第7話 アントニオ、自宅が全焼し、村を出る決心をする。
◆焼けた家と、燃え残る誇り◆
収穫が終わった頃から、アントニオのまわりの空気は、どんどん冷たくなっていった。
「なんか、最近あの人、調子乗ってない?」
「マーガレットに振られたくせに、麦だけは大成功かよ」
「まさか……変な手でも使ったんじゃないの?」
そんなささやきが、まるで風のように村中に広がっていった。
――マーガレット。
彼女は、アントニオの元婚約者だった。美しく、気が強く、そして――プライドの高い貴族の娘。アントニオが村の麦畑を継いだ年、縁談が持ち上がった。だが、婚約はあっけなく破談となり、彼女は都会へと嫁いでいった。
それだけの話だったはずなのに。
「イザベル様が怒ってるらしいぞ。あんな男の畑が豊作なんて、見苦しいって」
イザベル。それはマーガレットの母であり、この村で最も力のあるサラゴサ男爵の姉妹でもある。彼女の一言で、村の空気がどう動くかなんて、火を見るより明らかだった。
そして――そのイザベルに、村長は逆らえなかった。
「……麦なんて、天の気まぐれだよ。少し多かっただけで、ねたまれるなんて」
アントニオはそう自分に言い聞かせながら、毎日畑に向かった。誰に見られていようと、手を抜くつもりはなかった。
だが、嫌がらせは日を追うごとに激しくなっていった。
干していた麦束が、何者かに踏みつけられていた。
倉庫の扉に、赤いペンキで「妖精の呪い」と書かれていた。
朝、家の前に生ゴミがばらまかれていたこともあった。
誰がやったかなんて、考えるまでもない。けれど、証拠はどこにもない。
「気の毒だが……穏便にしてくれよ、アントニオ」
そう言ったのは、村長だった。どこか目を伏せたままの態度に、アントニオは胸が締めつけられた。
その夜だった。
風の強い夜。どこか遠くで、ぱちぱちと何かがはじけるような音が聞こえた。
外に出た瞬間、空が赤く染まっていた。
「……まさか……!」
アントニオは走った。麦畑が燃えていた。金色の実りが、火に包まれていた。風にあおられて、火は容赦なく広がる。
「誰か、誰か水を……っ!」
叫んでも、誰も来なかった。むしろ、村の高台のあたりから、誰かが見下ろしている気配があった。月明かりの下、何人かの人影がくすくすと笑っていた。
そして火は――アントニオの家にまで届いた。
木の扉が焼け落ち、屋根が崩れ、ずっと住み慣れた家が、音を立てて崩れていく。
「……っ!!」
何もできなかった。ただ、呆然と立ち尽くすしかなかった。
翌朝。残ったのは、焦げた地面と、黒い灰だけだった。
村人たちは誰も手を貸さなかった。
むしろ、口々に言った。
「ざまあみろってやつだな」
「あんなに収穫して、自慢気だったもんな」
「マーガレット様のことも忘れて、好き勝手してたしさ。こりゃ、天罰ってやつ?」
中には、心から楽しそうに笑う者もいた。
「ほんと、あんな男と婚約してたマーガレット様が気の毒だったよな。結果的に、別れて正解だったな」
アントニオは、何も言わなかった。
言葉が、出てこなかった。
ただ、立ち尽くして、焼けた畑を見つめていた。
あれほど丁寧に育てた麦。大切にしていた家。祖父が残した道具。すべてが、灰になった。
……なぜ?
そう問いかけても、答えは返ってこない。
理不尽なんて言葉では、とうてい足りない。
あまりの現実に、涙すら出なかった。
それでも、アントニオは自分に問いかけた。
――ここで、何を守れる?
――ここで、生きていけるのか?
空は、ただ青く晴れていた。あの夜、助けてくれた妖精の光も、もう見えなかった。
アントニオは、ゆっくりと立ち上がった。
焼け残った鍬を拾い、それを肩に担いだ。
「……もう、いい」
ぽつりと、そう呟いた。
村人たちが、また何か言っていた。けれど、それはもう耳に入らなかった。
誰も、彼を止めようとはしなかった。
まるで、待っていたかのように――村は、アントニオが出ていくことを“歓迎”していた。
最後に振り返った村の風景は、見慣れているはずなのに、どこか遠くの景色に思えた。
風が吹いた。焦げた麦の香りが、鼻を突いた。
アントニオは前を向いた。
背中に、焼け跡の温もりと、冷たい視線を感じながら――。
彼は、村を出た。
もう、戻ることはないと知りながら。