第4話 アントニオの悲しみ
◆黄金の麦は知っていた◆
――噂の風は冷たくて
あれから、数日が経った。
村には、風が変わったような気がした。
季節は変わっていないはずなのに、太陽の光さえどこか薄暗く感じられる。麦畑に立つと、あの夜に妖精がよみがえらせてくれた穂たちが、いつものように風に揺れていた。
でも、村の人々の目は――揺れていなかった。
「アントニオくん……気にするなよ、うん。まあ……なんだ、その……人生って、いろいろあるからさ……」
「……ああ、ありがとう」
そう言ったおじさんの目は、どこかよそよそしかった。肩をポンと叩いたその手も、以前より少し遠慮がちで、力がなかった。
昔は違った。アントニオの畑が豊作だった年は、村中から「さすがだな」「アントニオの麦は間違いない」と声をかけられたものだ。
でも、今は――まるで、みんなが気まずそうに目を逸らしてくる。
その理由は、わかっている。
「聞いたか? マーガレットちゃん、ほんとうに男爵様と婚約なさったそうだよ。お屋敷で暮らしてるって」
「うちの娘がね、王都でお洋服の仕立てを習ってる子から聞いたんだって! マーガレット様って、呼ばれてるんだって!」
「すごいなぁ……村から、ほんとうに貴族様の奥様が出るとはなぁ……!」
そんな声が、あちこちから聞こえてくる。
それだけじゃない。マーガレットの両親――特に母親のイザベルは、毎日のように人前でこう言っていた。
「うちのマーガレットがねぇ、男爵様に見初められてね。ほら、あの子、小さいころから顔立ちが良かったでしょう? やっぱり見る人は見るのよねぇ」
「それに、あの子は畑仕事なんて向いてなかったのよ。手も荒れるし、腰にも悪いし。貴族の奥方になるのが、最初から決まってたのねぇ、きっと!」
誰かが「でも、アントニオくんと……」と口にしようものなら、イザベルは涼しい顔でこう返す。
「アントニオ? ああ、あの子はいい人よ、ほんとに。でも、やっぱり身分ってあるじゃない? マーガレットには、もっとふさわしい人がいたってことよ」
そう言って、軽やかに笑う。
まるで、アントニオとの日々が“間違い”だったと言わんばかりに。
マーガレットの父親も同じだった。以前は畑の肥料や天気の話ばかりしていたのに、今は「うちはもう、貴族の親族だからな」なんて、まるで自分まで男爵になったかのような態度だった。
そして、村の人たちも――だんだん、それに合わせ始めた。
「おめでたいことじゃないか。わしら村人にとっても、誇りだよな」
「アントニオくんには気の毒だけど……こればっかりはねぇ」
そう言って、同情するふりをしながら、その目はすでにマーガレットの家の方へ向いていた。
アントニオは、その視線を感じていた。
麦畑にいても、市場にいても、井戸で水を汲んでいても――
どこにいても、自分だけが“過去の存在”になったような、そんな気がした。
「……ほんとうに、いいのか? これで……」
ふと口をついた言葉に、誰も答えてはくれない。
でも、畑は黙って揺れていた。あの夜、妖精たちが命を吹き込んでくれた麦たちが、何も変わらずにそこにいてくれる。
アントニオは、黙って鍬を握った。
地面を耕し、草を抜き、麦の根本を支える。自分にできることは、それだけだった。
「……母さん。もし、母さんが生きてたら、どう言ってくれただろうな……」
そうつぶやいても、風はただ優しく吹き抜けていくだけだった。
でも、その夜。
ふと見上げた星空の下――あの時の金色の光が、一瞬だけまた、視界の端をかすめた気がした。
ほんの一瞬。
でも、それだけで、アントニオの胸に、小さな火が灯った。
「大丈夫だ。おれは……まだ、終わってない」
マーガレットの結婚の噂がどれだけ広がろうと、村の人々がどれだけ手のひらを返そうと、自分には――麦がある。
そして、あの小さな妖精たちが信じてくれた命の畑が、ある。
アントニオは、静かに空を見上げた。
村人がどれだけ笑っても、あの麦畑だけは、彼の味方だった。