第一話 蠢く影
広間に響く楽の音。
天井の高い、重厚な造りの宴の間は、隣国を招いての大規模な饗宴にふさわしく、絢爛たる装飾が施されていた。
その一角。女官たちがひそひそと声を交わしていた。
「……あの春の舞のときから、姫様、すっかり有名になられましたね」
「十五になられて、ますますお美しく……ご縁談の話も、あとをたたないそうですよ。ああ、きっと今夜もどこかのお偉方が目をつけて――」
そこへ、楽の音に合わせて舞台へと現れるひとりの少女。
揺れる桃と白の衣をまとい、風に溶けるような柔らかな微笑を浮かべる。
「……始まった」
末席に控えていた誠が、ふと顔を上げる。
その瞳には、誰よりも強く、一心に舞台の少女の姿が映っていた。
(……今日も、お綺麗だ)
思わず零れた心の声。
それを遮るように、隣で盃を傾けていた煌辰が肩を突いた。
「おーい、見すぎだぞー?姫様から少しも目が離せないってか?」
「……戯れはおやめください」
誠はわずかに咳払いをして視線を逸らす。
けれど耳まで紅くなった横顔を見て、煌辰はにやりと笑った。
その時だった。
舞いの最後、衣を揺らしながら一礼を終えた伽耶が、ふと顔を上げる。
そして――末席に控える誠を見つけ、ふわりと、静かに微笑んだ。
(……どうだった?)
声にならぬ問いが、その瞳に浮かぶ。
「……っ」
誠は胸の奥を強く打たれたように、一瞬だけ目を伏せる。
その微笑は、まるでこの世で一番美しいもののようだった。
「……末席なのに存在感ありすぎだろ、おまえ」
ぽつりと呟いた煌辰の声に、誠の耳がさらに赤く染まったのは言うまでもない。
一方その頃――
舞台に見惚れていたのは、季国の家臣たちだけではなかった。
季の王――伽耶の父景仁のもとに、ひとりの男が酒を手に近づく。
大国紫国の王、紫宸。目を細め、扇を揺らしながら口元に笑みを浮かべていた。
「これが噂の姫君か。なるほど、美しい……いや、想像をはるかに超えておりますな」
盃を傾け、その視線の先には、軽やかに、華麗に舞う伽耶の姿。
「ええ。亡き妻によく似ております」
景仁もまた、盃を揺らしながら、静かに応じる。
「姫は縁談も後を絶たぬとか。
……あれほどの姫ならば、手中に収めたくなる気持ちも、わかりますな?」
「……ご冗談を」
景仁は笑みを浮かべながら、手元の酒瓶をとり、紫宸の盃に注ぐ。
「娘はまだ幼く、舞を好むだけの子。政には興味も、理解もいたしませんゆえ」
紫宸は注がれた盃をくるりと回し、
「そうでしょうか」と、意味深に笑った。
「お噂は聞いておりますよ。詩に文学、兵法に礼法……“噂の軍師どの”が教えておられるとか。見事な仕上がりですな」
「……」
盃を持つ手に、わずかに力がこもる。
景仁は表情を変えずに、もう一度、自らの盃を満たすと――
ぐい、と一息に飲み干した。
「……娘がそう見えたなら、師の力によるところでしょう。わが季国には、誇るべき若者が揃っておりますゆえ」
「ほう。頼もしいことですな」
紫宸の笑みは、まるで何も含んでいないかのように柔らかい。
だが、その背後にある“意図”を、景仁は誰よりも鋭く感じ取っていた。
(――軍師にまで目をつけるとは。やはり、油断ならぬ男だ)
景仁は、無言で盃を口元に運び――ぐい、と一息に飲み干した。
その表情に、笑みは浮かんだまま。
だがその笑みに、いつの間にか鋭い切っ先のような静かな闘志が宿っていた。
「我が季国の宴、楽しんでいただけているようで、何よりですな」
「ええ、ええ。実に……興味深い」
そう応じる紫宸の目もまた、決して笑ってはいなかった。
――視線の裏で交差する、剣より鋭い探り合い。
それに気づいた者は、ほんの一握り。
隣席の重臣たちがざわめく中、
そのやり取りを、ひとり遠巻きに耳にしていた男がいた。
小国の主、張昶。
その若き瞳は、伽耶の姿を、そして景仁と紫宸のやり取りを、確かに心に刻みつけていた。
「……あれが、季の末姫」
楽が終わる。
姫の舞が終わり、会場が賛辞と拍手に包まれる中、姫はふわりと微笑んだ。
張 昶は、その笑みをじっと見つめながら、低く笑う。
「……使えるな」
盃を揺らす彼の目は、紫国の王、紫宸へと向けられていた。
(この姫を献じれば、我が国も――)
彼の思惑に気づく者は、この場にほとんどいない。
だが――末席に控えていた、陸誠の視線が一瞬鋭くなった。
遠く離れていても、姫の微笑みに返す誰かの目が、“まるで狩人のよう”だったことに――気づいてしまった。
(……あの男、何者だ?)
表情は崩さず、誠はゆっくりと酒を口に運んだ。――ただ、わずかに目元の奥が冷える。
この日、宴の裏側で“何かが始まった”ことを、彼だけが感じ取っていた。




