第一部 第四話 『予兆』
「ヨートー? 妖刀ですか? えっ?」
「いや……村正って、妖刀伝説みたいなのあるじゃん?」
なんでこの人はわたしにタメ口なんだろう、と呆れつつも、話し掛けて来る相手を無碍にも出来ず、チトセは応じる。
「あぁ……徳川家に不幸を呼ぶ刀ってやつですよね? でも、こうやって展示してますけど、歴史的な事実かは不明ですし、実際これが凶器だったのかどうかまでは……」
「でも、こうしていまも妖刀伝説は語られてるんだよな……」
「それは色んな説がありますよね……もとは歌舞伎の題材から妖刀という着想を得て、広く人口に膾炙したとも……」
「俺の実家にも、村正だって伝わってる刀があるんだよ」
「聞いてませんよね? わたしの話……」
なんと言ったんだ、この男子は……
ご実家に、村正が?
「真作なんですか? 鑑定は?」
「さぁ……親父は、本物だと思ってんじゃないかな。随分と後生大事に神棚に奉ってるよ」
「刀を? お守り刀の類いですか?」
「幻覚……みたいなのを見たんだよ」
「ポンポン話題変えるの止めて下さい! えっ? 幻覚?」
「先月ね。無性にさ、あの刀が気になってさ。なんであんな真似したのか解かんねえんだけど、神棚から下ろしてさ。親父も兄貴も留守でさ、道場に持って行ったんだよ。実家が剣道場で、巻藁とかもあんだよね」
「真剣を振ろうとしたんですか? 感心しませんが……」
「道場の真ん中に巻藁立ててさ、鞘を払った瞬間だった……」
「わたしの意見は無視ですか、そうですか……」
「なんか……なんつーか、急に気配を感じたんだよ。昼間の道場だけど、誰もいない時間だったのに、いきなり、人の気配が溢れたような気がしたんだよ……」
「へー、こわーい」
「真面目に聞けって」
「あなたが言うんですか?」
「なんかさ……道場の隅っこにさ、一人立ってたんだよ、たぶん男が」
「……本気で言ってます? わたし怪談話はけっこう好きなんで、怖がらせようとしても無駄……」
「羽織を着て、鉢金みたいなの巻いて、でも下向いてっから顔は見れんかった……手を、伸ばしてきたんだ」
「どうぞ続けて下さい、聞いてますよー」
「あの手を見た瞬間さ、どうにもヤバい気がしたんだ。泡食って母屋に戻って、鞘にきっちり収めて神棚に戻した。したら、気配が消えたんだ」
「……終わりです? わたしもう帰ろうかと……」
バギィッン!!
目の前のショーケースが、防犯の為にも頑丈な造りの筈のケースが、二人の目の前で割れて砕けた音だった。
カズミとチトセはともに大きく目を見開いて、この有様を見詰めている。
言葉にならない不快さが、ケース越しであったものが、急に溢れたように感じられた。
チトセは思わず背筋が寒くなるような感覚を覚えたが、今まで聞いていた下手な怪談話の所為だと冷静になって判断した。
あってはならない事だが、ケースの経年劣化か、保存状態が悪かったのだろうと無理やりに自分を納得させた。
ゴクリと唾を飲み込み、カズミはいよいよ目が離せなくなった。
他でもない、なぜか自分が、刀に呼ばれているような気がした。
その刀を持たなければならないような気がするのだ。
カズミが手を伸ばしかけたその瞬間だった。
「わたし、ちょっと係員さん呼んできますから、ここ見ててくだしゃ……」
真面目で律儀な女が人を呼ぼうとしている。
随分と不自然な会話の切り方をするな、と思って部屋の出口に向かった女を見返る。
視線の先、彼女の正面に、黒黒とした、なにか形容し難いナニカが蠢き、この部屋の唯一の出入口を塞いでいることに気が付いた。
女もそれを見詰めたまま、出鼻を挫かれたように動きを止めている。
全く人の気配がしない。
正確にはお互いが存在していることを、カズミもチトセも認識しているのだが、なにか、目の前の黒いナニカがあまりに無機質過ぎて、全ての思考が止まり、知覚が鈍くなっている気がしたのだ。
これはなんだ……
二人ともに考えているが、とても答えの見つかるような問いでは無かった。
お互いの息遣いばかりが耳に届いていたのは、数十秒か、或いは数分か、ほんの僅かな瞬間だったのかもしれない。
しかしついに、お互いの認識から外れたナニかが近付いてくる事を、二人は同時に知覚した。
ズリッズリッズリッ……
ザッスザッスザッス……
なにかが擦れ、またなにかを踏みしめるような音が、次第次第に二人に近付いてきているのだ。
だが、依然として、正面は黒いナニかで塞がっており、部屋の向こうはどうしたわけか見通す事が出来ない。
いよいよ音が近付いてきた。
今にも目の前になにかが現れそうな雰囲気だった。
指が、見えた気がした。
チトセは思わず叫びそうになった。
指のような、いや間違いなく人の指が、目の前の真っ黒な大きな丸型の縁のあたりに、チラリと見えたのだ。
後ろに控えている男子は、おそらく気付かなかったのだろう。
ただ規則正しくも荒々しい息遣いばかりが後ろから聞こえてくる。
カランァァラン……
チトセの足元に、黒塗りの鞘が転がり落ちて来た。
なぜ……鞘が勝手に動く訳が無い!
チトセはそう内心で叫んで、足元に落ちて来た鞘を見て、次いで背後にあるべきケースが割れた跡の台座を見返った。
カズミが、台座の上段の刀に手を伸ばそうとしていた。
「なにしてるのっ!?」
藤原が後ろで大声を上げた。
おそらく自分に向って言ったのだろう、と寸刻の間を空けて気が付いた。
カズミは自分の右手を伸ばしている先を見る。
上段に飾られている村正に、カズミは手を掛けようとしていることに気が付いた。
あまりの無意識さに自分でも驚き、思わず手を引っ込めて後ろの藤原に振り向く。
「ちっ、ちがうっ!? お、俺じゃねえよ!? 俺は……そんなつもりじゃ……」
普段には無い狼狽振りを示すカズミだが、チトセの目には怪しいことこの上無い行為に見えた。
「俺じゃないって……握りに手を伸ばそうとしたじゃないっ! 真剣なのよっ!?」
チトセも、普段は初対面に近い相手など敬語で接するのが常だが、この状況にはいささか神経が過敏になっている様子である。
ズチャッ!
ナニか、柔らかいナニかが、床を踏みしめる音が聞こえた。
足が、黒いナニかから伸びている。
脹脛から足先が、数メートル離れたチトセの目には、それにびっしりと生えた脛毛まで見て取れる。
屋内照明に照らされたそれは、その肌は薄く紫がかっているようにも見えるが、足先などは土砂で薄汚れているようにも見える。
「……あ、あし……草鞋履いてる? 足なのか?」
「……違います、正しくは足半です」
微妙な雑学をカズミに披露するチトセだが、声が震えている。
思わず二人で顔を見合わせるが、カズミは眉根を顰めて、その指摘は必要ですか、と言いそうな顔をしている。
そうして二人ともに、また正面に向き直る。
黒い大きな丸い空間のようなナニかが、確かにある。
そして、見間違えではなく、黒丸の縁に、黒丸の内側から伸ばすのように、手が掛かった。
次の瞬間、一人の男が黒丸から身体ごと顔を突き出してきた。
男の目と、二人の内で前に立つチトセとが目が合った。
それからは次々と目を疑う様な光景が目に飛び込んできた。
薄汚れた格好の、頭髪は千々に乱れて、目を血走らせた男たちが、四人の男たちが黒丸から抜け出てきたのだ。
ドサッ……
チトセの肩から竹刀袋と防具袋がずり落ちて、床に音を立てて転がった。
チトセの足が、瘧のように哀れな程に震えている。
カズミは両肩を震わせ、両手を血が滲む程に握り込んで、目の前の不可解な現象による困惑を力尽くで抑え込む努力を続けている。
ペタン、とついに両足が崩れてチトセは床に尻餅をついて、目の前の男たちを見上げる形になった。
目の前の男たちの格好は、およそこの目で見たことは無い、異装の出で立ちだった。
胴体は、その背面は覗けないのだが、正面から見ると胸から股間あたりまでを金属ではなさそうだが、丈夫そうな板のような革のような素材で出来たなにかを被り込んでり、その下には汚れでくすんでいるが、着物のようなものを着込んでいる。
手許はそれぞれ、篭手のようなものを嵌めているのだが、革なのか不明だが紐のようなものが所々から解れており、やや見栄えが悪い。
そしてそれそれの腰元には、柄周りも草臥れた様子の悪い、だが間違いなく、刀を差していた。
つまりは、雑兵足軽の様子である。
チトセの知識でもそうと判断出来るのだが、理性がそれをそうと判断を下すことに拒否を示していた。
なぜなら、ここに、足軽が現れる訳がないのだから。
ここは博物館で、今は平成で、私は女子校生で、まるで戦国時代から出てきた様な足軽が、そんな訳がない。
「あ……あの、すみません……あの、な、なんで、なんなんですか?」
「っ……かっはっ!!」
男たちが、小馬鹿にしたようにチトセを見下ろしながら嗤った。
ある者は露骨にチトセに指を指し、またある者はチトセの生足に視線を定めて下卑た声を上げている。
チトセはそれに気付き、開いていた脚を閉じ合わせ、立ち上がろうとするのだが、男たちの中で一番上等そうな具足を着込んでいる男の視線の向きに気付く。
自分ではなく、おそらくは自分の後ろに立つ佐藤でもない、その更に後ろ、自分たちの真ん中に視線を向けている。
パンツ見えてるな……
カズミはふと、そんなことが切っ掛けで冷静になれた自分が可笑しく内心苦笑している。
目の前の藤原が、おそらく目の前の不可解さに恐怖し膝を屈して尻餅を着いた瞬間、スカートが捲り上がって床に座ってしまったのだ。
お陰で後ろに立つ自分には丸見えだ。
こいつは参った……
でも、初めてじゃあない、と気分を改めて目の前の四人を見詰める。
村正ってのは、どうにもおかしなモノを呼び寄せるのかね。
実家で経験しといて良かった。
でも、まぁ、おっかねえな……こんなモン理屈で計れるモンじゃねえぞ……
カズミは少しずつ冷静さを取り戻してゆく。
対面に立つ四人を観察する。
彼らの背後には、彼らが出て来た黒丸が今も揺らぐこと無く、部屋の出入口を遮る格好で、そこに在る。
四人の内、二人は藤原を見て嗤っており、最後尾に立つ男は落ち着きなく周りを見渡している。
先頭の男は微動だにせず、自分と藤原が立つ間を抜いて後ろに、おそらくは村正を飾る台座を見詰めている。
さ、最悪だ……震えちゃって、なんか変なこと言った気がする。
こ、怖いよ……なんなの、この人たち……どこから来たのよ……
持てる限りの理性と勇気を振り絞った質問だったが、声は震え、男たちに笑われて応答は無かった。
チトセは立ち上がることも出来ず、冷静さを取り戻そうとするが、男たちの野卑な嬌声と視線に思考を妨げられる。
せめてあちらから声を掛けてくれれば交渉のしようもあるのに、と得体の知れぬ連中を相手に、この恐怖の原因とも言うべき相手に縋る様な心境だ。
そしてついに、彼らが口を開いた。
「モノガシラ……アレジャアナイデスカ……」
「ウヌ……ヤハリジャマダテスルカ……」
最後尾の男が口にした言葉を受けて、先頭の男が応えた。
チトセが頭を回転させて理解に努めようとする。
モノガシラ……物頭って言ったの?
アレってなに……邪魔だてするかってなに!?
解らない! 全然解らないよっ!?
「アレってこれ? この村正のこと?」
臆することなく、問い返すカズミ。
その手には、上段に飾られていた村正が握られている。
後ろの男の発言を受けて、思わず手に取ってしまったのだ。
それを見て、モノガシラと呼ばれた男が気色ばんだ様子である。
無意識という他なかった。
吸い寄せられるように、手に取ってしまった。
随分としっくりくる感じだ。
普段、毎日にように握り慣れ親しんだ竹刀など、もはや意識の外にある程だ。
実家の村正を握った時は、こうは感じなかったものだが。
なんとなく、理屈はさっぱり判らないが、この連中は村正を求めているようだ。
実際、自分が手に取ってから、連中の目の色が変わった。
呉れてやるものか……
なぜかは判らないが、強烈に思った。
漫画やアニメのように、刀が語り掛けてくるという訳でもない。
だが、理由は無いが、この刀は俺のものだ、と思った。
初めて見た時から、そう思えて目が離せなかった。
「小童……儂はさるご家中にて奉公しておる頭分の者じゃ。さるお人が其処な刀をご所望じゃ……疾く渡して去れぃ……」
「どっから来たんだよ、おっさん……あんた等こそ回れ右して、その穴ン中に帰んなよ、幽霊だか妖怪だか解かんねえけど、お呼びじゃないっての」
不思議なもので、刀を手にした時から、不安や不快な感情は消し飛んで、普段の自分を十全に取り戻せた気がする。
普段通りに、剽軽で愉快な、それでいて内面は傲岸不遜な佐藤一三が立っていた。
「二度は言わぬぞ! 小童め、其処な小娘共々に斬って捨てるぞ!?」
「それは困る。その人は全く赤の他人だけど、俺共々って言われると、俺の責任みたいじゃん」
「ちょ……ちょっと待って、わ、わたしの話しをしてる?」
覚束無い足取りだが、手近なショーケースに掴まってチトセが立ち上がる。
呆けたまま事態の推移を見守ってゆくつもりだったが、不穏当な発言を受けて理性がそれを拒否した。
台座を見れば、上段の刀が無くなっており、何時の間にか佐藤が刀を手にしている。
「じょ、冗談ですよね……なんの話しを……」
「藤原さん、もういいよ……」
「えっ? えっ、なにが!?」
「空気読める? あんま鈍いのは可愛くないぜ……」
「な、なに言って……」
「儂らの邪魔をすると申すなら……雑兵ども! 此奴らを引っくくれぃ!」
物頭と呼ばれた男の合図で、後ろに控えていた三人が一斉に飛び掛かって来た。
「ぬぅりゃあぁぁぁ!?」
「其処を動くなぁぁ!!」
「ふんっっ!!」
二人は腕を伸ばし、一人は刀を抜こうとして柄に手を添えた。
三人が距離を詰める。
あ……死ぬ、死んじゃう……
間際にチトセは、走馬灯は垣間見た気がしたが、さほど感慨深い思い出は無く、ただ迫る死を見詰める他に無かった。