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紅に咲く  作者: ゆき
第一章 春風とともに
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第七話 礼節のざわめき

季節はだんだんと深まり、あれほど美しく着飾っていた紅葉もその色を失い始めた頃。

伽耶の書房では、いつも通り伽耶と誠が穏やかな朝を過ごしていた。


そのときだった――


「きゃっ……! ご、ごめんなさいっ……!」


ぱしん、と軽い音を立てて、伽耶の手元から茶器が転がる。

床に落ちたそれは、ぱりん、と気の抜けた音で砕け散った。


「ああ!……姫様、動かないでくださいませ。お怪我をされます!」


芳蘭が慌てて駆け寄り、袂を押さえて破片を拾い始めた。


――トントン。


書房の扉を軽く叩く音が響いた。


「姫様に、軍部より書状をお届けに参りました!」


芳蘭が顔を上げるも、手はまだ離せない様子だった。


「……私が受け取ります」


誠が立ち上がり、すっと扉へと向かう。音もなく扉を開けると――


「よう、誠坊!」


にっこり笑って立っていたのは、誰であろう、蒼煌辰だった。


誠は一瞬目を見開き、間髪入れず――

バタンッ!

勢いよく扉を閉めた。


「おいおい、そんな照れんなって、誠坊〜!」


くぐもった声が、戸の向こうから響く。


「……なぜ貴方が、ここに」


誠は扉の前にぴしっと立ち、ぐっと眉を寄せる。

だが、その背中は明らかに“焦っていた”。


「書状を届けにきたんだってば。ほら、烈翔様の印、ちゃんとあるだろ?」


ほんの少しだけ戸が開き、煌辰が巻物の先をぴらりと見せる。


(……また烈翔様に取り入って、こんな真似を……)


誠が小さく息を呑み、顔をしかめたそのとき――


「蒼煌辰?」


伽耶の声が奥から届いた。


「あら、どうしたの?入ってちょうだい」


ぱっと戸が開かれ、煌辰がにっこにこで登場した。


「いや〜伽耶姫ちゃん、今日もお美しい!それに、怖〜い方もいないようで……今日は幸運ですね?」


誠にニヤッと目配せしながら言ったその瞬間――


「…………」


音もなく背後に立っていた芳蘭と、ばっちり目が合った。


「ひっ……芳蘭殿!お変わりなく!」


見事な角度でぺこりと頭を下げる煌辰。


「……わたくしは、少しの間だけ席を外しますが――」


芳蘭はゆっくりと煌辰に目を向けると、

いつもよりも、何オクターブも低い声音で続けた。


「くれぐれも。姫様に無礼な真似をなさらぬように。……陸誠様、頼みますよ」


頭を下げたまま固まる煌辰を見下ろすように一瞥し、芳蘭は砕けた茶器のかけらを持って、静かに部屋を後にした。


――扉が閉まる音が、妙に重く響いた。


「……あれはたぶん、師匠よりこえぇな。あの人、いつもあんな感じなの? 伽耶姫ちゃん……」


ぞくぞくと両腕をさすりながら、煌辰はおどけた様子で部屋へと入り、机のそばの椅子に勝手に腰を下ろした。


その動きに、誠が「勝手に座るな」とでも言いたげに口を開きかけ――


「……!」


だが、伽耶がすっと手を上げて制した。


「芳蘭は……ああ見えて、優しいところもあるのよ」


伽耶はふふっと笑い、微笑んだ。


「それより、わたし、“伽耶姫ちゃん”って初めて呼ばれたわ。お友達みたいで、なんだか素敵ね」


伽耶はそう言って、嬉しそうにふわっと微笑んだ。


――その言葉を聞いた瞬間。


誠の手が、ピクリと止まった。


「そうなんですか? じゃあいつもは、なんて呼ばれてるんです?」


煌辰が不思議そうに尋ねると、伽耶は顎に指を当て、少し考え込んだ。


「うーん……“姫様”が多いかしら。仕方がないのかもしれないけど、あまり名前で呼んでもらえることって、ないのよね」


そう言って、どこか寂しそうに微笑む。


その表情を見た煌辰は、いたずらっぽく笑いながら、わざとらしく誠の方へ顔を向けた。


「へぇ〜……じゃあ、誠坊は伽耶姫ちゃんのこと、なんて呼んでるんだ?」


その問いに、誠は明らかにぎくりと固まる。


「ひ、姫様と……当然でしょう! 貴方は礼を習わなかったのですか!? 王族の姫様方のお名前は、気軽に呼んではならないのです!」


「でもさー、本人は名前で呼んでほしそうだったじゃん? 怖い人いないときくらい、呼んであげたらいいのに」


煌辰はどこ吹く風でそう言いながら、楽しそうに肩をすくめた。


誠は顔を真っ赤に染めながら、机に手をついて反論する。


「そういう問題ではありません!! 貴方が異常なのです、先ほどから姫様のお名前を調子に乗って何度も……っ!」


そこへ――

ぱたん、と静かな音を立てて、書房の扉が開いた。


「お待たせいたしました。――蒼煌辰様、なにもなさっておられないでしょうね?」


芳蘭の声に、誠はピシッと背筋を伸ばし、煌辰は一瞬ビクリと肩をすくめた。


「怖い人ももどってきたし、そろそろ帰りまーす……」


小声で煌辰は呟くと、椅子から立ち上がったが、おもむろに伽耶の方をむいて


「じゃ、またね、伽耶姫ちゃん!」


ウインクし、軽やかに手を振りながら煌辰は去って行った。

伽耶はふふっと笑いながら首を傾げた。


「なんだか彼って……嵐みたいな人ね。急に来て、急に行ってしまうんだもの」


誠が溜め息まじりに肩を落とすのを見て、伽耶はくすくすと笑った。


けれど――

笑顔のまま、ふとその横顔を見つめて、伽耶は言った。


「そういえば、誠。あなたって……一度も、わたしの名前を呼んでくれたこと、ないわよね?」


その言葉に、誠の手が――また、ピクリと止まった。


「そ、それは…その…先ほども申し上げたとおり…王族の姫様への礼を尽くした結果として…」


固まったまま、言い訳のようにぼそぼそと話す誠。

伽耶はその様子を見つめて――ふふっと、悪戯っぽく笑った。


「あら。本人がいいと言ってるのよ?」


くすくすと微笑む伽耶。

その背後から、呆れたような、でもどこか諦めたような声が飛んでくる。


「……姫様。陸誠様をからかうのはそのくらいにして、お勉学の続きを」


「はぁい……」


つまらなさそうに頬をふくらませながら、伽耶はしぶしぶ筆を取った。


その背中を見ながら、誠は小さく息を吐き――

けれどその胸の内は、さっきから妙に落ち着かなかった。







その夜――


誠はひとり、自室の窓辺に佇んでいた。

開け放たれた窓からは、夜の静けさと、澄んだ空気、そして遠くで虫の声が聞こえるだけ。


月の光が障子越しに射し込むなか、誠は小さく呟いた。


「……なぜ、私は――呼べなかったのだろう」


伽耶の名前を口にしようとした、あの瞬間。

胸の奥にふわりと広がったざわつき。

それは決して“礼節”の二文字で片づけられるものではなくて――


「……姫様、あれほど嬉しそうに、笑っていたのに」


思い出すのは、あの無邪気な声と、心からの笑顔。

だが、自分の喉はどうしても、その名を呼ばなかった。


誠はふぅ、とひとつ息を吐くと、夜空を見上げた。


その胸に芽生えた想いの名前を、まだ知らぬままに――


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