第十五話 それぞれの朝
朝日が山の端を照らしはじめた頃、訓練所では出立の支度が慌ただしく進んでいた。
女官たちは荷の確認に走り回り、兵たちが馬を整えるなか、伽耶のもとにも、旅装束が届けられていた。
「もうすっかり顔色もいいみたいね!昨日は寝込んでるって聞いたから、心配したんだから」
華蘭が軽く眉を下げ、伽耶の頭を優しく撫でた。
「ご心配をおかけしました。おかげさまで、もう大丈夫です」
伽耶は照れくさそうに笑ってみせる。
そのとき――
幕の奥から、翡陽珀・岑晶真・司鷹真の三人が並んで歩いてくるのが見えた。
誠はその姿を確認するなり、すっと一歩前に出て、無意識に伽耶を背中に庇うように立った。
「これは、翡国の皆様。お見送りいただき、痛み入ります」
誠の声音は礼節を保ちつつも、どこか警戒を滲ませていた。
陽珀はその様子を面白げに見やりながら、ちらりと伽耶の姿を探る。
「姫様のご容態は?……もう、良さそうですね」
覗き込もうとするその視線を、誠はさりげなく遮るように体を寄せる。
「はい。おかげさまで、姫様もすでにお元気になられました」
静かに言いながら、誠はじっと陽珀の目を見つめた。
しかし陽珀は、まるで気にした様子もなく朗らかに笑い、誠の肩をぱん、と叩いた。
「いや、しかし今回は一本とられたな。あの策には見事にやられたよ」
「だから申し上げたでしょう、殿下。戦は速度だけでは決まりませんと。聴いてくださらないんですから」
晶真がため息まじりに扇を閉じる。
「まあまあ、晶真。あの罠は立派だった。まったく、見事にしてやられたとも」
「光栄に存じます」
誠はぴしりと背を正して一礼したが、その頬にはわずかな緊張が残っていた。
「それで、姫様には、些少ながらお詫びの品を――」
そう言って陽珀が手を振ると、控えていた兵士が白馬を一頭引いてくる。
その馬体は優美で気品があり、陽の光を受けて白銀に輝いていた。
「名を桜華といいます。従順で賢く、よく人の言葉を理解します」
そう告げた陽珀の声に、伽耶は目を丸くして前へ出た。
「えっ……こんな立派な…ほんとうに、わたしが?」
「もちろん。鷹真とふたりで選びました。気に入ってもらえれば嬉しい」
「ありがとうございます!」
伽耶は嬉しさのあまり、陽珀の両手を掴んでいた。
その勢いに陽珀が目を瞬かせ、思わず後ずさるほどだった。
伽耶は弾むような足取りで馬へ駆け寄り、うっとりとした表情でたてがみに頬を寄せる。
(これは、しばらくは桜華殿に夢中、ですね)
誠はそんな伽耶の姿を静かに見守りつつ、わずかにため息をついた。
「乗馬のことで困ったら、いつでも翡国へご連絡を。貴女のためなら、すぐに駆けつけますよ」
陽珀が微笑んでそう言ったが、伽耶はまるで聞こえていない様子で馬と戯れていた。
誠はそんなやりとりを眺めながら、ふと、陽珀の視線を感じてそちらを向いた。
「……姫と家臣の関係は、難しいでしょう?」
陽珀の声は穏やかだったが、どこか含みを持っていた。
「距離を詰めれば周りに囁かれ、離せば届かない。けれど、あなたは――迷いなく、その道を選んでいるように見える」
誠はその言葉に、はっとしてわずかに目を伏せる。
その視線の先では、伽耶が桜華のたてがみを撫でながら、ふとこちらを見て――にこりと笑った。
(……ああ、また、顔を見ただけで分かってしまう)
「あなた方の歩む道に、光あらんことを」
陽珀の声に、誠は静かに姿勢を正した。
そして、言葉を選びながら、丁寧に頭を下げる。
「……善処いたします」
陽珀は満足げに笑い、晶真と鷹真がその背を追うように並び立つ。
こうして、一行の帰国の朝は、やさしい光とほのかな緊張をはらんで幕を開けたのだった。
ただひとり、翡 陽珀だけが。
去り際にもう一度だけ、伽耶の横顔を振り返った。
その眼差しには――
まだ、終わっていないという、静かな情熱が宿っていた。