第1話 アントニオ、殴られた上に、婚約破棄される
◆黄金の麦は知っていた◆
空は澄んでいて、風がやさしく麦を揺らしていた。
バレンシア王国の王都から南へ数十リーグ、小さな村「ロサーナ」には、今年も豊かな実りが約束されていた。アントニオはその村で農業を営む青年だった。両親を数年前に病で失ってからは、たった一人で麦畑と向き合い、耕し、育ててきた。
でも、ひとりじゃない。アントニオには心に決めた婚約者、村娘のマーガレットがいた。
「来月には、結婚式だな」
そう言って笑い合ったのは、ほんの数日前のことだった。
ところが、その日。黄金色に波打つ麦畑のそばの農道に、高級な馬車が止まった。
降り立ったのは、見たこともないような豪奢な服を着た男と……もうひとり。信じられないことに、マーガレットだった。
「……マーガレット?」
アントニオが呼びかけると、彼女は軽く鼻を鳴らして笑った。
「アン。わたし、結婚やめる」
「……え?」
「婚約、破棄するわ。ごめんね。でも、もう決めたの。わたし、サラゴサ男爵様と王都で暮らすの。あんな畑の土なんて、もう触りたくない」
耳を疑った。何を言ってるんだ、マーガレット。
「……マーガレット、そいつに騙されてるんだ。男爵が、村の娘と本気で付き合うわけない。王都に行ったって、どうせすぐ捨てられる。そんなの……遊びに決まってる!」
必死だった。怒りというより、彼女を守りたい一心だった。
だが、その時。
「貴様ぁ……!」
男爵が、鷹の羽をあしらった帽子を払って、アントニオを睨みつけた。その目には、蔑みと怒りがあった。
「このサラゴサ男爵の、真実の愛を……愚弄したな、平民が!」
男爵の号令で、背後に控えていた従者たちが動いた。ゴツい腕を持った男が二人、麦畑にズカズカと踏み入り、苗を蹴り倒していく。たわわに実り始めた麦の穂が、無惨に踏みつけられる。
「やめろ……やめてくれ!!」
アントニオが走り寄るが、男爵の手下が拳を振るう。
ゴッ。
強烈な衝撃が頬に走り、視界がぐらりと揺れた。そのまま地面に倒れ込み、泥の匂いが鼻を突いた。
「平民のくせに、俺様に説教だと? 身の程を知れ、田舎者が」
男爵の靴が、アントニオの顔すれすれで地を踏み鳴らした。
「行くぞ、マーガレット。こんな泥まみれの世界と関わっては、おまえの美しさが穢れる」
「うん、ありがとう、男爵様。……もう、こんな村に未練なんてないから」
ふたりは、夕陽に染まる麦畑を背に、馬車へと戻っていく。破壊された麦の中で、アントニオは地面にうずくまったまま、目を閉じるしかなかった。
風が吹いた。
さっきまで揺れていた麦の海は、もう見る影もない。なぎ倒された穂が、血を流すように夕陽に染まっていた。
悔しかった。何よりも、悲しかった。
「……くそ……くそっ……!」
拳を地面に叩きつけた。何度も、何度も。
麦の根がちぎれ、土が爪の中に入り込んでも、それでも止まらなかった。
でも、その時だった。
そっと吹いた風が、アントニオの頬をなでた。
――泣くな。
まるで、そう言ってくれているようだった。
「わかってる……わかってるさ。おれは……まだ終わらない。畑も、おまえたちも……絶対に、終わらせない」
沈みゆく夕日に誓うように、アントニオは泥の中から立ち上がった。
ふらふらと体は揺れていたが、その瞳にはもう、くすんだ絶望の色はなかった。
――畑は、すべてを見ている。
黄金の麦が知っている。
それは、報いの日が必ず来るということを。




