第6話 ゼフとのお別れ
◆風と麦と、噂の刃◆
あの日の別れは、どこかあっさりとしていた。
「アントニオ、本当に世話になった」
ゼフはそう言って、深々と頭を下げた。村の外れの小道で、まだ少しぎこちない足取りながらも、背筋を伸ばして前を向くその姿は、確かに「旅立つ者」の風格をまとっていた。
「気をつけてな。……また、いつでも戻ってきていいからな」
そう言ったアントニオの胸の奥に、妙な寂しさが残ったのは、気のせいではなかった。
それから数か月。季節は巡り、村の周囲は黄金の波で満たされていた。風が吹けば、まるで海のように麦が揺れ、太陽の光を反射してまばゆい光を放つ。
「……今年は、本当にすごいな」
畑の真ん中で、アントニオは鍬を肩にかけ、額の汗をぬぐった。手入れはいつも通りだった。特別なことをしたわけじゃない。ただ、地道に、丁寧に世話をしてきただけ。それなのに――麦は、どこまでも見渡す限り、ふっくらと実り、今にも重みに耐えかねて折れそうなほどだ。
村の老人たちも言っていた。
「アントニオの畑は、まるで神さまに祝福されたようだな」
最初は、そんなふうに笑っていた。
だが、収穫が本格的になるにつれて、空気は少しずつ、変わっていった。
「おい、アンタ。ちょっとこれ、見てくれよ」
ある昼下がり、麦を干していたときのことだった。隣の畑の男たちが数人、何気ない顔で近づいてきた。だが、その目は笑っていなかった。
「すごい量だな、こりゃ」
「……他の畑じゃ、ここまで実ってないのにさ」
口調は穏やかだが、どこかに引っかかるものがある。
「ええ。まあ……運が良かったのかもしれません」
アントニオが答えると、男のひとりが顔をしかめた。
「運? そんな簡単な話じゃねえだろ」
「まさか、何か“裏”があるんじゃないか?」
言葉の端が、妙に刺さった。
「いや、ぼくはただ、畑の手入れを……」
「妖精でも使ったんじゃねーの?」
そう茶化した男の言葉に、周囲がくすくすと笑い出す。
アントニオの顔がこわばる。
――あの夜のことを、誰かが知っているはずはない。
だが、確かに彼は見た。傷ついたゼフを運び込んだあの夜、畑の端にふわりと現れた小さな光の精。あれが何だったのか、今もはっきりとはわからない。けれど、あの瞬間から、何かが変わった気がしていた。
「妖精だなんて、まさか……。そんなの、いるはずないですよ」
「でも、おかしいのは事実だよなあ?」
「他の畑、今年は雨が少なかったせいで収穫ガタ落ちだぜ。なのに、アントニオの畑だけ、満杯ってのは……」
男たちは、笑うでもなく、怒るでもなく、ただじっとアントニオを見ていた。その視線に、言いようのない不安がこみあげてくる。
やがて、彼らは肩をすくめて言った。
「ま、いいさ。そういうことにしておこう」
そして、何も言わずに背を向けて去っていった。
その日を境に、村の空気が変わった。
挨拶しても、誰かが返してくれることは少なくなった。道を歩いていると、背後でひそひそと声がする。顔を上げると、誰もが目を逸らした。
「なんであいつだけ豊作なんだ?」
「怪しいよな、あんなにいい人ぶってさ」
「妖精じゃなくて、何か変なもん使ったんじゃねえか?」
そんな噂が、風のように村に広がっていった。
アントニオは、黙って畑に向かい続けた。
手を抜けば、もっと言われる。働かなければ、自分が自分でなくなる。だから、黙々と、麦の束を運び、干し、袋に詰めていく。
けれど、その背に向けられる目は、日に日に冷たくなっていった。
「……妖精、か」
その言葉が、また胸に引っかかる。
あの光を見たとき、たしかに心が安らいだ。誰かに祝福された気さえした。けれど――それは、人の間では“普通”ではなかったのだ。
畑の真ん中で、アントニオはそっと空を仰ぐ。
もう、あのときのような光は見えない。青空はただ晴れわたり、鳥たちの声が遠くに聞こえるだけ。
季節は巡り、村はまた、来年の種を準備するだろう。
だが、その輪の中に、自分がいられるかどうか――それは、もうわからなかった。