表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/18

第5話 森の遭難者ゼフとの出会い

◆黄金の麦は知っていた◆


――香りと記憶のあいだで


 朝露がまだ草を濡らしている、そんな早朝のことだった。


 アントニオは畑へ向かおうとしていた。気まずい村の視線にも慣れたつもりだったが、それでも、畑で風と話す方がよほど落ち着く。


 そんなときだった。


 ふわり、と視界の端に光が浮かんだ。


 「……また、おまえか」


 妖精の姿をした、あの金色の光。アントニオはつぶやくと、その光のあとを自然と追っていた。まるで引き寄せられるように、足は森の奥へと向かっていく。


 いつもの小道を外れ、小さな岩の斜面を超えたその先。


 「……あれは……!」


 倒れていたのは、初老の男性だった。


 深緑色の上質なローブ。擦り切れた肩の布地からは、長い旅路を思わせる。顔には浅いしわ、白髪が風に揺れていた。


 「大丈夫ですか!?」


 アントニオは駆け寄り、すぐに脈と呼吸を確かめる。生きている――微かだが、意識もあるようだった。


 「ああ……足が……。どうやら、転んだ拍子に腰を……」


 かすれた声で、老人が答えた。


 「喋らないでください。家まで連れていきます!」


 アントニオはすぐに体を支え、老人を背負った。畑で鍛えた力はこういう時にも役立つ。森の小道を戻る間、妖精の光が前を照らし、朝の風が背を押してくれているようだった。



 アントニオの家に戻ったのは、陽がすっかり昇ったころだった。


 老人――ゼフと名乗ったその男をベッドに寝かせると、アントニオは急いでお粥を炊いた。塩も入れすぎず、麦の旨みを活かすように。仕上げに庭で摘んだローズマリーをひとつまみ。


 「どうぞ、熱いのでゆっくり」


 ゼフはゆっくりと体を起こし、スプーンでひと口を運んだ。


 「……」


 静かに目を閉じる。


 そして、ごくりと喉を鳴らすと――


 「……こ、これは……まさか……」


 ゼフの目が大きく見開かれ、手が止まった。


 「この麦の香り、塩の引き具合……火加減まで、あの頃と同じ……いや、それ以上じゃ……!」


 スプーンをゆっくり置き、彼はアントニオをじっと見つめた。


 「この味を再現できる者が、この村にいるなんて……。ま、まさか……」


 「懐かしい味だったんですか?」


 アントニオは思わず首をかしげる。


 ゼフは深く息を吸い込み、ひとつ、記憶の奥から名前を呼び出すように呟いた。


 「……麦の香りの立たせ方、火加減、塩の加減……どれも、あの御屋敷で出された朝食に似ている。公爵様のお気に入りだった……いや、それよりも少しだけ素朴で、優しい」


 「もしかして、料理を誰かに習ったのかね?」


 「いいえ。母が作っていたものを、小さいころに手伝って……それを思い出しながら、作ってるだけです」


 「……母君の名は?」


 「……オスカリーナです。隣国の出身でこの地に移住しました。五年前に他界しました」


 ゼフの目に、わずかな動揺が走った。


 その目は、まるで何かを確かめるように、ゆっくりと、深く。


 「オスカリーナ……いや、まさか……でも、確かに面影がある」


 ぽつりとそう言って、ゼフは小さく首を振った。


 まるで、記憶の中の幻と今を重ねてしまいそうな自分を、戒めるように。


 「ありがとうございます。お粥、気に入ってもらえて」


 アントニオはただ、そう言って笑った。


 だが、ゼフは胸の奥でひとつ、確かな鼓動を感じていた。


 ――もしや、この青年は……。


 だが、それはまだ確かめるべきではない。

 この村の空気も、噂も、まだその真実を受け止めるには早すぎる。


 だからゼフは、その夜、何も語らずに眠りについた。


 ただ、懐かしい香りだけが部屋に残っていた。









 

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ