僕と君の出会い
ここは、どこだろう。
冷たい。寒い。痛い。
僕はこのまま、死んじゃうのかな。
真っ暗な道を右へ左へよろめきながら進む。
目的地はない。当てもない。
ただ、此処よりも安全な場所を求めて足が進む。
どうして僕はこんなこ事になってしまったんだろう。
痛む頭を振って思い出してみる。
僕は、質素ながらそれなりに充実した生活をしていた。
紅葉が色鮮やかに空を覆う頃、母は人目につかぬところで一人、ひっそりと僕を産み落とした。
父親が誰か、そんな些細な事知ろうとも思わない。
母がいれば十分だ。
その日食べる事さえ精一杯の生活だったけど、その分生きている事を、生きるという事をまざまざと感じられた。
僕の体はまだ小さくて大きな仕事は出来ないけれど、母さんはいつだって僕を褒めてくれた。
ある日突然、僕たちが暮らしていた地区にとても傲慢で暴力的な奴が現れた。
体も顔も態度もでかくて、ジャイアニズムの塊みたいな奴だ。
注意や制裁を加えようものなら返り討ち、それどころか逆に地区を追われて行く仲間をたくさん見てきた。
母さんは、見るな・話すな・近づくなと僕に口酸っぱく言いつけてきたが、僕は小さな怒りを燻らせる。
秋から冬へと季節が変わり、寒さが身に染みるようになってきた今日。
怖れていた、最悪な事態が起こる。
奴が、脂ぎった顔で醜く笑いながら母さんに声を掛けてきた。
母さんはもちろん、無言の拒否を押し通すが奴は全く諦めない。
離れろ。触るな。消えろ。
僕の精一杯な威嚇も奴にはなんら効果は無く、邪魔だと苛立つ奴の右手に簡単に弾き飛ばされてしまった。
コロコロと回る視界の端に入ったのは、奴の巨体にのしかかられている母の姿。
母さんに触るんじゃねぇ!!!
もう、無我夢中で正直よく覚えていない。
奴の首に飛びついて、ありったけの力を込めて噛み付いた。
唸る奴の声。叫ぶ母の声。殴られた痛み。骨が軋む音。
気がつくと、寒空の下、ボロボロになったまま転がされていた。
周りには誰も、母も奴も、誰もいない。
僕は、母さんを守れなかった。
思い出すだけで泣けてくる。
痛みじゃない、自分の情けなさに泣けてくる。
ああ、雨まで降ってきて。
僕はどこまで惨めになるんだろう。
ふらふらと彷徨っていた足も麻痺してきて痛みを感じなくなってきた。
あー。死ぬのかなー。
霞む目。
動かない手足。
喉からはヒューヒューと変な音まで出始めた。
母さん…母さん…ごめん。
「やだ…ちょっと、大丈夫!?」
目が覚めると、見た事もない場所にいた。
僕、生きてる。
体は未だに動かないけれど、ほぼ全身に包帯が巻かれていて、誰かに治療してもらったことが明白だった。
ここは…誰が…
「おお、目が覚めたか。悪運の強い奴だな。でも、もう大丈夫だ」
医者らしき男性がいきなり現れ、思わずビクッと体を震わせる。
その衝撃で全身が痛み、グググと喉がなった。
「あ!気が付いたのね!良かったー!やっぱり先生天才!ありがとう」
続いて頭を覗かせたのはとても綺麗な女性だった。
ガバッと頭を上げ、彼女を食い入るように見る。
痛みなどしばし忘れた。
この鈴の音のような声。
僕を助けてくれた人はこの人だ。
記憶の片隅に残る、僕を心配してくれた女性の声。
ボロボロで、尚且つ雨に打たれて汚い雑巾のような僕を迷うこと無く抱き上げてくれた。
意識が飛んでしまって顔を見ることが出来なかったけど、間違いない、君が僕を助けてくれたんだね?
よく見ると、彼女も濡れているようで首からタオルを掛けている。
僕を抱いていたせいで傘がさせなかったのだろうか。
申し訳ない。
ああ。
ありがとう。
僕のために、濡れてまでこんな僕を助けてくれて本当にありがとう。
感謝しても仕切れない、高ぶる感情が涙として溢れ出た。
「もう大丈夫だよ。安心して。うちにおいでよ」
今日1日で、人生最悪の不運と最大の悪運と最高の幸運を使った。
まさか、まさかそんなことを言ってくれるなんて。
こうして僕は、君の家へ招き入れられた。
母さんと離れ離れになることは悲しい。
この状態になってしまっては、きっと僕はもう、母さんに会うことはできないだろう。
そうやって僕は大人に、男になっていくんだ。
「私はこのみ。こっちは拓で、こっちが朔。そしてあなたは今日から陸よ。これからよろしくね」
彼女、このみちゃんの家には僕と同じ奴が他にもいた。
灰色の奴と黒い奴。
どちらも僕より大分大きくて、明らかに邪魔者が増えた、とでも言うような視線を投げつけてくる。
こ、怖くない。怖くないけど、うう…。このみちゃーん!!
灰色と黒から逃げ出すようにこのみちゃんに縋り付いて抱き上げてもらうと、それが彼らの逆鱗に触れたのか、割と本気の力で叩いてきた。
ああー、こいつら、このみちゃんが好きなんだな…。
分かりやすい奴ら。
…負 け な い !!
僕だってこのみちゃんが好きだ!
僕を助けてくれた、優しくて、温かくて、柔らかいこのみちゃんが大好きだ!!
お前らには負けないぞ!!
そう、調子に乗って威嚇すると、黒いのにコロコロ転がされて目が回るまでおもちゃにされた。
このみちゃんたちとの生活は、本当に穏やかで、こんなに幸せでいいのかと不安になるほどだった。
灰色と黒ともなんやかんやうまくやっている。
向こうからすれば、面倒を見てやっているって感じなんだろうけど。
体の至るところにあった痣は綺麗に消えて、手も足も元通り。
以前までの暮らしとは違って、毎日ちゃんと栄養のある食事を与えられているから成長も著しい。
体は大きくなりつつあっても、このみちゃんに甘えたい衝動は治まることを知らなかった。
その日、このみちゃんはキラキラのふわふわで、妖精のように綺麗だった。
なんだか嬉しくなって彼女の周りをぐるぐる回る。
このみちゃん可愛い!すごく綺麗だよ!
彼女は恥ずかしそうに微笑みながら、器用に髪を纏め上げていった。
その女性らしい仕草にドキッと胸が鳴る。
このみちゃん。このみちゃん…。大好きだ。
「友達の結婚式なの。私がこんなにめかしこんでもしょうがないってわかってるけどね」
だけど、このみちゃんの表情は暗く、どこか悲しそう。
鏡に映る自分の姿にひとつ、大きなため息をついて彼女は部屋を出て行った。
このみちゃんの気を落とさせているのは何だろう。
大丈夫、僕が癒してあげるよ。
だから早く帰ってきて。僕を、抱きしめて。
そんな僕の願いが届いたのか、このみちゃんは思いの外早く帰宅した。
嬉しさで勢い良く起き上がると、彼女が走ってリビングへ飛び込んでくる。
僕は驚き、困惑して、言葉を失った。
このみちゃんがボロボロと涙を流しているのだ。
灰色と黒と僕を一緒くたに抱きこんで嗚咽を漏らすこのみちゃん。
僕はうろたえる。
なに。なにこれ。
このみちゃんに何があったの。
僕をどん底から救い上げてくれたこのみちゃんはまさに太陽で、いつもニコニコ優しく笑っていた。
頭を撫でてくれる手は温かく、君の腕の中はどんな場所より安心できた。
そんな僕の大好きなこのみちゃんが、涙でその綺麗な顔をぐしゃぐしゃにしている。
こんなこのみちゃん、初めて見る。
「もういい!私にはいらない!男なんていらないの!私には…あなたたちがいてくれたらそれでいいの」
ああ、陰る。
僕の太陽が陰ってしまう。
このみちゃん、誰に、何をされたの。
このみちゃん、何が、君をこんなに苦しめるの。
僕の、何より大切な光を、誰が奪おうとするの。
僕は、このみちゃんをただ見守ることしか出来ない。
泣かないで。僕がいる。安心して。君が好きだよ。
何も出来ない自分がどうしようもなく小さい存在に思えて吐き気がする。
大好きな人の心を、体を、温めてあげることが出来ない。
何故、このみちゃんは泣いているの。
何故、僕はその涙を拭うことが出来ないの。
何故…。
何故、僕は、猫なの。
僕が人間なら、今すぐぎゅってしてあげられる。
僕が人間なら、優しくその涙を拭ってあげられる。
僕が人間なら、君に、一生掛けて感謝を伝えられる。
ああ、どうして、なんで、何故、僕は猫なんだろう。
僕を、人間に。
僕を、人間にして欲しい。
君という存在が、僕にとってどれだけ大切か、どれだけ愛しいか、僕に伝えさせて。
「あなたが…あなたたちが、人間だったら、いいのに…!!」
「僕を…人間に…人間にしてくれ…!!」
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「…く…りく…陸ってば」
気持ちいい。
風に遊ばれる僕の髪を優しく払い、君は僕をまどろみから連れ出す。
ちょっとうたた寝をしていたみたい。
懐かしい夢を、見ていたと思う。
僕の太陽はあれから陰ることなく陽だまりを作ってくれている。
その温かい光に向かって、僕はひまわりのように真っ直ぐ、ただ純粋に感謝を伝える。
彼女がすらりとした白く滑らかな手をこちらに差し出した。
僕の、想いを、受け取って。
軽やかにベットから飛び起き、勢い良く彼女に抱きつく。
以前なら抱きとめられていたこの体は、いとも簡単に君を押し倒した。
困ったように笑う君の腕の中は、どうしてこんなに安心できるんだろう。
もう一度、君への感謝を伝えさせて。
僕は、このみちゃんと同じ、人間になった。
「大好きだよ、このみちゃん」
「僕と君の出会い」をお読みいただきありがとうございます。
シリーズ第三巻でございます。
これで、このみの家族は全て紹介できました!
次は長編です!!頑張るぞー!!