関係も立て直しやすくなります。細かな辻褄合わせなどは、こちらで手配いたしますので……」
「分かりました。あの魔族っぽい屋敷を建て直せばいいんですね?」
「ええ。ですが、その……周囲には被害が出ないようにお願いしますね。スピアさんなら大丈夫だと思うのですけど……」
「心配無用です。ぷるるんに乗ったつもりでいてください」
どんな例えだ!?、とエキュリアが突っ込みたそうに顔を歪める。
他の護衛騎士も、また違った意味で困惑顔を隠せていなかった。
王国にとって都合の良い筋書きを作る、というのは理解できる。
だけどそこに、目の前の少女がどう関われるというのか?
礼儀すら知らないのに。
まったく頼りになりそうもないのに。
それどころか、何も考えていなさそうなのに―――、
事情を知らなければ、そう疑念を覚えても仕方ないのだろう。
けれど王族であるセフィーナが泰然としている。その態度が説得力となって、側近たちの異論を封じていた。
おまけに、スピアの対応が早かったというのもある。
「それじゃ、善は急げです。いまから行ってきます」
「え……いまからですか? まだ騎士団の準備が……」
「大丈夫です。わたしとエキュリアさんだけで充分ですから」
ぴょこん、と席から降り立って、スピアは部屋の出口へと向かう。
他の一同は唖然としていたが、
「ほら、エキュリアさん。ぷるるんとサラブレッドも待ってますよ」
「ま、待て、おまえは……ああもう! 申し訳ありません、レイセスフィーナ様、ここで目を離す訳にはいきませんので」
「ええ、任せます。一緒に行ってあげてください」
スピアの後を追って、エキュリアが駆けていく。
図書館には静寂と、困惑混じりの空気が残されていた。
セフィーナが去るのを見送って、深く安堵の息を吐く。
ようやく緊張から解放されたアリエットは、そのままへたり込みそうだった。
「はぁ~……レイセスフィーナ様が優しい方でよかったぁ」
書架に手をついて身体を支える。
ずり落ちそうになっている眼鏡を気に掛ける余裕もなくなっていた。
「それにしても……スピアさん、本当に親衛隊長だったんだ」
なにも疑っていた訳ではない。
だけど子供が親衛隊長だなんて、現実感がなくて信じきれていなかった。
きっと自分には窺い知れない事情があるのだろう。
相手が子供だからって、軽く見るのはいけないことだ。
レイセスフィーナ様にも信頼されているようだし―――、
そう反省しつつ、アリエットはぽつりと呟いた。
「でも、どうしてあんないい子が……」
『くすくす。気を許してはいけませんわよ』
いきなり頭へ響いてきた声に、アリエットは小さく肩を縮めた。
思わず周囲へ目を向けそうになる。
けれど自分以外には誰もいない。それはもう分かっていたことだ。
アリエットの手首にあるお守りが、仄かな光を放っていた。
『彼女に悪意はなくとも、その力は大いなる災厄をもたらしますの。魔将を滅したこの国が潰えてしまうのは、わたくしも残念ですわ。ですからこうして、貴方に語り掛けておりますのよ』
「はい……承知しています」
石畳に膝をついて、アリエットは輝くお守りをそっと手の内に抱える。
そうして頭を下げながら、与えられた神託の内容を思い返していた。
「スピアさんの動向を、見張っていればよいのですね?」
『ええ。まずは相手を知ること。彼女がどのような力を持っているのか、何を為すのか、慎重に見定めなければなりませんの』
軽やかな笑声が、アリエットの頭に流れ込んでくる。
随分と愉しげで、艶めかしくもある声だった。
アリエットは静かに頭を垂れたまま、それにしても、と微かな疑念を覚える。
英知の神メルファルトノールは、この世界のすべてを知るという。
ならば、スピアのことも当然に知っているのでは?
わざわざ人間の目を介して、いったい何を見定めようというのか―――。
『時が来れば、また新たな指示を与えますわ。それまでは彼女の友人として振る舞いなさい』
一方的に告げられ、頭の中に響いていた声は途切れる。
それでもアリエットは、しばらく膝をついた姿勢を保っていた。
疑念など口に出来るはずもない。
紋章越しに神の意志を感じるだけでも、アリエットの身体は凍えたように打ち震えていた。
衛星都市については、四章で暴れた分の後始末ですね。
まだ片付いてなかったのです。
なので、次回は魔族との対決(嘘)です。
あ、あと書籍化決定です。詳しくは活動報告とかで順次、お知らせします。