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紅に咲く ― 鳥籠の姫君と誓いの護衛 ―  作者: ゆき
第一章 春風とともに
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第二話 秘密の木陰 後編

ガシャーンッ!!


鈍く大きな音が響いた。


ふたりは思わず書房の方を振り返る。

どうやら、室内で誰かが何かを落としたようだった。


「……失礼。少し見てまいります」


芳蘭が静かにそう言うと、音の聞こえたほうへ足早に戻っていく。


開け放たれた戸の向こうから、涙ぐんだような声が届いた。


「も、申し訳ありませんっ……! 強い風が吹いて……!」


書房の方から、涙ぐんだ女官の声が聞こえてきた。


「お二人ともっ、そこでお勉強を続けてくださいませ!」


芳蘭が中庭に向けて言い残すや否や、ばたばたと裾を翻して、慌てて室内へ戻っていく。


その背中が戸の奥へと消えた瞬間――


「……!」


伽耶の顔が、ぱっと明るくなった。


「こっちよ!」


そのまま、誠の袖をきゅっとつまむと、中庭の隅へと駆け出していく。


「えっ、姫様――?」


何が起きているのか理解する間もなく、誠は伽耶に引っ張られるようにして走り出した。


塀に囲まれた中庭の片隅――そこには、大きな木と岩が寄り添うように並ぶ一角があった。


伽耶は、一度も振り返ることなく――

まるで長年の習慣であるかのように、木の根元に置かれた大きな岩をひょいと踏み台にし、するすると木の幹へと手をかける。


「姫様っ……!? そ、そこは……!」


誠は目を見開いたまま、思わず声を上げた。


しかし伽耶はお構いなしに、軽やかな動きで枝をよじ登り、あっという間に塀の上へと腰を下ろす。


その姿は、まるで塀の上に咲いた花のようで――


「――こっち!」


陽にきらめく笑顔のまま、

伽耶は手を振って、誠に登るよう合図した。


誠は慌てて室内を振り返ったが、

書房の中はいまだ慌ただしく、芳蘭の姿も見えない。


(……今のうち、なら)


小さく息を吸い込み、意を決したように歩み寄ると――

誠は岩に足をかけ、木の幹へと手を伸ばした。


しかし、思っていたより高い。


そもそも木登りなどしたことがない。

誠が戸惑っていると、上から伽耶の声が降ってきた。


「ほら、早くっ!」


その手が、塀の上からぐっと伸ばされている。


一瞬、迷うようにその手を見つめたあと――

誠は決意したように、その小さな手をしっかりと取った。


ぐいっと引き上げられるようにして、塀の縁にようやく手がかかる。


そして、よじ登るようにして身体を引き上げ、

ついに――誠も塀の上に腰を下ろした。


「見て。素敵でしょう?」


伽耶は塀の上でにっこりと笑い、

隣に腰かけた誠へと視線を向けた。


その先――

城の建物がいくつも重なり合い、

さらに遠くに、色とりどりの屋根が小さく並んでいる。


それは、城下の町並みだった。


誠にとっては見慣れた景色。

だが、伽耶の瞳はそれを――

まるで、大切にしまってあった宝石をそっと取り出したかのように、慈しむように見つめていた。


「ここはね、烈翔兄様が教えてくれた、わたしの秘密の場所なの」


さぁっと風が吹いた。

大木の枝が揺れ、葉擦れの音がふたりを包む。

まるで、この場所を隠してくれるように。


その風の音に紛れるように、伽耶がぽつりとつぶやいた。


「……いつかわたしも、あそこに行けるかしら」


その横顔は、先ほどまでの無邪気な笑顔とは違っていた。

どこか遠くを見つめ、寂しさをほんの少しだけ、まとっているように見えた。


誠はその横顔を見つめたまま、少しだけ考え、そして静かに口を開いた。


「……すぐには、難しいかもしれません」


伽耶が、ふとこちらを振り向く。


「ですが――

いずれ学を重ね、姫様への評価が“守るべき存在”から、“頼られるお方”へと変わるとき、

その日も、きっとやって来ます」


春の風が、またひとつ吹き抜けた。


「……その折には、わたしも――お供しましょう」


「ほんとに?」


伽耶が、ゆっくりと顔を向けて言う。


誠はまっすぐ頷いた。


「お約束いたします」


それだけを、真っ直ぐに。


伽耶はぱっと笑った。

太陽の下で、それはまるで、花が咲いたように見えた。


風がふわりと吹き、伽耶の髪が揺れる。

塀の上のふたりの影が、すこしだけ近づいたような気がした。






ふと、誠が室内のほうを振り返る。


「姫様、そろそろ……地に降りられた方がよろしいかと」


「――あっ、そうだ!」


伽耶が小さく手を打ち、誠を見下ろす。


誠は頷き、塀の上から身を引いた。


低く伸びた木の枝に、すっ、と手をかける。

枝から枝へと手を伸ばしながら、雲梯を渡るように慎重に降りていく。


地面すれすれの枝まで来ると、ふっと体を預けるように跳ね――軽やかに着地した。


「……!」


塀の上からその様子を見ていた伽耶は、目を輝かせた。


「あなたって、すごいのね!」


思わず笑みを浮かべながら立ち上がる。


伽耶も、慣れた手つきで枝と岩を伝って、するすると降りていく。

その様子は、まるで小鳥が枝を渡るようだった。


けれど、最後の足場――岩の端が少し不安定だった。


伽耶が躊躇するように足をとどめた、その瞬間。

下にいた誠が、何も言わず、そっと手を差し出した。


伽耶はその手を見つめ、ほんの少しだけ恥ずかしそうに目を逸らしながら――


それでも、素直にその手を取った。


ぽん、とやさしい音を立てて、地面に降り立つ。


その瞬間、伽耶は誠の手をそっと握り返し――

にこり、と笑った。


「ありがとう」


その声は、ふたりだけの小さな秘密のように、やさしく空気に溶けた。


誠も、静かに頷いた。


伽耶はその手を、少しだけ名残惜しそうに離す。


そして、再び春の風が吹く。枝が揺れ、葉が舞い、ふたりの間を光と緑がすり抜けていった。


そのときだった。


「――姫様?」


塀の向こうから、芳蘭の声が聞こえた。


誠と伽耶は、ぴしっ、と姿勢をただし目を合わせる。


「ここよ!」


伽耶が塀越しに声を返す。


「中庭で蝶を見つけたの。追いかけてたら、こんなところまで来ちゃって」


「……蝶、でございますか?」


ほんの少し疑うような声が返ってきたが、やがて芳蘭は咳払い一つ。


「おふたりとも、そろそろ書房へお戻りくださいませ。お勉強の続きを」


「はーい!」


伽耶が明るく返事をし、ふたりは塀沿いをそっと歩いて戻り始める。


ふたりは無事に書房へと戻り、午前の課程はひとまず終了となった。


「また明日も、よろしくね!」


伽耶は、教本を抱えた誠に明るく手を振る。


「はい。明日も、変わらず伺います」


そう応じて、書房の戸を静かに閉める。








行きには、どこか重たく感じたはずの扉――

けれど帰り道、誠はふと振り返り、その扉がなぜか少し名残惜しく思えた。


(……やはりあの方は、“ただの姫君”ではないのだな)


誠は朝の出来事を思い返す。


木を伝って降りた動き、塀に登った身軽さ――

そのひとつひとつが、伽耶の“強さ”と“自由さ”を物語っていた。


そして同時に――


(……もう少し、武術の稽古を増やしてもらおう)


父に願い出る自分の姿を思い浮かべながら、

誠は陽の差し込む廊下を、朝よりずっと軽やかな足取りで歩いていった。

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