図書館の少女
いつの間にか100話到達してました。
これも皆さんの応援あってのものです。ありがとうございます。
細い指が紙をめくる。
ぱさり、と。
乾いた音が冷ややかな空気を優しく撫でていく。
そうしてまた静寂が訪れる。
ベルトゥームの王城に備えられた図書館は、中流貴族の屋敷くらいの広さを持っている。それなりに歴史のある一国の図書館なのだから、蔵書の数もなかなかのものだ。古い書物も写本が重ねられて、丁寧に保管されている。
少なくとも、人一人では読みきれないほどの蔵書数を誇る。
管理するのも同じく、一人では難しい。
けれどいま、その図書館には一人の少女しかいない。
「……これも、違う」
その少女、アリエットは小さく呟いて読んでいた本を閉じた。
まだ成人もしていない少女の肌は瑞々しく、透きとおった白色をしている。けれど陽の光の下にいれば、その顔色があまりよろしくないのも分かるだろう。目の下に浮かぶ隈を、黒縁の眼鏡が辛うじて隠していた。
アリエットは溜め息を落としつつ、肩口で指先を回す。
編まれた藍色の髪が肩に掛かっていて、それを弄るのが癖になっていた。
「やっぱり簡単には見つからないよね」
分厚い本を抱えて席を立つ。
項垂れかける顔を上げて、アリエットは書架の奥へと向かった。
この王宮図書館には、本来ならば数名の司書が働いていた。大切な史料もある場所なので、上級貴族が司書長を務めるのが慣例だ。
下級貴族であるアリエットは、司書とは言っても雑務ばかりを担当していた。
しかし冬の少し前から、いきなり司書長にされてしまった。
いまは退いた国王ロマディウスの命令によって―――。
切っ掛けは、他の司書たちが逃げ出したことだ。
ロマディウスの暴挙に巻き込まれては堪らないと、王宮を離れる貴族は多かった。
とりわけ神への信仰心の高い貴族は、真っ先に去っていった。
敬虔な者ほどロマディウスから目をつけられると、噂になっていたから。
図書館には、英知の女神メルファルトノールの神像が置かれている。司書の日課として、その神像に祈りを奉げることから仕事が始まっていた。
必然、神への信仰が深くなる者も出てくる。
全員がそうという訳ではないが、ロマディウスを恐れる切っ掛けには充分だった。
そうして人がいなくなり、図書館は閉鎖される運びとなった。
書物など保管しておけば充分だろう、とロマディウスは言い捨てた。
けれどそれでは、アリエットは職を失ってしまう。
下級貴族はさほど裕福ではないのだ。平民とは隔絶した地位にあるとはいえ、貴族としての体裁を保つためにも金は掛かる。街の商人よりも貧しい暮らしをしている貴族だって、けっして少なくはない。
アリエットには書物で得た知識や、魔法の心得もある。
自分一人が暮らしていくだけなら、さほど困窮はしなかっただろう。
けれどアリエットには、王宮図書館に勤め続けたい理由があった。
「―――お願いします! 妹を救いたいんです!」
懸命の訴えが功を奏したのか、アリエットには分からない。
ともあれロマディウスは、図書館の閉鎖を取り止めてくれた。それどころか、アリエットに司書長の地位まで授けてくれた。
仕事は増えて、肩書きも身の丈に合わないものになって、恐縮するばかりだった。
でも、それ以上に給金も増えたのはアリエットの助けとなった。
だからロマディウスの退位に関して、アリエットの想いは複雑だ。
暴君が退いて嬉しいと思う部分もある。
けれど恩人が幽閉されたと考えると、悲嘆も覚えてしまう。
だがいずれにしても、アリエットが王宮図書館に通い続けるのは変わらない。
いまだに妹を救う術は見つかっていないから―――。
「古代にも、似たような症例はあったみたいだけど……」
本を書架へと戻して、アリエットは視線を上へと向けた。
明かり取りの窓から注がれる光は、もう大分蔭ってきている。天井には光を溜める魔法陣も施されているけれど、ずっと灯し続けられるものでもない。
今日はここまでか。一旦、家に帰ろう。
明日、また朝早くに来ればいい―――、
そう考えて、アリエットは図書館の出口へと足を向けた。
「よかった。見つかりました」
「え……?」
不意に投げられた声に、アリエットはビクリと肩を縮めた。
それでも反射的に振り返る。
書架の前に、小柄な女の子が立っていた。
「こんにちは。はじめまして」
「あ……は、はい。こんにちは?」
十才くらいにしか見えない、黒髪の女の子だ。着ている服は簡素だが仕立ての良さが窺えて、何処かの貴族令嬢かとも思える。
しかしアリエットには見覚えのない相手だ。
それよりなにより、この場に誰かが居るというのがおかしい。
つい先程まで、図書館にはアリエットしかいなかったはずだ。
「えっと、あの、どなたでしょう……?」
とりあえず訊ねてみる。
もしも上級貴族の子供だったら大変だと、アリエットは失礼の無いよう背筋を伸ばす。なるべく上品に見える笑顔も取り繕った。
だけどそんな心構えは、あっさりと打ち砕かれる。
「教えません!」
ひくり、とアリエットは頬を歪めてしまう。
仮にも図書館を預かる者として、アリエットには不審者を叩き出す権利がある。たとえ相手が上級貴族の子供だとしても、正当な行為だったと言い張れなくもない。
この可愛くとも生意気そうな子供をどうしてくれよう。
本当に摘み出そうか―――、
そんな考えを巡らせるアリエットの前で、少女はすっと腕を伸ばした。
細い指の先に円形の影が浮かぶ。
いきなり不可思議な光景を見せられて、アリエットはぱちくりと瞬きを繰り返してしまう。
「え……? な、なんですか、それは? 魔法?」
「『倉庫』です」
簡潔だが分かり難い返答をして、少女はその影に手を差し込んだ。
そうして一冊の本を取り出す。
少女が押し潰されそうなほど分厚く、細やかな装飾の施された本だ。
「これを、何処か目につきそうな所に置いといてください」
「は? あの、その、意味が分からないのですが?」
「そのうち分かります。あ、いえ、分からないかも知れません。わたしのすることなんて、わたしにも予測不可能ですから」
少女の態度は自信たっぷりだ。
だけどその言葉は奔放すぎて、責任感の欠片も感じられない。
「えっと、どういうことなのか、もう少し詳しく……」
「とにかく、お願いします」
差し出された本を、アリエットはつい受け取ってしまう。
勢いに押し負けたのだ。
ずしりと重い感触に、非力なアリエットは思わず体勢を崩して―――、
「あれ……?」
顔を上げたアリエットは、また瞬きを繰り返した。
そこにいたはずの少女が忽然と消えていた。
怪訝に眉根を寄せながら、アリエットはきょろきょろと周囲を見回す。やはり誰もいない。だけど手元には、ずっしりと重い本が残されていた。
「どういうこと? あの子は、いったい……あの子? あれ? 子供だったかな?」
首を傾げつつ、自分の記憶を探る。
しかし思い出せない。子供だったかどうかというだけでなく、相手の顔や声までも、なにもかもが曖昧なものになっていた。
不審な者を見たのだから、警備の騎士へ報せるべきだったのかも知れない。
けれどアリエットの胸には、まったく警戒心が浮かんでこなかった。
それどころか、不思議な安心感がある。
確かに、見知らぬ誰かと会ったのは覚えているのだけれど―――。
「……とにかく片付けをしないと」
眼鏡を上げ直しながら、アリエットはまた小首を傾げる。
手元にある分厚い本はいつから持っていたのか、それすらも忘れてしまっていた。
◇ ◇ ◇
王城の周りを囲う形で、貴族街が設けられている。
下級貴族であるアリエットの家は、その外れ、平民街に近いところにあった。
何軒もの家がまとめて建てられている区画だ。
両親が遺してくれた家は、貴族として一応は恥ずかしくない建物になっている。
それでも周りの家に灯りがついている中で、一軒だけ暗がりにあるので寂しげな雰囲気は拭えない。春先になって、伸びてきた雑草も放置されている。
「……もう少ししたら、庭師に頼まないと」
貯金が減るのを頭の中で計算しながら、アリエットは玄関をくぐった。
家に入って、ただいま、と告げる。
返答は期待していない。通いの侍女は雇っているけれど、夕刻には帰宅する契約になっている。
作り置きしてくれているはずの夕食を温めて―――と思った時だ。
「おねぃちゃん、おかえりなさい」
奥の扉が開いて、元気良く声が掛けられた。
「リゼット、起きて大丈夫なの?」
「うん。今日は調子いいの。借りてきてくれた本も、全部読み終わったよ」
寝間着のまま、とてとてと歩み寄ってくる。リゼットは嬉しそうにアリエットの腰に抱きついた。
今年で十才になるリゼットは、ほとんど家から出られない。
もっと幼い頃は、父親から剣を習うほどに活発な少女だった。兵士たちの訓練場にも顔を出して走り回って、母親譲りのふわふわの金髪を風になびかせていた。
けれど、とある病気を患ってからは、とても身体を鍛えるどころではなくなった。
「本当に大丈夫? 痛みとか、痺れもないの?」
「へーきへーき。いまね、夕御飯も作ってたところなんだよ」
満面の笑顔を見せられて、アリエットは複雑に表情を歪める。
久しぶりに妹の元気な顔が見られた。嬉しくないはずがない。夕食も楽しみだ。
けれどやはり、不安も残る。
ふとした拍子に、また何日も寝込んでしまうかも知れないのだから。
「すぐに支度できるからね。ほら、おねぃちゃんは着替えてきて」
「う、うん……あ、でも火を使うのは危ないから……」
「大丈夫だって。ゆっくり一休みしててもいいからね」
リゼットに背中を押されて、アリエットは渋い顔をしながらも従う。
手早く自室で着替えを済ませると、すぐに厨房へと向かった。
「もー! 休んでって言ったのに」
「そういう訳にもいかないよ。一緒に作ろう」
「うん! あ、でもおねぃちゃんは、味付けするのはダメだからね」
「わ、分かってるよぅ」
二人の父親は、騎士として魔物討伐へ向かった先で命を落とした。その後の心労が多かったからか、母親も後を追うように息を引き取った。
以来、二人は手を取り合って暮らしている。
家事をするのも難しいリゼットだが、何をするにもとても器用だった。
いまも手早く食材を捌いて、シチューを煮込んでいく。
「そっちのお芋は、もう少し小さくてもいいよ。ちゃんと溶けないようにするから」
「小さく……これくらい?」
「もー! 包丁を持つ時は、手を丸くして。危ないよ」
「だ、大丈夫。ちょっと忘れてただけだから。お料理の基本だよね、基本」
ころころと表情を変えながら、リゼットが的確に指示をする。
アリエットは困り顔になりながらも素直に従った。姉としての威厳は、もう拘るほど残っていない。
自分の方が病気になっていれば―――、
いったい幾度そう思ったのか、アリエットは覚えていない。
でも一度それを口にした時のことは忘れられない。こっぴどく怒られたから。
頬が腫れ上がるほどに往復ビンタを喰らわされた。
その時のリゼットは、体調を崩してベッドから起き上がるのも難しかったのに。
それまで一度だって、姉に対して手を上げたことなんてなかったのに。
泣きながら怒っていた妹の顔を、アリエットははっきりと思い出せる。
「おねぃちゃん、どうかした? お城で嫌なことでもあった?」
「え? あ……違うの。ちょっと考え事をしてただけ」
「だったらいいけど……ん、そろそろいいかな。美味しそうに煮えたよ」
鍋を掻き回して、リゼットはあどけない笑みを見せる。
アリエットも笑みを返すと、食器を用意して席についた。
神への祈りを奉げてから、熱いシチューを口へ運ぶ。
「おねぃちゃんは聞いた? 最近、王都で魚が出回るようになったんだって」
「魚って、それがどうかしたの? 食べたくなった?」
「川魚じゃなくて、海のお魚だよ。しかも干物じゃないんだって。生の魚で、他にも貝とか、珍しい食材がいっぱいらしいよ」
「え……それはおかしくない? 似たような魔物とかじゃないの?」
アリエットはずっと城に詰めているし、リゼットも街には出られない。
だけど通いの侍女が、あれこれと話を仕入れてくれる。
雑談に興じながら、二人は食事を進めていった。
アリエットの切った野菜は不揃いで、たまに硬い部分が混じっていたりする。だけどそんな失敗も笑声に混じって消えていった。
そうして穏やかな時は、あっという間に過ぎていく。
片付けも終えると、すっかりと夜は更けていた。
「リゼット、そろそろ寝ないと……っ!」
バチリ、と小さな音とともに閃光が走る。
雷光にも似たそれは、リゼットの体から発せられた。
立ち上がろうとしていたリゼットは、蒼い顔をして椅子へ座りなおす。
しばし慎重に呼吸を繰り返しすと、やがてほっと息を吐いた。
「大丈夫。今回は、大したことなかったみたい」
「そう……よかった。でも念の為に、またしばらくは安静にしておこう」
妹の頭を撫でて、アリエットは憂い混じりの笑みを浮かべる。
「もう少しだけ我慢して。絶対に、治療法を見つけてみせるから」
「……うん。平気だよ。あたしたちは、何だって出来る」
蒼褪めた顔で、リゼットは柔らかく微笑む。
強がりだというのは本人も分かっているのだろう。
だけどアリエットは迷いなく頷く。その言葉が真実になると信じられる。
根拠なんて何処にもない―――、
そう分かってはいても、たった一人の妹を見捨てるなんて出来るはずもなかった。
リゼットを抱えて部屋へ運んで、眠るのを見届ける。
そうしてから、アリエットも自室へと戻ってベッドに腰掛けた。
肩に掛かった髪を、ぼんやりとしながら弄る。
「……リゼット、また軽くなってた」
気のせいかも知れない。
だけどずっと家に篭もっているのが身体に良いはずもない。
どうしたら―――と、沈み込む思考を打ち切って、アリエットは頭を振った。
考え込んでも答えが出ないのは分かっている。
ひとつ深呼吸をすると、アリエットは手首をくるりと回した。
そこには銀の鎖が巻かれていて、小さなお守りが吊るされていた。
英知の神メルファルトノールの紋章を象ったものだ。司書となるのが決まった日に、両親がお祝いとして贈ってくれた。
それに祈りを奉げてからベッドに入る―――、
毎日繰り返してきたことだ。けれど、この日は違っていた。
「え……? な、なに!?」
両手に包んだ神の紋章が、眩いほどの光を放ち始めた。
そのまま紋章は宙に浮かぶ。
もちろんアリエットが何かをした訳ではない。
明滅する光を、ただ呆然として見つめ続けた。
『―――わたくしは、英知の神メルファルトノール』
光の中、声が響いた。
とても透きとおった、知性を感じさせるような女性の声だ。
アリエットは愕然としながらも、ほとんど反射的に床に膝をついて頭を垂れた。
『くすくす……そんなに畏まらなくてもよろしくてよ。わたくしはただ、貴方に救いを授けようとしているのだから』
いったい何が起こっているのか?
紋章から響く声は、本当に神のものなのか?
様々な疑問はあっても、アリエットの意識はたった一言に注がれる。
救いがもたらされる。
妹を、リゼットの病を治せる―――、
そのためならば、なにもかもを投げ打つ覚悟はとうに決まっていた。
第五章開始。
図書館はなんとなくダンジョンっぽいので、今度こそダンジョンものっぽくなる……はず!