第3話 妖精との出会い
◆黄金の麦は知っていた◆
――妖精のささやき
どこまでも白く、柔らかな世界だった。
あたたかい風が吹いている。麦畑とは違う、けれどどこか懐かしい――そんな場所。アントニオは、夢の中にいた。
「アントニオ」
その声に振り返ると、そこに立っていたのは、懐かしい人。
「……母さん……?」
麦わら帽子をかぶり、優しい笑みを浮かべた母が、そこにいた。小さい頃、毎日のように聞いたあの声。彼の記憶の奥深くに残っていた姿だった。
「よく頑張ったわね。泣いてもいいのよ。でもね、アントニオ……忘れないで。あの子たちのことを」
「……あの子たち?」
母は微笑んだ。そして、ふわりと指先で空を指した。
「妖精たちよ。あの畑には、妖精が住んでいるの。昔、わたしが見ていたあの子たち……あなたも、きっと出会えるわ。耳を澄ませて、心で感じるの。妖精たちは、優しくて、小さくて、少しいたずら好き。そして、とても愛おしいのよ――」
そこで、視界がにじんだ。
気づけば、アントニオは現実へと引き戻されていた。
「……ん……」
土の匂い。冷たい空気。夕陽はすでに沈み、あたりには夜の帳が降りていた。
体を起こそうとした、その時だった。
「――目が覚めた?」
その声は、確かに聞こえた。けれど、誰もいない。ふらつく頭を左右に振ると、ふわりと、小さな光が視界の端をよぎった。
「え……?」
金色の光が、宙を舞っていた。
ひとつ。ふたつ。みっつ――やがて、それは十を超え、まるで小さな星々が、夜の麦畑を優しく照らすように輝きだした。
「……まさか、妖精……?」
母が語ってくれた、あの話。誰も信じなかった。でも、アントニオだけは信じていた。あれは母の空想じゃない。あれは、きっと――本当のことだったんだ。
「キミたち……ぼくを、起こしてくれたの?」
金色の光がひとつ、彼の肩にそっと止まった。
小さな羽根を震わせて、きらめく瞳が見上げてくる。まるで、「うん」と返事をするように、ふわりと頷いたようにも見えた。
アントニオの胸が、ぎゅっとなった。
「ありがとう……本当に、ありがとう……」
その瞬間だった。
妖精たちが一斉に宙へ舞い上がった。夜空の下、彼の頭上で輪を描くように舞い、そして――麦畑へと降りていった。
踏み荒らされた畑。なぎ倒された苗たち。黄金色の夢が、無惨にちぎられ、折られた場所。
そこへ、妖精たちは羽ばたいた。
すると。
眩い光が――あたりに降りそそいだ。
「……な、なんだ……?」
黄金の光は、ふわふわと空気に溶け込むようにして畑へ吸い込まれた。まるで、畑そのものが命を吹き返していくように。ちぎられた麦の茎が立ち上がり、倒された苗がすくっと姿勢を正す。
ひとつ、またひとつと。
畑が、よみがえっていく。
「……う、うそ……これって……」
信じられなかった。でも、目の前で起きていた。あんなに無残だった麦畑が――まるで何事もなかったかのように、美しい姿を取り戻していく。
妖精たちは静かに舞い、夜風と共にその光を注ぎ続けた。やがて畑は、金色の波となって再び風に揺れ始めた。
その光景に、アントニオはただ立ち尽くすしかなかった。
「ありがとう……ありがとう……」
頬をつたう涙をぬぐおうともせず、彼は頭を下げた。
それに応えるように、小さな妖精がひとり、彼の目の前にふわりと降りた。
「信じてくれて、ありがとう。あなたが、わたしたちの声を忘れなかったから……畑も、生き返ったの」
――確かに、声が聞こえた。
それはまるで、風のささやきのような、鈴の音のような、不思議な音。
「ぼくは……母さんから聞いたよ。妖精は、優しくて、愛おしい存在だって。……本当に、そうだった」
妖精は微笑んだように見えた。
「あなたは、傷ついても立ち上がった。だから、わたしたちは力を貸したの。……でもね、アントニオ。これは、まだ始まり。あなたの物語は、ここからよ」
その言葉を最後に、妖精たちはふわりと夜空へ舞い上がり、星とまぎれて消えていった。
――静寂。
そこには、よみがえった畑と、夜風だけが残った。
アントニオは静かにその風を受け、深く息を吸い込んだ。
「……そうだな。これは、終わりじゃない。始まりだ」
空を見上げると、星たちが静かに輝いていた。
そして――黄金の麦は、再びやさしく揺れていた。