第一節:出会い
「とりあえず、状況を説明して欲しいな」
俺は心の底からそう思い、目の前の女へと話しかけた。
情けない話しだが、自分が言葉にした通り俺は現状をまったく把握してはいない。
むしろ把握しているほうがおかしいとさえ思えた。
俺が今のような状況になったのはほんの数分前、それまではいつものように残業をし、薄暗い帰り道を1人で歩いていただけだった。
それが、何かに肩を叩かれた感触がしたと思ったら、チャンネルを変えるみたいに、ぱっとどこだかわからない森へと風景が切り替わったのだ。
そしてあまりの変化に頭がついていかずに、ぼうっと突っ立っていたら、今目の前にいる女に襟首を掴まれ、彼女の後ろへと投げ飛ばされた。
最初は何をされたのかわからず、ただ尻餅をついたまま動けなかったが、徐々にこの変化に慣れてくると俺は女に文句の1つでも言ってやらないと気がすまないという結論に達する。
俺は立ち上がり、彼女へと視線を向けた。
だが、俺は彼女に怒鳴りつけることはできなかった。
手に持つ武器と異様な出で立ちが、それをさせなかったのだ。
彼女は右手に刃渡り20cm程度のナイフを構え、服装は紺色のアンダーシャツに薄い緑色ジャケットのようなものを羽織っている。
下はジーパンよりも硬そうな生地の迷彩色のものを着用し、靴は森の中でも動きやすそうな黒いブーツを履いていた。
はっきりいってにわか自衛隊員である。
ちなみに俺の服装はというと、灰色のスーツ姿に眼鏡をかけ、黒い革靴、茶色い鞄を持った、ただのサラリーマンだ。
彼女が何者なのかまだわからないが、俺達2人の服装を見比べれば子供でもどちらが強いかはっきりと答えるだろう。
そんなわけで、彼女に微妙な危機感を覚えた俺は、怒りの言葉ではなく、かといって主導権をとられるような弱腰の言葉でもなく、あくまで冷静を装った普通の話し方をしたのだった。
そんな俺の思惑など知らない彼女は、こちらに背を向けたまま俺の言葉に返事を述べた。
「危険な状態だわ。ジャエナに囲まれているから」
彼女の答えに俺が持った感想は、なんのこっちゃわからない、これであった。
だが、彼女が話した言葉にはふざけた様子はなく、真剣であることが伺え、また話す言葉を聞く限りでは、彼女は何かから俺を守るために俺を押し倒したことがわかった。
つまり、彼女は俺に敵意を抱いていないということだ。
状況についてはいまだ良くわからないが、それがわかっただけでもよしとしておこう。
「こんなことなら、ちゃんとしたものを着てくればよかったわ。やつら動きが早いから重い装備だと遅れをとってしまうけど、今の装備じゃあまりにも心もとないし。せめてレザーメイルぐらい着てくればよかった……」
とりあえず納得した俺は、尻餅をついた時についた土を払っていると、彼女は独り言のように声を沈めて語りだした。
先ほどの返答と、独り言から推察するに、どうやら俺達はジャエナという何者かに狙われているらしい。
相手の正体もわからず、ましてや狙われる理由すらもわからないのは非常に気分が悪い。
俺は彼女にそいつについて聞こうと決心する。
彼女に聞くため右手を伸ばし肩に手を触れ、こちらに興味を持たせようと試みた、がその右手が彼女の肩に届くことは無かった。
丁度触れそうになった時、急に彼女が姿勢を低くしたのだ。
何事かと思い、今度はそれについて尋ねるためもう一度手を伸ばしたが、それも彼女の肩に接触することは無かった。
後ろからでもわかる彼女の異様な気配に、触れてはいけないと感じたのだ。
彼女から今の状況を聞くという手段を失った俺は、とりあえず彼女が向いている方向に目を凝らすことにした。
するとどうだろうか、前方の木々の間に何やら怪しい光りがちらちらと見える。
あれは!? と感じた俺はさらに前方を凝視してみた。
ずっと見ていると徐々に暗さになれ、その目には4足歩行で動く犬に似た黒い影が木々の間を駆け抜けているのが見えた。
(なるほど、ジャエナっていうのは狼のようなものなのか。だから彼女は危険だって…………というか戦うつもりなのか?)
俺がそんなことを考えていると、彼女は急に前方に駆け出した。
何事かと思い俺は視線を彼女へ向けると、彼女が立っていた場所に3匹ほどのジャエナと呼ばれる狼が左右から飛び掛ってきたのだ。
「うお!?」
驚いた俺は思わず後ろへ飛びのいた。
ついさきほどまで前方の木々の間にいたと思っていたものが、いつの間にか彼女の両サイドに回り奇襲をかけたのだ。
驚いて当然だろう。
だが、狙われたのは俺ではなく彼女のほうであったため、その奇襲は失敗に終わった。
彼女が前方に駆け出したことにより、標的を失った奴等は互いにぶつかり地面に落下したのだ。
けれど奴等は猫のように落ちる途中で体勢を立て直し、そのまま彼女の方へと向き直るとその鋭い眼光で睨み付けるのだった。
うぅ! と警戒した声を鳴らしながら、今にも飛び掛ろうといった感じだ。
そんな飢えた狼のようなジャエナ達だったが、なぜか俺のほうには1匹たりとも見向きもしない。
どうやら奴等にとって俺は戦力外で、後で何とでもできる餌と見ているらしい。
ためしに軽く足音を鳴らしてみたが、振り向きもしないので間違いないだろう。
ジャエナ達に相手にされていないとわかった俺は、奴等の対応に微妙に腹が立ったが今攻撃すれば奇襲になるのではと思い、怒りを静め鞄から筆箱を取り出して武器になる物を探し出し始めた。
筆箱をあさっている間、俺はふとこんなことを考えた。
なぜこんなに冷静なのだろう? なぜ俺は攻撃しようなどと考えたのだろう? と。
普通に考えれば、狼相手に戦おうなどとはまず思わないし、こんなにも冷静ではいられない。
しかし、俺は冷静に戦うという答えを出していた。
その後もそれについて考えたが、結局、筆箱の中身を把握し終わっても答えはでなかった。
答えが出ないのならば仕方ない。
とりあえず俺はいったんそのことを忘れ、奇襲を成功させることに考えを切り替えた。
筆箱の中に入っていたのはシャープペンシル、ボールペンが2本、消しゴム、カッターであった。
この中で唯一武器として使えそうなのはカッターのみである。
「ないよりはマシか…………」
あまりの装備の貧弱さに、思わずそんなことをつぶやいてしまった。
俺はカッターとボールペン2本を取り出すと、鞄を静かに地面へと置き、棒手裏剣の要領でボールペンを構え勢いよくジャエナへと投げつけた。
一般的にボールペンを投げて、まっすぐ飛ばすというのは難しいことである。
だが、俺はこれを得意としていた。
普段の生活ではまったく役に立たない特技であったが、こんな危機的状況で役に立ったのだ、よしとしておこう。
勢いよく飛ばしたボールペンは、何者にも邪魔されることはなく注意が彼女のほうに向いていたジャエナに見事命中した。
「キャイン!」
深々とボールペンが刺さったジャエナは大きな叫び声をあげた。
刺さった部分からは赤い血がじわりと滲み出し、ジャエナの毛を赤黒く染める。
俺のことを戦力外と認識していたジャエナにとっては予想外の攻撃だったのだろう、必要以上にダメージを受けたらしく、よろよろとおぼつかない様子で俺の方へと向き直った。
ボールペンの当たった場所は右前足の肩の位置、俺の方へと振り向いた時の歩き方からおそらく機動力は奪えたはずである。
(さて、どうしたものかな。こんな戦いは初めてだからわからんな。せめて人だったら喧嘩で済んだ筈なんだけど、なんだかな~。まぁ殺らなきゃ殺られるか)
そう俺が思案していると、今まで睨み合いを続けていた彼女が動きだした。
普通睨み合いの最中、先に動くというのはリスクが大きい。
相手が集中して見ている為、攻撃を当てるのが難しい上避けられた瞬間に反撃を食らう恐れがあるからだ。
だが、一瞬でも注意が逸れれば、睨み合いで生じるリスクは皆無に等しい。
それどころかピンチがチャンスへと変動することになる。
仲間の叫び声に気を取られた奴等は、彼女から注意を逸らしてしまった。
彼女はその瞬間を見逃さなかったのだ。
彼女の攻撃は早い。
持っていたナイフを横薙ぎし、左側のジャエナに切りかかった。
ナイフは風を切り音だけを奏でながら、一直線にジャエナへと向かっていく。
注意を逸らしてしまったジャエナは、ナイフの風きり音でようやく自分が攻撃されていることに気がついた。
ジャエナは必死に後方へと回避行動取るが、気づくのが遅かったため、鼻の頭をナイフでえぐられてしまう。
思わず前足を鼻へと当て、悶えるジャエナ。
その動きはジャエナにとって致命的な隙を生んでしまう。
ジャエナが飛んだ後、すぐさま追い打ちをかけた彼女のナイフがジャエナへと迫ったのだ。
彼女は横薙ぎにしたナイフを逆手に持ち替え、ジャエナの頭上に一直線に振り下ろす。
振り下ろされたナイフは、ガツンと鈍い音を立てた後、ジャエナの脳天に深々と突き刺ささった。
おそらくナイフの刺さり方から見て、頭蓋骨を砕き脳にまで達しているだろう。
脳に致命的なダメージを受けたジャエナは、叫び声も無くそのまま息絶えた。
あまりの急な展開に、それを見ていることしか出来なかったもう一匹のジャエナは、唸りを上げる。
「ウォーーーーーン!」
森中に響き渡るような声を張り上げ、怒りをあらわにしたジャエナは、彼女へと向かい駆け出した。
きっと奴等なりの気合の入れ方だったのだろうが、それが不幸を呼ぶ。
俺と睨み合いとなったジャエナに隙を作ってしまったのだ。
(行くしかない!)
俺はボールペンをジャエナの顔めがけて投げると、左手に持っていたカッターの刃を出しながら、奴に向かって地を蹴った。
注意がそれ、機動力の失ったジャエナには俺のボールペンは避けることはできなかった。
ボールペンはジャエナの右目を捉え、赤い血飛沫を上げさせる。
「キャウン!」
大きな声がジャエナから上がる。
奴は声を上げるとともに、目に刺さったボールペンを必死で抜こうと前足を動かした。
そんなジャエナに俺が迫ってくることなど気づけるはずもない。
俺はカッターを右手に持ち替えると、奴の首に刃を押し当てて勢いよく腕を振るった。
カッターはジャエナの喉を切り裂き、骨まで達するとポキリと折れた。
喉を切られたジャエナは、切られたその場で横たわり2、3度呼吸をしたかと思うと生き絶えた。
(勝った……)
さほど動いたわけでもないのに、息は荒く心臓は早鐘を打っている。
それでもなぜか頭だけは冷静であった俺は、ジャエナと戦う彼女がどうなったのかを知るべく、横たわるジャエナから視線をはずし彼女へと向き直った。
彼女はまだジャエナと戦っていた。
だが手にはナイフは持っておらず、襲い掛かってくるジャエナの攻撃を避けるばかりであった。
このままでは間違いなく彼女はやられるだろう。
何とかしなければと思っていると戦況が変わった。
何度目かの回避だろうか、彼女は大きく後方へとジャンプした。
そしてそれを追うようにジャエナが飛び掛る。
背後に飛び退く彼女と、正面から飛び掛るジャエナとではジャンプの幅は大きく違うだろう。
このままでは着地と同時に彼女は間違いなくジャエナの餌食となってしまう。
けれど彼女はそんな状況で笑みを浮かべていた。
そしてジャンプ中に彼女は大きく右腕を振るった。
振るった右腕からは先ほどのナイフより小さい果物ナイフが飛んでいく。
ナイフはジャエナの腹部に見事突き刺さる。
だが、刺さったとしても飛び掛った勢いは消えず、このままでは彼女とぶつかってしまう。
すると彼女は足が地面についたと思ったら、そのまま体を仰向けで寝るように後ろに傾けた。
体を傾けたことにより、ジャエナの突進は彼女の上を通過していく。
そして丁度ナイフの刺さった腹部が上まで来たとき、彼女は思い切り蹴り上げナイフをより深く刺したのだ。
ほぼ同時にどさっと言う地面にぶつかる音が鳴り響く。
生き物ならば、この後起き上がるだろうが起き上がったのは一方だけ。
もちろん起き上がったのは蹴りで止めをさした彼女のほうである。
「ふぅ」
起き上がった彼女は激しい戦闘のため顔に汗を流し、手の甲でぬぐうと一息ついた後、俺のほうへと向き直った。
「もうジャエナはいないみたいね。とりあえずこれで一安心よ」
「ん、あぁそうか、それはよかった。さすがに、こいつじゃそう何匹もやってられん。刃だって折れちまったしな」
彼女に笑顔で話しかけられた俺は、肩の力を抜きおどけたポーズを取り、自分が持っているカッターを見せた。
手に持つ刃の折れたカッターは、柄の部分を抜くと2cmほどしか刃が無い。
カッターを見せた後、俺は彼女に話しかけた。
不安を取り除こうとしたのか、はたまた戦闘により興奮しただけなのかわからないが、少し高めのテンションで。
「それにしても強いね。普通はあんな風に体動かないもんだと思うんだがね」
「そういうあなたこそ、数が少なかったとはいえAランクの私よりも、ジャエナを早く狩るなんてたいしたものね。それよりもあなた、なんでこんな時間にこんな森にいるの? それとその格好は? そして何者?」
俺の話しに彼女は笑顔で乗ってくれた。
だがこんな暗い森の中にいるにはあまりにも怪しい格好である俺に対し、彼女は質問を繰り返す。
その表情は笑顔ではあるが、どこか不審人物を見る目をしていた。
彼女の質問、その態度は至極当然だろう。
真夜中の森にスーツ姿の男がいたら、それは間違いなく自殺志願者にしか見えない。
「何者といわれても困るんだが、とりあえず一般人。この格好については俺のところではごくごく普通の格好。それと何でこの森にいるのかは俺自身よくわからない。予定では町にいたはずなんだけど」
「ふ~ん、そう……」
俺が質問に答えると、彼女は手を顎に添え何か考え事を始めたようだ。
おそらくは、俺の答えの真偽を選別しているのだろう。
「とりあえずそちらの質問に答えたのだから、こっちの質問にも答えてもらっていいかな?」
「えぇ、いいわよ」
俺は考え込んでいる彼女を見つめていたが、少し時間をおいた後すぐに口を開き質問に答えてくれと投げかけた。
待っていても必要な情報は入ってこないと思ったからだ。
言葉を投げかけられた彼女は考えるのをやめ、俺の質問に答えることに了承の意を返した。
「まずここがどこなのかを聞きたい、俺自身はある程度予想はできているんだが、あまりにもとっぴ過ぎて信じられないんだ。ここは地球とは違うんだよな?」
そう俺が尋ねると、彼女は額にしわを寄せ疑いの表情を見せた。
「チキュウ? 聞いた事ないね。それっていったいどこなの? それとここはガンザルのはずれの森よ」
俺はこの答えを聞き自分の予想が正しいことを理解した。
急に自分のいた場所が変わった理由はわからないが、ここが自分のいた世界ではないということを。
「なるほど……中学時代にあこがれた異世界がまさか本当にあるとはな……」
「何か言った?」
まさかの展開に思わず1人つぶやいてしまう。
小さい声でつぶやいたため、内容は聞こえなかったようだが目の前にいる彼女に怪訝そうな顔をしながら尋ねられてしまった。
できることなら好印象で次の話に移りたかった俺は、しまったなと自分の失敗を軽く反省すると、少しでも印象が良くなるように話しだした。
「あぁいやただの独り言。あぁそうだ。大事なことを聞くのを忘れていた」
「大事なこと?」
「そう。非常に大事なこと。あなたのお名前を伺いたい」
「えっ! 私の名前?」
驚く彼女に怪訝な顔はもう見えず、驚いた顔が覗かせる。
今だと思った俺は、間髪いれずに話をつむぐ。
「えぇ、俺にとってあなたは命の恩人といってもおかしくない。ですから是非お名前をお聞かせ願いたい。もし、俺一人だったらあのジャエナを倒せなかっただろうし。それに、綺麗な人に対して名前を聞かないというのは罪だ」
できるだけ笑顔で、好印象を与えるように話しかけた。
ちなみに俺が口にした言葉は、半分は打算だが半分は本音である。
打算というのは俺にとって彼女が、異世界であった初めてあった人間だということが関係している。
この世界で、知り合いの無い俺にとってこの出会いを逃す手は無い。
そう考えたため是が非でも名前を聞いて関係を作りたかったのだ。
本音というのは、彼女は世辞じゃなく本当に綺麗なのだ。
だから俺は、名前を聞いて関係を作りたかった。
「はははは、変な人! そうねいいわ、教えてあげる。私の名前はエマ、エマ=セムリアよ。それであなたの名前は?」
「これは失敬。俺の名前は明、明=新宮っていう」
打算的な考えもあったが、エマという綺麗な女性は俺に明るい笑顔で答えてくれた。
俺も彼女につられる笑顔で、自分の名前を口にした。
この時初めてこの異世界で本当の笑顔をしたと思う。
異世界に何のために飛ばされたのか、これからどうなるか、俺自身わかっていない。
ただ、彼女の笑った顔と、これから何が起こるかというワクワクのせいで、異世界に来たことの不安などすべて吹っ飛び、ここに来る事が出来たことを心の中から喜び、歓喜している自分がいることは確かだった。