第8話 アントニオ、王都を目指す旅へ
◆旅のはじまり、冬風の約束◆
冬の風が、村の焼け跡を冷たくなでていく。
草一本生えなくなった麦畑のそばで、アントニオは小さな荷物を背負って立っていた。焦げた土に靴底を押しつけるたび、かすかに残った灰が舞い上がる。
「……行くか」
呟いた声は、自分でも驚くほど静かだった。
小さな布袋には、少しの食料と、古びた水筒。それから――一枚の紙切れが入っていた。
「何かあったら、ここを訪ねてくれ」
それは、かつて助けた旅人、ゼフが残していった言葉だった。
ボロボロの手帳からちぎられたその紙には、王都の宿の名前と通りの名が書いてある。決して達筆ではないが、丁寧な字だった。
あれから、季節は二つ巡った。ゼフがこの村を離れた日、彼の背中がやけにまぶしかったのを、アントニオはよく覚えている。
「王都か……」
口に出すと、どこか現実味が増した。
――この村には、もう居場所がない。
そう思ったのは、畑が燃やされ、家が焼け落ちた日だった。
けれど本当は、もっと前から気づいていたのかもしれない。元婚約者の母・イザベルの冷たい目。サラゴサ男爵家の影に怯えた村長の無関心。笑っていたはずの隣人たちが、いつのまにか遠ざかっていった現実。
だから、後ろを振り返ることはなかった。
アントニオは、冬空の下、まっすぐに村を後にした。
*
旅は、想像よりもずっと厳しかった。
冷たい風が吹きつける街道。夜になると、吐く息が白く凍っていく。野宿をした日は、手足の感覚が薄れるほど寒かった。
だが、それでも前に進めたのは、不思議な希望があったからだ。
王都には、ゼフがいる――
それだけが、心の支えだった。
ゼフがどんな人物か、アントニオは正直よく知らない。だが、あの時、瀕死の状態でも礼を欠かさず、誠実に話し、別れ際に真剣な眼差しで紙を渡してくれた。ああいう目をする人間が、裏切るとは思えなかった。
「“アストラ通り三番地、トレモン宿”か……」
アントニオは、胸元の紙を取り出して何度も読み返した。指の跡で少しよれているけれど、その住所は確かにそこに書かれていた。
*
いくつかの村を越え、小さな街を通り抜け、ついに王都の城壁が見えたとき、アントニオは思わず足を止めた。
「……でか……」
灰色の石で築かれた巨大な壁。門の上には紋章が彫られており、衛兵たちが立っていた。行き交う人々の服も荷馬車も、村とは比べものにならないほど色鮮やかで、多種多様だった。
こんな場所に自分が来るなんて、思ってもいなかった。
だが、もう迷いはない。
門をくぐると、そこには別世界が広がっていた。
賑やかな広場、どこまでも続く石畳の道、屋台から漂うパンと焼き菓子の甘い香り――。人々は誰もが忙しそうに歩き、笑い、叫び合っていた。
アントニオは、紙を握りしめながら、通りの名前を探した。
「あの、すみません。アストラ通りって、どこにありますか?」
何人かに尋ねながら、たどり着いたのは、王都の北側、少し奥まった場所だった。
通りの入り口には「ASTRA ST.」と、古びた看板が掲げられていた。
その通りの中ほどに、小さな宿があった。
「トレモン宿」
扉は木製で、看板の字は少し掠れていたが、紙の文字とぴたりと一致していた。
アントニオは、深呼吸をしてから扉を叩いた。
「……はーい、今行きますよー」
中から、のんびりとした中年女性の声が聞こえた。
がちゃり、と扉が開くと、ふっくらした女性が顔を出した。
「あら、旅人さん? 今日はもう部屋いっぱいなんだけど……」
「あ、いえ……あの……」
アントニオは慌てて紙を取り出し、差し出した。
「ゼフって人を、訪ねてきたんです。以前、この宿に滞在してたと聞いて……」
女性は紙をちらっと見て、目を丸くした。
「まあ、ゼフ様を? ところで、ゼフ様にどんな要件なの?」
「あの……今、ここにいますか? 前に森で行き倒れていたところを助けて、その縁でうちで泊ってもらっていたのですが……」
女性は少し考えて、首を振った。
「今は違う町に出張中だけど、連絡はとれるわよ。まー、もしかしてあんた、ゼフ様の恩人でしょ?」
「いえ、恩人といよりかは……よき話し相手でした。彼に言われて、この住所を頼りに来たんです」
「そうだったのね。……だったら、待ってなさい。部屋、なんとかしてあげるから」
その言葉に、アントニオは思わず胸をなでおろした。
あたたかい暖炉の火が、心まで温めてくれるようだった。
こうして、アントニオの旅は、本当の意味で始まった。
理不尽に焼かれた麦畑も、冷たく突き放した村人たちも、遠い過去の風景になっていく。
今はまだ、小さな一歩かもしれない。
けれど確かに、希望に続く道が、この王都にはあるような気がしていた。




