第5話 森の遭難者ゼフとの出会い
◆黄金の麦は知っていた◆
――香りと記憶のあいだで
朝露がまだ草を濡らしている、そんな早朝のことだった。
アントニオは畑へ向かおうとしていた。気まずい村の視線にも慣れたつもりだったが、それでも、畑で風と話す方がよほど落ち着く。
そんなときだった。
ふわり、と視界の端に光が浮かんだ。
「……また、おまえか」
妖精の姿をした、あの金色の光。アントニオはつぶやくと、その光のあとを自然と追っていた。まるで引き寄せられるように、足は森の奥へと向かっていく。
いつもの小道を外れ、小さな岩の斜面を超えたその先。
「……あれは……!」
倒れていたのは、初老の男性だった。
深緑色の上質なローブ。擦り切れた肩の布地からは、長い旅路を思わせる。顔には浅いしわ、白髪が風に揺れていた。
「大丈夫ですか!?」
アントニオは駆け寄り、すぐに脈と呼吸を確かめる。生きている――微かだが、意識もあるようだった。
「ああ……足が……。どうやら、転んだ拍子に腰を……」
かすれた声で、老人が答えた。
「喋らないでください。家まで連れていきます!」
アントニオはすぐに体を支え、老人を背負った。畑で鍛えた力はこういう時にも役立つ。森の小道を戻る間、妖精の光が前を照らし、朝の風が背を押してくれているようだった。
◇
アントニオの家に戻ったのは、陽がすっかり昇ったころだった。
老人――ゼフと名乗ったその男をベッドに寝かせると、アントニオは急いでお粥を炊いた。塩も入れすぎず、麦の旨みを活かすように。仕上げに庭で摘んだローズマリーをひとつまみ。
「どうぞ、熱いのでゆっくり」
ゼフはゆっくりと体を起こし、スプーンでひと口を運んだ。
「……」
静かに目を閉じる。
そして、ごくりと喉を鳴らすと――
「……こ、これは……まさか……」
ゼフの目が大きく見開かれ、手が止まった。
「この麦の香り、塩の引き具合……火加減まで、あの頃と同じ……いや、それ以上じゃ……!」
スプーンをゆっくり置き、彼はアントニオをじっと見つめた。
「この味を再現できる者が、この村にいるなんて……。ま、まさか……」
「懐かしい味だったんですか?」
アントニオは思わず首をかしげる。
ゼフは深く息を吸い込み、ひとつ、記憶の奥から名前を呼び出すように呟いた。
「……麦の香りの立たせ方、火加減、塩の加減……どれも、あの御屋敷で出された朝食に似ている。公爵様のお気に入りだった……いや、それよりも少しだけ素朴で、優しい」
「もしかして、料理を誰かに習ったのかね?」
「いいえ。母が作っていたものを、小さいころに手伝って……それを思い出しながら、作ってるだけです」
「……母君の名は?」
「……オスカリーナです。隣国の出身でこの地に移住しました。五年前に他界しました」
ゼフの目に、わずかな動揺が走った。
その目は、まるで何かを確かめるように、ゆっくりと、深く。
「オスカリーナ……いや、まさか……でも、確かに面影がある」
ぽつりとそう言って、ゼフは小さく首を振った。
まるで、記憶の中の幻と今を重ねてしまいそうな自分を、戒めるように。
「ありがとうございます。お粥、気に入ってもらえて」
アントニオはただ、そう言って笑った。
だが、ゼフは胸の奥でひとつ、確かな鼓動を感じていた。
――もしや、この青年は……。
だが、それはまだ確かめるべきではない。
この村の空気も、噂も、まだその真実を受け止めるには早すぎる。
だからゼフは、その夜、何も語らずに眠りについた。
ただ、懐かしい香りだけが部屋に残っていた。