第六話 ただ一つの願い
高く積もっていた雪が、陽のぬくもりに少しずつ形を失ってゆく。
その中を進んでいた誠と烈翔の率いる軍が、ようやく城門を目前に捉えていた。
「あー、やっと帰れるぜ。ったく、賊の残党まで手こずらせやがって」
蹄が雪まじりの泥を踏む音が響く中、烈翔は肩をすくめながらそう言った。
賊の本拠地の制圧自体は迅速だったが、残党の討伐、周辺村の復興支援、アジトとされていた廃城の解体と、任務は山積みだった。
誠が城を発ってから、すでに半年。
ようやく、帰還の時を迎えていた。
(姫様は……お元気だろうか)
その問いが、幾度となく誠の胸をかすめていた。
一度だけ届いた蒼煌辰からの文――
彼らしい、必要最低限のひとことだけが記されていた。
『姫様は、体調は良くなられたようだ。健闘を祈る』
たったそれだけの文章を、何回読み返したのかもはやわからなかった。
「それにしても、間に合ってよかったよな。……なあ、誠」
「間に合う、とは…?」
「明日は大宴会だぞ。まあお偉いさんが多くて面倒なのは確かだが、うまい酒が飲める。お前も少しは付き合えよ?」
振り向いて笑う烈翔は、変わらず豪快で頼もしい。その笑顔を見て、誠も自然と口元を緩めた。
だが次の瞬間――
烈翔は馬を近づけ、小声でさらりと囁いた
「……それに、ここだけの話。明日の舞は、華蘭ではなく、伽耶が務めるらしい」
その言葉を聞き、誠ははっと目を見開いた。
「姫様……ご快復されたのですね。……本当に、よかった」
そう口にしながら、胸の奥に、ひとつ小さな棘のようなものが刺さるのを感じた。
自分がいない間に、伽耶の隣に誰かが立ち、
あの人が――笑っている。
ただそれを想像しただけで、どこか、置いていかれたような気がした。
広間に通された誠は、深く一礼し、膝をついた。
その前には、景仁。
そしてその傍らには、腕を組んで難しい顔をしている烈翔の姿があった。
一方の景仁は、どこか穏やかな笑みを浮かべながら、ゆっくりと口を開いた。
「よく戻ったな、陸誠。……無事で何よりだ」
そのまなざしは、久しく顔を見ていなかった子を前にした父のようでもあった。
「遠征は、過酷であったと聞く。賊の掃討から村々の整備まで……半年もの間、よくぞ務めてくれた」
「はっ…お褒めに預かり光栄でございます。」
誠は礼の姿勢を保ったまま凛とした声で答えた。
景仁はそれをみて満足気に頷いた。
「お前にはなにか褒美を取らせねばならんな。望むものはあるか?」
景仁の問いに、誠は握った拳にわずかに力をこめた。
ひとつ、息を吸い、そして――
静かに、しかしはっきりと顔を上げて言った。
「――姫様の、教育係に。
再び戻していただきたく、存じます」
烈翔はわずかに目を見開いたが、すぐに口元を綻ばせる。
景仁の視線が、ふっと揺れた。
「いいじゃねぇか、父上。あの賊どもは国境を越えて他国にも損害を与えてたんだろ?
今回の討伐で、他国に恩を売ったようなもんさ。誠がいなきゃ、まだ暴れてたはずだぜ」
ちらりと誠の方を見やりながら、烈翔は景仁へと語る。
まるで、誠の背をそっと押してくれるかのようだった。
誠は、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じていた。
「……そうだな」
景仁は静かに応じた。
「実際、誰も策を出せずにいた中で、それをやり遂げたのは陸誠だ。
お前には、望みを述べるだけの功がある。……そしてその願いを叶えることは、容易い」
肘をついていた手をそっと離し、景仁はゆっくりと立ち上がる。
そして誠のすぐ前まで歩み寄ると、膝をつき、まっすぐに誠を見据えた。
誠もまた、真正面からそのまなざしを受け止める。
「…わしは、もう五つの頃からあの子とお前を見てきた」
景仁の視線は、どこか遠くを眺めるようだった。
「お前が来る前の伽耶は、いつもどこか退屈そうな顔をしていた。情けないことだが、あの子にばかり構っていられなかったのだ。
あの子が、あんなにも楽しそうになったのは――お前のおかげなのだろう。
……感謝している」
誠は思わず目を見開き、慌てて深く頭を下げた。
「も、勿体無いお言葉でございます!」
しかし景仁は、静かに誠の肩へと手を置く。
その表情には、王ではなくひとりの父の、優しい微笑みが浮かんでいた。
「お前のことも、五つの頃から見てきたのだ。
……我が子のようなものだ。
――立派になったな、陸誠」
その言葉に、誠は息を呑む。
景仁の瞳は、どこまでもあたたかく、やさしい光を湛えていた。
だが、次の瞬間――
景仁はふと息を吐き、わずかに表情を曇らせた。
「……だからこそ、心配なのだ。
姫と家臣という立場が、いつかお前たち双方を――傷つけることになるだろう」
誠の瞳が揺れ、視線が地におちる。
脳裏に、あの夜、耳にした女官たちの声が蘇る。
『姫様と陸誠様――あれ、もう恋人じゃない?』
『この前なんて、あんなに顔近づけてさ〜……可愛いけど、本気だったらマズいよね?』
『だって姫様って縁談の話が……』
『陸誠様じゃ……その、家柄的に……ねぇ……?』
心の奥にずっと残っていた、その囁き。
それでもーーー
誠は意を決して景仁を見上げた。
「…それでも、わたしは姫様のおそばに在りたいのです」
その瞳は、まっすぐに景仁を見つめていた。
まるで、逃げも隠れもせぬ意志そのもののように。
景仁は、何かを言いかけた。
「…お前は…お前にとって伽耶は…」
絞り出すような声だった。
だが、途中でふと笑みを浮かべ、首を振る。
「…まあ、よい」
そう言って、ぽんぽんと誠の肩を軽く叩くと、景仁は立ち上がり、玉座へと戻って腰を下ろした。
「この一件は……少し考えさせてもらおう」
「父上!」
烈翔がすかさず声を上げるが、景仁は片手を上げて制した。
「お前たちも、長い任務で疲れているだろう。
明日は親睦の宴。賊を討ち、国境の平穏を守った立役者として――
当然、堂々と出席してもらうぞ?」
その口元には、わずかにいたずらっぽい笑みが浮かんでいた。
視線は、まっすぐ誠へと向けられる。
「では、明日。下がってよいぞ、陸誠」
「はっ…」
深く頭を下げた誠の耳に、不満げな烈翔のつぶやきが聞こえた。
だが――
伝えたいことは、伝えた。
あとはもう、景仁の言葉のとおり――
待つしか、ないのだろう。




