第五話 深紅の智 後編
「開門!!」
兵のピンと張った声が響き、重々しく扉が開いた。
「わぁ…! 中はこんなふうになっていたのね…!」
最初の緊張はどこ吹く風といった様子で、伽耶はあたりを目を輝かせて見回している。
中では、兵たちが木剣を手に素振りをしていたり、槍での突き訓練を行っていたりと、活気に満ちていた。
だが、やがて――
彼らの視線が、一斉に入口の方へと集まっていく。
「……あれは……」
「おい、本当に伽耶姫様じゃないか?」
「まさか、軍部に……!?」
訓練の動きが、わずかに止まる。
烈翔が歩を進めることは珍しくない。だが、その隣に立つのは――季国の姫君・伽耶。
兵たちは次第にざわつき始め、だが誰も声をかけることはできず、ただ尊敬と興味の入り混じった視線を向けていた。
「あの……お兄様、なんだか視線を感じるような……」
初めての経験に戸惑った様子で、伽耶はそっと隣の烈翔を見上げた。
「ああ、珍しいからな」
烈翔はニカッと笑い、軽く肩をすくめる。
「笑って手でも振ってやれ。喜ぶぞ」
伽耶はおずおずと片手を上げ、ぎこちないながらも微笑んで、兵たちに向かって手を振った。
すると、それまで黙っていた兵士たちが――
「なんと愛らしい……!」
「さすがは華蘭様の妹君……!」
「姫様万歳!!」
と、まるで歓声のような雄叫びを一斉にあげた。
「まったく……」
後ろから響いたのは、芳蘭の深いため息だった。
手を上げたまま固まってしまった伽耶の隣で、誠が一歩前に出て、そっと言葉を添える。
「……師の部屋は、こちらでございます」
書棚には古びた兵法書がぎっしりと並び、机の上には書簡や報告書が高く積まれている。
その奥で、額に手を当てながら、ため息をついていた男がひとり――。
「……周焉明様」
誠が一歩進み、静かに声をかける。
「あ?」
眉間にしわを寄せたまま、焉明が顔を上げた。
腰ほどまで伸びた長い黒髪は、首元でざっくりと結われている。
顎には無精に生えた髭――剃り残しというより、もはや放置されているようにも見える。
「……おまえ、随分な方々をお連れしたな」
その渋い声に、伽耶は思わず見入ってしまった。
“この人が……誠の師匠?”
どこか胡散臭そうなのに、なぜか目が離せない。
貫禄と、だらしなさが同居する不思議な空気――伽耶はそんな彼を、少しだけ面白そうに見つめた。
「申し訳ありません、急遽のことで……」
誠が深々と頭を下げる。
その横で、焉明はふうと一息吐きながら、ガシガシと頭を掻いた。
「……して、どういう風の吹き回しだ?」
ちらりと伽耶の方へ視線を向けて、
「まさか籠入りのお姫様が、“ただの”おじさんを見に来たってわけじゃあるまい?」
あえて“ただの”を強調し、胡散臭げに笑う。
しかし――
「そのとおり、です!」
間髪入れずに伽耶が前へ一歩進み、真っ直ぐに焉明を見上げた。
その瞳には、好奇心と敬意、そして――
まるで宝物を見つけた時のような、まっすぐな輝きがあった。
焉明は何度か瞬きをし、ためいきをついた。
「……誠坊、しかたねえ。王族のご訪問だ、茶くらい出すのが礼儀ってもんだろ。奥の棚に“例のいいやつ”がある、頼むな」
「はっ……かしこまりました」
すかさず返事をする誠の横で、芳蘭もすっと膝を折る。
「私もお手伝いさせていただきます。どのようなものか見させていただく必要がございますので」
「へいへい、見張り番つきってわけだ」
焉明が軽く手を振ると、ふたりは扉へと向かう。
部屋には、伽耶・烈翔・焉明の三人だけが残された。
「さて……妙に静かになっちまったな。」
ぽつりと呟いた焉明は、立ち上がりながら首を軽く鳴らす。
「改めまして、俺は“周焉明”と申します。……まあ、冴えない軍師の端くれでして」
少し自嘲するように笑ってみせる。
「お恥ずかしいことに、名ばかりの地位ばかりが与えられまして――
肝心の策は、棚に置かれるばかりでございます」
すると伽耶は、くすっと微笑んで――
「でも、“棚の奥”って、特別なものがしまってある場所でしょう?お父様も、滅多に使わない大切なお道具は、棚の奥にしまっていたもの」
「……棚の奥、ねぇ……おもしれぇこと言うな、嬢ちゃん」
焉明は何度か瞬きをし、ため息をついた。
どこか胡散臭そうな顔をしながらも、伽耶の言葉の意味を反芻しているようだった。
一瞬の静寂ののち、部屋に大きく響く烈翔の笑い声。
「天才軍師から一本取るとは、やるじゃねえか、伽耶」
烈翔から褒めてもらえた伽耶は、両頬を淡く染めた。
焉明もふっと笑ったが、その顔は先ほどまでの皮肉めいたものより、どこか優しげだった。
「誠坊のこと、聞きに来たんだろ?あいつは……ああ見えて、まっすぐすぎるところがある。
言葉で人を動かせるやつなんだよ。お姫様も、きっとそれで動かされてるんじゃないか?」
冗談めかして笑いながらも、その声の奥には確かな信頼があった。
「……でもまあ、気をつけな。ああいう真面目なのは、無理しても気づかれないからな」
伽耶は小さく瞬きをした。
今のは誰に向けた言葉だったのだろう?
――けれど、焉明はもう何も言わず、再び書類に目を落とした。
もう何も聞いてくれるなといったような様子に、伽耶は少したじろいだ。
けれど、それでも――意を決して、口を開いた。
「わたし、聞きたいことがあって来たんです。
誠はすごいんです。わたしが知りたいこと、なんでも知ってる……」
言葉を選ぶように一度だけ息を整えて、伽耶は続けた。
「どうしたら、あんなふうになれますか?」
その問いに、焉明はゆっくりと顔を上げ、室内の右手に並ぶ書棚を指さした。
そこには兵法、軍略、歴史……あらゆる分野の書物がぎっしりと詰め込まれている。
「……あいつは確かに優秀だ。一を教えれば十を知る。
だが――誠坊がここに来て、まだ一年だ。
その一年で、あの棚の本をすべて“踏破”した」
伽耶は立ち上がり、書棚に並ぶ本を一冊、そっと引き抜いた。
手に取った書の端は擦り切れ、指の触れた場所には、何度も読まれた跡が刻まれていた。
「今日の自分は、昨日までの自分の積み重ねだ。ありたい自分があるのなら――ただ、毎日ひとつずつこなしていくしかない。
そうすりゃ、気づけば明日には、“なりたい自分”に、ちょっと近づいてる…かもな。棚の奥のおじさんじゃ説得力ねえが」
伽耶は、ほんの少しだけ瞳を伏せ――それから、顔を上げて静かに笑った。
「……がんばります」
その言葉に、焉明は一瞬だけ目を細め、何も言わずにひとつ、うなずいた。
すると、それまで黙っていた烈翔が、急に声をあげた。
「お前、おもしれぇな!次の遠征、俺と組んでみねえか?」
バンッと肩を組まれ、焉明が小さく咳き込む。
そんな空気を切るように――
「……まったく、あのようなものを王族の皆様に出そうとするなんて……!」
ぷんすかと怒りながら、芳蘭が扉の向こうから戻ってきた。
後ろには、申し訳なさそうに肩をすぼめる誠の姿がある。
「さあ、姫様!帰りますよ!」
芳蘭は伽耶の手を取ると、そのまま出口へと引っ張っていく。
「このような場所にいては、お体に障ります!!」
「えぇ〜っ、でもまだ――」
「姫様っ!」
びしっと指を差され、伽耶はしぶしぶ頷き、ぺこっと焉明に頭を下げた。
焉明は手を振って見送り、烈翔はその後ろで笑いながら肩をすくめる。
「まったく、面白ぇ姫様だな……」
――そして、小さな冒険の一日が、静かに幕を下ろした。
軍部からの帰り道。
どすどすと肩を怒らせながら先を行く芳蘭に続いて、伽耶と誠は、並んで静かに歩いていた。
「……姫様。なにか、失礼なことはありませんでしたか?」
誠がそっと伽耶に目を向ける。
「師匠はとても才あるお方なのですが、あのような……ええと、その……少々独特なところがあるもので、心配で……」
眉をひそめて深刻そうに言う誠に、伽耶はふふっと笑って首を横に振った。
「失礼なことなんて、ひとつもなかったわ。わたし、今日すっごくいい一日になったと思ってるの。……周焉明殿のおかげね」
そう言って笑った伽耶の顔に、誠は思わずほっとしたように息を吐き、胸をなでおろした。
――そのとき、ふと伽耶が首を傾げる。
「ところで、あなた……“誠坊”って呼ばれてるのね?」
「えっ……あ、はい。師匠から、初めて会った時からずっと……」
「ふふっ、わたしも呼んでいい?」
イタズラっぽく笑って、じっと覗き込んでくる伽耶の瞳に、誠はぎょっとして目を逸らした。
「そ、そ、それは……っ ご勘弁ください……!」
赤くなった顔を隠すように視線を落とし、早足になる誠。
「ええ〜? なんでよ〜? わたしだって呼びたいのに〜」
「だ、だとしてもです……!」
ぷくっと頬をふくらませる伽耶と、慌てて前を向く誠。
その前方で、芳蘭の足音が一段と大きくなった気がした――。




