第六話 踊る魚たち
秋風に揺れる赤い旗が、城の訓練場に掲げられていた。
いつもの鍛錬場は様変わりし、仮設の観覧席や装飾が施され、兵や武人たちが整然と列をなしている。
鼓の音が、空高く鳴り響いた。
それを合図に、祭事――「武芸祭事」が幕を開ける。
王族席の高台には、季景仁が威風堂々と腰を据えている。
その両隣には、烈翔、総雅、華蘭――そして、伽耶の姿があった。
伽耶は背筋をピンと伸ばし、どこか緊張した面持ちを浮かべている。
それもそのはず。
今日は、彼女にとって初めて王族として出席する公式行事だったのだ。
「……始まりましたね」
そんな伽耶の緊張をほぐすかのように、静かな声が届く。
声の主は、すぐ背後に控えていた陸誠だった。
伽耶は振り返りはしなかったが、頬をほころばせながら、静かに返す。
「華蘭姉様が“すっごく面白いから絶対見た方がいい”って言ってたから、楽しみにしていたの。お父様にお願いして、やっと許可していただいたのよ」
「それは……どちらの意味だったのでしょうか……」
誠が苦笑しながら言ったそのときだった。
列に並ぶ若き兵士たちの中――
やや長めの黒髪を後ろに結び、白銀の帯を揺らしている一人の少年が、ゆるく背伸びをした。
体格はまだ未完成ながら、目に浮かぶ自信と余裕。
「ねぇ、あの人……なんだか、他の人とちょっと違うような……？」
伽耶が目線だけで、少年の方を指す。
隣に座る華蘭は、顔を前に向けたまま、小さな声で返した。
「蒼煌辰よ。あいつ、ああ見えて、すっごく優秀なのよ」
「華蘭は何度やっても勝てねぇもんな？」
聞こえていたのか、烈翔がニカッと笑う。
華蘭は拳をぎゅっと握りしめた。
「勝てないんじゃないわよ！ あれはまだ実力を――！」
「……咳払いが聞こえなかったか？」
総雅の低い声に、ふたりはピタリと口を閉じた。
伽耶は、そっと隣に控える誠に声をかける。
「ねえ、誠は知ってる？」
「……ええ、まぁ」
誠は視線を逸らしながら、静かに答えた。
「ですが――姫様が、わざわざ興味を持つような者ではございませんよ」
その声音は、珍しく苦く、冷たい響きを帯びていた。
初めて聞く誠の声音に、伽耶が思わず後ろをふり返りかけた、その時。
――ドン、ドン。
重々しい太鼓の音が、場を打ち震わせるように響いた。
伽耶はハッとして姿勢を正し、視線を前に戻す。
「これより、武芸演舞を始めさせていただきます！」
筆頭侍官の澄んだ声が、静まり返った会場に響き渡った。
いくつもの武人が舞台に立ち、次々と演武を披露していったが――
とりわけ人々の目を奪ったのは、やはり蒼煌辰だった。
彼が一歩、地を踏むだけで空気が変わる。
足の運びに無駄がなく、揺るがぬ体幹に支えられた太刀筋は――一寸のぶれもなかった。
動作のすべてに、研ぎ澄まされた静と動が共存している。
（……あの人、本当に、わたしとそう変わらない年齢なの……？）
伽耶は目を見開いたまま、ただ息を飲むしかなかった。
やがて煌辰が最後の型を決めると、
会場全体が一瞬、息を止めたかのような静寂に包まれ
――次の瞬間、割れんばかりの拍手が巻き起こった。
拍手はしばらく鳴り止まず、その熱を帯びた音は、伽耶の胸の奥まで響いていた。
拍手が鳴り止まぬ中、煌辰は涼しげな笑みを浮かべたまま、軽やかに舞台を下りる。
そして、そのままの調子で――
伽耶たち王族の席の方へ、ひらひらと、実に軽薄そうに手を振った。
（……あれは、誰に……？）
伽耶が不思議そうに背後を振り返ると――
誠は唇をぎゅっと結び、視線を逸らしながらも、その手を真正面から受け止めていた。
（……誠？）
「誠、どうしたの――」
伽耶がそう声をかけようとしたその瞬間。
「ふっふ〜ん、伽耶……もしかして気になっちゃった？蒼煌辰♪」
ぐいっと横から身を乗り出してきた華蘭が、にやにやしながら伽耶の耳元で囁いた。
「えっ！？そ、そんなわけないでしょっ！？ちょ、ちょっと！姉様、声が……！」
焦った伽耶の声に、烈翔が吹き出しかけ、誠は微妙に顔を伏せる。
すると、そのやり取りを見ていた総雅が、またしてもタイミングよく――
「……コホン」
わざとらしい咳払いが、王族席にピリッとした空気を戻す。
「……総雅兄様！？い、今のはっ……！」
「行儀よくね、伽耶」
「…はい。」
総雅はちらりと視線を逸らしたまま、静かに言うだけだったが――
その微妙な声音に、伽耶も華蘭も烈翔も、どこか居心地悪そうに沈黙するしかなかった。
表彰式が始まり、壇上に立った少年に、再び会場の視線が集中する。
白と紺の儀礼装束に身を包んだ煌辰は、いつものように朗らかな笑みを浮かべていたが、その瞳はまっすぐに王座の方を見据えていた。
「このような名誉ある賞をいただき、大変光栄に存じます」
礼儀正しく一礼し、間を置かずに言葉を継ぐ。
「この剣で――皆様の未来を切り開く将となるべく、日々精進してまいりますゆえ。王族の皆様、どうぞご安心くださいませ」
その言葉に、観客席から小さなどよめきと、感嘆の拍手が起きた。
だが――煌辰の笑みが少しだけいたずらっぽく傾き、その視線が伽耶と誠のいる席へと向けられたのは、気づいた者だけが知る、ほんのわずかな一瞬のことだった。
「……あれって、今こっちを――」
伽耶が不思議そうに呟くが、その隣で控えていた誠は微動だにしない。
「……知り合いなの？ なんだか、あなたのこと見てた気がするけど」
「……あまりお気になさらないでください。蒼煌辰は、武芸の同門ではありますが――とても、姫様がお気を留めるような者では」
誠は声をひそめながらも、わずかに唇を引き結び、目を伏せた。
そんな誠の表情に、伽耶は少し驚いた。
そこへ華蘭がひょいっと横から顔をのぞかせる。
「ふ〜ん、珍しいわね。陸誠がそんなふうに言うなんて。やっぱり、なんかあるんじゃないの〜？」
「……っ、そのようなことは……！」
ふいに隣の総雅が大きく咳払いをした。
「……行儀よくな。」
「……はいっ」
どこか咎めるような声音に、伽耶は思わず背筋を伸ばし、小さく頷いた。
表彰式も無事に終わり、王族たちが立ち上がったそのときだった――
「おい、陸誠！」
鋭く通る少年の声が、誠の名を呼ぶ。
伽耶と誠が振り返ると、そこに立っていたのは――
「お初にお目にかかります、姫様。蒼煌辰と申します」
白い礼服の肩に陽が差し、その髪と同じ色の瞳が、まっすぐに伽耶を見つめていた。
「陸誠とは、同じ師匠に学ぶ間柄でして。誠は、まあ、物静かな優等生ですけど……」
ちらりと誠へ目をやり、少年はにこっと笑う。
「私の方が、いろいろと派手にやってるもので、覚えられやすいんですよね。……ですが、どうぞご安心を。姫様のお傍を守るのにふさわしい者になるため、努力は惜しみませんので」
その言葉に、伽耶がどう返せばいいか迷っていると――
「……蒼煌辰」
誠の、低い声が響く。
「そのような言葉は、姫様に向けるべきではありません」
「おっと、こりゃ失礼！」
煌辰は肩をすくめて、伽耶にぺこりと一礼すると、踵を返して軽やかに去っていった。
その背中を見送りながら、烈翔がぽつりとつぶやいた。
「おもしれえな、あいつ」
烈翔は気持ちよく笑うと、すっと伽耶の隣に歩み寄り、ひと言――
「ところで伽耶……誠坊、なんか怒ってねぇか？」
と、耳打ちするように囁いた。
「……そう、ですね……？」
伽耶もそっと首を傾げ答える。
どこか不思議そうな表情で、視線をちらりと後ろへやった。
そこには、いつもと変わらぬ表情で、ぴたりと一歩後ろを歩く誠の姿。
けれど――よく見ると、彼の口元がほんのわずかに動いている。
なにかを言いたげに、けれど飲み込むように……小さくもごもごと。
だが結局、誠はそのまま何も言うことなく、黙って伽耶のあとをついて歩いていた。
まるで、ほんのささやかな苛立ちすら、
姫の前では隠しておこうとするかのようだった――。
翌日。
伽耶の書房には、いつもより少しだけ賑やかな空気が流れていた。
伽耶と誠が並んで書を開いているそばでは、烈翔が一枚の報告書を手に、のんびりと椅子に腰掛けている。
「……で、それで華蘭が怒鳴り込んできてな、総雅が“落ち着け”って言ってる間に俺は裏から逃げたんだ」
「ふふっ、兄様ってば……」
こっそりと笑いを漏らす伽耶に、誠は筆を止めかけたが――
「……姫様、手が止まっておりますよ」
と、控えめに声をかけるにとどめた。
それでも話はぽつぽつと続く。
烈翔の話はいつだって面白いのだ。
「にしても、お前たちずいぶん息が合うな？勉強してるっていうより……ふたりで共謀してなんか企んでんじゃねぇか？」
「そんなことありませんっ」
誠がやや慌てて否定したその瞬間――
「……姫様？ 陸誠様？」
書房の隅から、控えていた芳蘭の声が響いた。
それだけで、伽耶も烈翔も誠も、ぴたりと口を閉ざす。
しん……とした数秒が流れると、誠は小さく咳払いをしてまた筆を取り、烈翔は肩をすくめながら報告書へ視線を戻した。
「……相変わらずこえーな、芳蘭は」
烈翔が口の中でぼそりと呟くと、伽耶はぷっと笑いを堪える。
「そういや、昨日の蒼煌辰。誠坊はあいつと、どんな関係なんだ？」
烈翔の口からその名前が出た瞬間――
誠はぴくり、とわずかに肩を揺らした。
「武芸の同門なんでしょう？ でも彼、なんだか……あなたのこと、ずいぶん意識してたみたいだったけど？」
伽耶も机の向こうから首をかしげてそう言うと、誠は一度、小さく息を吸ってから――
ふぅ、とため息をついた。
「……実は、遠縁の間柄でして。幼い頃から面識はあったのですが……」
一拍の沈黙。
「いつ頃からか、あのように――何かと突っかかってくるようになったのです。武芸の腕は確かですが、口の方は……正直、あまり褒められたものでは」
苦々しげに眉をひそめた誠の様子に、伽耶はふっと笑いを漏らしかけたが、またも芳蘭の咳払いが室内に響いた。
「……っ」
ぴたりと静まり返る空気の中、誠は姿勢を正し、伽耶もそっと口元を押さえた。
そんなふたりの様子を眺めながら、烈翔は満足げに頷いた。
「……よし！」
突然立ち上がった烈翔に、ふたりが同時に顔を上げる。
「じゃあ会いに行ってみるか、蒼煌辰に。身体も鈍ってきたところだし、ちょっとした散歩がてらってことでな！」
「えっ……？ 今から、ですか？」
誠が思わず聞き返すと、烈翔はにかっと笑って肩をすくめた。
「何事も、勢いが大事だろ？」
「……そんなもの、でしょうか……」
「楽しそう！行きましょう、誠！」
ぱっと伽耶が立ち上がり、誠を見つめて満面の笑みを浮かべた。
「……姫様がそのおつもりなら……」
小さくため息をつきながらも、誠は立ち上がった。
その背後では――案の定、芳蘭が頭を押さえていた。
蒼煌辰は武道場にいるらしい――
その情報をもとに、伽耶、誠、烈翔、そして芳蘭の四人は軍部の一角にある武道場を訪れていた。
広々としたその場所には、朝の光を浴びた兵士たちがずらりと並び、それぞれに剣や槍を手に、真剣な面持ちで鍛錬に励んでいた。
「蒼煌辰はどこかな……っと」
入り口で立ち止まり、烈翔が目を細めて辺りを見回す。
「あっ、いたいた！」
声を上げて指さした先では――
煌辰がちょうど、一騎打ちの模擬戦の真っ最中だった。
相手は、彼よりも一回りは大きな体格の壮年の兵。
だが煌辰は怯むことなく、まっすぐに踏み込んでいく。俊敏な足さばきに迷いはなく、研ぎ澄まされた剣筋が何度も相手の守りを揺さぶった。
そして次の瞬間――
脇腹に鋭く打ち込まれた木剣が、鈍い音を立てて命中する。
男がよろめいて膝をついたところで、戦いは終了した。
「おお〜〜っ！」
烈翔が満面の笑みを浮かべて感嘆の声を上げる。
「やるなあ、あいつ！ 伽耶、見たか？」
「うん……すごい！」
伽耶が目を輝かせて頷いたその横で、誠は小さく肩をすくめる。
（……派手好きなところまで、相変わらずだ）
そんな誠の胸の内も知らぬまま、烈翔はズカズカと煌辰の元へ歩み出し、慌てて伽耶と誠もその後に続いた。
「おい、蒼煌辰！」
烈翔の大きな声が武道場に響く。
その場の空気が一瞬でざわついた。
兵士たちの視線が一斉に彼の歩みに注がれるが、本人は気にも留めず、まっすぐ煌辰のもとへと進んでいく。
模擬戦を終えたばかりの煌辰は少し目を丸くしたが、すぐに動きを切り替え、スッと膝をついた。
「季烈翔殿下。お目にかかり、光栄でございます」
「挨拶はいい、顔を上げてくれ。それより――」
烈翔はニカッと笑うと、嬉しそうに煌辰の背をばんばんと叩いた。
「お前の剣、いいな！ まっすぐで力強くて、見てて気持ちよかった！」
「……光栄です」
肩を揺らしながら、煌辰は少しだけ息を詰めて笑う。烈翔の全力の歓迎に、押され気味な様子だった。
ふと目を向けると――
そこには伽耶と、その横に立つ誠の姿があった。
煌辰の表情が、ふっと切り替わる。
口角を上げ、芝居がかった仕草で伽耶に向かって一礼する。
「おや……姫様までご足労とは。ご機嫌麗しゅうございますか？」
朗らかな声とともに、わざとらしく深く頭を下げる。
――その刹那。
すっと、誠が伽耶の前へと歩み出た。
「蒼煌辰」
低く、しかしはっきりとした声が響く。
「姫様に対して、軽率な口調は慎んでいただきたい」
「……おっと。これは失礼」
煌辰はわざとらしく肩をすくめながら、顔だけを上げた。
「つい親しみを込めたつもりだったんですけどね。……あいかわらず、堅いなぁ、誠坊は」
その“誠坊”という言い方に、誠の眉がわずかに動いた――が、何も言わず、ただ真っ直ぐに煌辰を見返していた。
「ねえ、蒼煌辰。あなた、誠と仲良しなんでしょう？」
伽耶がニコニコと笑ってそう言うと、横にいた誠が盛大に咽せた。
「誠坊、そんな話を姫様に……？ いやはや、照れ屋だなぁ」
そんな様子を見て、煌辰はくすっと笑みを浮かべる。
「まあ、仲良しっちゃ仲良しですよ。遠戚で同門ですし、子どもの頃から顔は突き合わせてますからね。でもほら、誠坊って超優秀じゃないですか？ 今だって、お姫様のお付きなんて大役をやってるくらいで」
その口ぶりは軽く、どこか皮肉めいていたが――
「そうね、誠はとっても優秀よ。でも、あなたも武芸がすごく達者だったわ」
伽耶はそう返し、にっこりと笑った。
「では、姫様のお付きは私が代わりましょう。その方が安心でしょう？」
煌辰が冗談めかしてそう言った瞬間、誠が一歩前に出る。
「蒼煌辰――度が過ぎています。姫様に対して、そのような軽口は慎んでいただきたい」
誠の声は低く、凛としていた。
だが、伽耶はふっとその間に入るように口を開く。
「ねえ、蒼煌辰。あなた、鯉って知ってる？」
「えっ？ ……まあ、はい。知ってますよ。我が家の池にもいますし」
煌辰は急な話題に戸惑いながらも答える。
「鯉って、とても美しいの。わたし、大好きで、お庭の池で飼ってるのよ。」
「……はあ」
「それでね、先日、夕餉に“烏賊”が出たの。とってもおいしかったのよ。だから、“池で飼えないかしら”って訊いてみたの」
煌辰の困惑は深まっていく。
伽耶はくすりと笑いながら言葉を続ける。
「でもね――
鯉は美しいけれど、海では生きられない。
烏賊は美味しいけれど、池では生きられない。
どちらにも“それぞれの良さ”があって、どちらが優れているなんて、誰も決めようとはしないわ」
煌辰の表情から、徐々に余裕の笑みが消えていく。
「誠は誠。あなたはあなた。
きっと、“生きる場所”も、“輝き方”も違うのよ。わたしは、そう思ってる」
静かに、けれど真っ直ぐに伝えられた伽耶の言葉に――
煌辰は、ほんの少しだけ目を見開き、口を閉ざしたまま伽耶の顔をじっと見つめ――
そして、ふっと息を吐いた。
「……なるほど。姫様のおっしゃる通りだ」
ぽつりと、それだけ。
どこか独り言のような口調だったが、その瞳には冗談めいた色が消えていた。
そのとき――
遠くで、短く鋭い笛の音が響いた。
合図に応じて、周囲の兵士たちがざわざわと動き始める。
「あ、いけね。お呼びがかかったみたいです」
煌辰はくるりと背を向けかけ――そして、もう一度だけ振り返った。
「ちなみに俺はこのとおり、美しくもあり、噛めば噛むほど味が出る男ですよ？ 誠坊の代わりが欲しくなったら、ぜひこの俺にご用命を――伽耶姫サマ？」
おどけた笑みと共にウィンクをひとつ残し、蒼煌辰は笛の音のする方へ駆け出していった。
「蒼煌辰っ……！」
背を向けた煌辰に、ついに誠が声を荒らげる。
だが、当の本人はその声に笑いながら手を振り――やがて兵たちの列に紛れ、姿を消していった。
伽耶がぽかんとしたまま瞬きを繰り返していると、烈翔がニカッと笑いながら背中をバシバシと叩いてきた。
「なんだか、あいつに気に入られたみてぇじゃねぇか？ 油断できねぇな、誠坊？」
「っ……！」
からかうような声音に、誠は何か言いかけたものの、頬をほんのり赤く染めて口をつぐんだ。
「さっ！ 俺も身体動かしたくなってきたし、このまま鍛錬でもするか！」
そう言って大きく伸びをした烈翔の後ろから、控えていた芳蘭が咳払いを一つ。
「姫様、そろそろ戻らねば午後のお時間に差し支えます」
「あっ……うん、わかった！」
慌てて歩き出す伽耶は、ふと立ち止まり、少しだけ遅れていた誠の方を振り返った。
そして、にっこりと笑う。
「でもわたし、まだまだあなたに教わりたいことがたくさんあるの。
これからも――ずっと、わたしのそばにいてね。誠」
誠は、返事をしようとしたはずだった。
だが、喉の奥がふさがったように言葉が出てこない。
うっすらと赤く染まった頬のまま、ただ、まっすぐに伽耶を見つめて――
……動けなくなっていた。
