≪閑話≫ 春の逃避行後編
そうしていくつかの店をまわったあと、伽耶は道端にようやく見つけた空き椅子に腰を下ろしていた。
誠は立ったまま周囲をきょろきょろと警戒している。
「はー、楽しい!市場ってこんなに楽しいものだったのね」
なれない人混みにさすがに少し疲れたのか、伽耶は両手を伸ばして背伸びをした。
「楽しんでいただけたなら何よりです」
誠は伽耶の前に立ったまま、警戒の姿勢を崩さない。
「それにしても、人が多いのね」
伽耶は困ったように笑った。
(確かに、今日は普段より多い気がする……)
幼い頃、市場には父に連れられて何度も訪れていた誠だったが、これほど賑わっているのは記憶になかった。
「ああ、今日は王族の方が視察に来るんだよ。それで、みんな一目見たくて集まってるってわけさ」
隣に立っていた男が、伽耶の呟きに気さくに答えた。
誠は、ぎくりと身を強張らせる。
「そうなの?誰が来るのかしら」
(姫様がこんなところにいると知られたら……!
烈翔様か華蘭様なら、まだごまかしようが……!)
嬉しそうに尋ねる伽耶の声を背に、誠は祈るような気持ちで返答を待った。
「総雅様だよ。第二王子の」
――無情な答えだった。
「こんなところで総雅兄様を見るなんて、なんだか新鮮な気持ちね」
伽耶は誠にだけ聞こえるような声で、嬉しそうにささやいたが、誠はすでに頭の中が真っ白になりかけていた。
以前の遠乗りの後日、総雅から「手厚いご褒美」と称して与えられた莫大な仕事量が、脳裏にまざまざと甦る。
あの時は書類を処理するのに五日もかかってしまったのだ。
「も、もう今日は十分お楽しみになられたかと……
人も増えてまいりましたし、そろそろ――」
「ええ〜っ?どうして?まだもう少し――」
「いけません!!」
誠のあまりに真剣な表情に、伽耶は思わず肩をぴくりと震わせた。
「……誠、なんだか芳蘭みたいになってきたわね」
伽耶が小さくつぶやいた、その時――
――ゴォォン……
大きな銅鑼の音が、あたりに響いた。
「道を開けよ!」
銅鑼の音と共に、ざわついていた市場の空気が一変した。
人々が左右に道を開け始める。その向こうから、堂々たる騎馬の一団がゆっくりと進んできていた。
誠は反射的に伽耶の前に一歩出て、咄嗟に彼女の肩に手を添える。
「……姫様。こちらへ」
「え? でも、どうし――」
「こちらです、急いで」
誠の声は低く、けれど切実な響きを帯びていた。
ぐい、と肩を引かれるようにして伽耶は道の脇、群衆の陰へと身を潜める。
「誠……?」
ようやく状況を察した伽耶が問いかけるより早く、誠は小さく息を吐いた。
「視察に来られたのが、総雅様だった場合……
気づかれれば一巻の終わりです」
「えっ、でも――わたし、変装して――」
「目を見ればわかります。お兄様方には、誤魔化しなど通じません」
誠の声は、ほとんど呟きに近かったが、伽耶の背筋にぴしりと緊張が走る。
ちょうどその時――
「おい、あれ総雅様じゃないか!?」
「ほんとだ、すごい!本物だ!」
周囲の歓声が上がる。
伽耶は思わず背伸びして見ようとしたが――
「お下がりください」
誠がそっと前に立ち、彼女の視界をふさぐように自分の背を差し出した。
「でも、見てみたいのよ。
こうして群衆のなかから見る兄様って、きっと普段とは全然違う印象なんでしょう?」
「……姫様、お願いですから。せめて今は、身をお守りください」
そう言って、誠は彼女の肩をそっと握り、ぐっと引き寄せる。
「この人混みに紛れてしまえば、気づかれずにやり過ごせます。
……わたしが、何としても守りますから」
誠のその言葉は、騒がしい市場の音にかき消されそうなほど静かだったけれど、伽耶の胸にまっすぐ響いた。
(誠……)
わずかに顔を赤らめながらも、伽耶は頷いた。
騎馬の一団が、目の前を通り過ぎようとしていた――その時だった。
「総雅様ー!こっち向いてください!」
「いえ、こちらを!」
群衆の中から声が飛び交う。
誠の右隣にいた男女が、我先にと前へ出ようとして誠を押しのけた。
「っ――!」
肩を押された誠の身体が、ぐらりと傾く。
その瞬間だった。
騎馬の中でもひときわ目を引く、凛とした青年が、ふとこちらに顔を向けた。
冴えた眼差しが――誠と、真正面から交差した。
「……っ」
(……目が合った!?)
心臓が跳ねる。
今の自分は、伽耶を守るように、いや、まるで抱きしめているように見えているはずだ――
冷や汗が、背をつっと流れた。
「どけーっ!通れんだろ!」
兵の怒鳴り声が飛び、ざわめきが再び広がっていく。
(……今のは、見逃されたのか?)
誠はゆっくりと息を吐き、馬上の総雅に視線を戻す――
その時だった。
騎馬の列の中で、総雅がふいに振り返った。
確かに。誠の方を、まっすぐに。
誠は反射的に、伽耶の前に身を捻ってかばうように立つ。
(……どうか、そのまま通り過ぎてください……)
どれほどの時間が過ぎたのか、誠にはわからなかった。
やがて――
総雅は、何も言わず、何も示さず、そのまま前を向いて去っていった。
「……誠、わたしたち……ばれちゃったと思う?」
伽耶が、不安げに小声で尋ねる。
誠はしばらく沈黙し――
ぎゅっと奥歯を噛みしめるように、ぽつりと答えた。
「……わたしが……なんとか策を考えておきます……」
夕暮れ時、空が橙に染まり出し、2人は城への坂を登っていた。
「今日はありがとう誠。本当に楽しかったわ!」
伽耶はニコニコと笑みを浮かべ、調子よく坂を登っていく。
「…本当によかったです」
そう答える誠は伽耶とは正反対に足取りが重い。
「大丈夫よ、あれだけ人がいたんだから、総雅お兄様が気づいてるわけないわ」
「そうでしょうか…」
誠はあの眼差しを思い出す。どう考えても、あれは自分を見ていたように思えてならなかった。
2人はようやく城門をくぐった。
「ところで姫様…どうやってお戻りになるおつもりですか?」
出る時は、伽耶は塀を越えてぬけだしてきたのだ。
「大丈夫、考えてあるわ!誠の部屋に置いてきた包みの中に、いつもの衣をいれてあるの!」
えっへんとでも言いそうなほど得意げな伽耶に、思わず誠は笑みが溢れた。
「では、急ぎましょう。姫様が部屋を出られてから、それなりの時間がたっております」
そう言いながら、誠が自分の執務室の扉を開けた時…
中の椅子に目つきの鋭い男が座っているのを2人はみてしまった。
「そ、総雅様…!」
誠は自分の声がわずかに震えたのを感じた。
「お兄様!どうしてここに?」
伽耶は無邪気にも総雅に近寄っていこうとし、慌てた誠は伽耶の前に立ち塞がる。
「姫様!そのご服装では…!」
「陸誠」
総雅の鋭い声に誠はぴくりと背中を揺らした。
「今日、街に出ていたな?」
(バレていた……!)
総雅はまるで味わうように、ゆっくりと言葉を継いでいく。
誠はまるで蛇に睨まれた蛙のように、息を詰めていた。
「見覚えのある町娘と、随分楽しげであったようだが……」
(完全に楽しんでおられる……)
誠はごくりと唾を飲み込む。
「――お前には、それだけの“余裕”があると、そういうことだな?」
次の瞬間、総雅はパン、パンと両手を叩いた。
すると、両手に山のような書類を抱えた兵たちが、ずらりと部屋に入ってくる。
無言で、誠の机に積まれていく紙の山。
「こ、これは……!」
「喜べ。私の“とっておき”だ」
満足げに笑いながら、総雅は椅子から立ち上がり、誠の肩をポン、と叩く。
そして、ちらりと町娘こと伽耶の姿を見やり――
「その服装もよく似合っている。
…だが、あまり危険な真似はしないように」
伽耶の頭を、軽く撫でると――
総雅はその場を、ひらりと風のように去っていった。
伽耶はいそいそと着替えると、心配そうに誠の机に積まれた書類の山を見つめた。
「……ごめんなさい、誠。わたしのせいで……」
しゅんと肩を落とす伽耶に、誠はそっと首を振る。
「姫様のせいではありません」
けれど、いつもよりも小さく見える誠の背に、伽耶の胸が少しだけ痛んだ。
「でも、今日は誠のおかげで、本当に楽しかったの。……私も、書類手伝うから」
そう言って、伽耶はそっと誠を見上げる。
「また、一緒にお出かけしてくれる?」
誠は少し目を見開き、そして――ふっと微笑んだ。
「……はい。どこまでも、お供いたします」
凛としたその声に、伽耶の頬も、自然とほころんだ。




