第二話 秘密の木陰 前編
翌朝。
陽の光がふりそそぐ廊下を、誠は一人、静かに歩いていた。
昨日の別れ際――
伽耶のそばに控えていた女官、芳蘭から告げられた言葉が、頭の中で何度も繰り返されていた。
「明日、お越しの折には――
臣下としての礼をつくすよう、陛下からのお言いつけです」
その一言が、胸の奥に、ずっしりと重く残っている。
昨日、帰ってから何度も頭に思い出した彼女の顔。くるくると表情が変わり、無邪気で、よく笑う――普通の少女のようだった。
けれど、やはりあの方は、“姫君”なのだ。
そう痛感するたびに、背筋が自然と伸びた。
姫君の書房――
その扉の前に立ったとき、昨日と同じ場所のはずなのに、なぜだか一段と、重厚な気配を感じた。
誠は、静かに息を吸い込むと、背筋を正し、拳を軽く握って――
トン、トン。
「――おはようございます。陸誠、参りました」
扉の向こうからは、すぐに、よく通る声が返ってくる。
「どうぞ」
それは、昨日と同じ、芳蘭の声だった。
扉を開いた誠は、机の前に立って待つ伽耶の前にひざまずき、頭を深く垂れた。
「本日より、どうぞよろしくお願いいたします」
静寂が一拍。
すると、次の瞬間――部屋に、楽しげな声が響いた。
「うむ、くるしゅうない! おもてをあげよ!」
……あまりにも堂々とした声に、芳蘭は思わずぴくりと眉を動かす。
「姫様! おふざけになってはなりません!」
芳蘭のきりりとした声が空気を引き締める。
けれど伽耶は、どこ吹く風といった様子で、つんと澄ました顔のまま答えた。
「えぇ〜? でも、烈翔お兄様はこうおっしゃっていたわ!
“おもてをあげよ、くるしゅうない”って!」
「……あれは、“殿下”だから許されるのでございます」
「わたしだって、“姫殿下”ですもの!」
ぴしっと背筋を伸ばしたまま主張するその顔には、どこか得意げな笑みが浮かんでいた。
誠は、伏せたままの顔をあげて――
(……あの、“くるしゅうない”は、言われるとこうなるのか……)
一瞬、口元がぴくりと動いたのを、どうにかこらえる。
それでも、どうしても――堪えきれずに、ふっと小さく笑ってしまった。
ちょうどその時、伽耶と目が合った。
彼の表情の変化に気づいたのか、伽耶はふふっと、うれしそうに笑った。
その笑みに、誠は胸の奥にあった緊張が、すっとほどけていくのを感じた。
すると、室内に咳払いがひとつ。
「――では、始めてくださいませ」
芳蘭のきりりとした声がふたりの空気を切り替え、ふたりはそろって、少しだけ背筋を伸ばした。
誠は書物の束を両手に持ち、静かに伽耶の机に近づくと、そっと、そのうちの一冊を机の上に置いた。
「昨日、女官より、姫様がこれまでご覧になっていた学習帳をお預かりいたしました。
本日は、その復習から参りたいと存じます」
「ふ、く、しゅう……?」
伽耶が眉をひそめると、誠はごくまじめな顔でうなずいた。
「はい。学びというものは、積み重ねが大切でございますので」
「…………」
(あ、あんまりたのしそうじゃないな……)
内心ではそう思いながらも、誠はもう一冊、横に置こうとしてーーふと、机の端に置かれた一冊の図鑑に目がとまった。
(……花の、図鑑?)
それは、昨日中庭で伽耶が話していた「お花がいっぱい咲いてるの!」という言葉を思い出させる表紙だった。
誠はちらりと、机の端に置かれた花の図鑑に目を留めた。しかし、それには触れず、表情を引き締め直す。
(まずは、計画通りに……)
「では、姫様。こちらの漢文の書き取りから参りましょう」
ぱらりと開いたのは、昨日預かった学習帳の一冊。
筆と墨が準備されているのを確認しながら、誠は丁寧に手本を書き始める。
「本日は、“春風”と“流水”の句を中心に練習いたします」
「はいっ!」
伽耶はめずらしく背筋をぴんと伸ばし、筆をしっかりと握りしめた。芳蘭も満足そうに頷く。
(ふふ、今日はちゃんと“がんばるわたし”を見てもらうのよ)
目をきらきらさせて筆を走らせはじめる伽耶。
誠も、その真剣な様子にすこし驚きつつ、穏やかに見守る。
しかし――
三文字目くらいで、筆先が微妙にゆれはじめ、
五文字目を越える頃には、腕をちょっとぐるぐる回し出す。
「……姫様?」
「ちょっとだけ、手がつかれただけよ」
八文字目では、あくびをかみころんで、十文字目に到達する頃には、伽耶の視線はもはや机の上の書の上からゆっくりと離れていく。
伽耶の視線の先を、誠もまた、そっと追った。
春の陽に照らされた庭と、その奥に揺れる花々。
(……気が散っている。いや、違う――)
筆を止めたまま、何かを見つめるような伽耶の横顔。そこには、“退屈”でも“我慢”でもない、
何かもっと、遠くを見ているような光があった。
誠は、口元にそっと手を添えて考え込む。
そして――
机の端に目をやると、そこにあった“花の図鑑”を静かに手に取った。
「……姫様」
静かに、けれどしっかりとした声で呼びかける。
「少し、外の空気に触れてみませんか」
その言葉に、伽耶の目がぱっと輝いた。
「えっ、いいのっ!?」
勢いよく立ち上がり、椅子がぎぃ、と音を立てる。
「姫様――」
咎めかけた芳蘭の声に、誠は静かに顔を向け、ほんの少しだけ、首を横に振った。
その表情に込められた“何か”に、芳蘭は小さくため息をつく。
「……どうぞ」
諦め半分、見守り半分。
けれど、その手のひらは、伽耶の背中をそっと押すように前を差した。
「ありがとう、芳蘭!」
伽耶はぱたぱたと小さな足音を立て、うれしそうに中庭へ飛び出していく。
誠も、花の図鑑を手に持ち、少しだけ笑みを浮かべながらそのあとを追った。
中庭に出た伽耶は、春の光を全身で受けながら、ぱあっと花がほころぶような笑顔で声をあげた。
「美しいでしょう?この花は“桃の花”よ。いまが見頃なの」
「桃の花……」
誠がそっと、手に持っていた花の図鑑を開く。
「それから、こっちは“迎春花”。あれは美しかったのだけれど、もう見頃は過ぎちゃったかな」
「こちら……ですね」
図鑑の挿絵と照らし合わせるように、誠がページを示す。
「そう、それよ!」
伽耶はぱっと指を伸ばして、にこっと笑う。
「桃って、こういう字を書くのね……」
漢字に目を落とし、口元で何度か繰り返すように呟く。
「こちらには……“桜”や“梨”は咲いていないのでしょうか?」
「桜はもうおわってしまったわ。梨は……咲くのはきっとお城の外ね」
誠は、伽耶の言葉に頷きながら、図鑑の桜と梨のページを開いた。
そして、そっと――その隣にあった詩のページを指先でなぞり、春風の句の一節を口にした。
「一枝先發苑中梅,櫻杏桃梨次第開」
(一枝先ず発く 苑中の梅
桜杏桃梨 次第に開く)
「……“いっし、まず ひらく、えんちゅうの うめ……”」
伽耶は目をぱちぱちとさせて、読み上げられた句と、今見ていた花々の名前、春風の句とを、そっと照らし合わせる。
「……“とう”と“なし”、いま言ってたお花の名前が……」
誠は、こほんと軽く咳払いをして、図鑑を膝にのせながら丁寧に説明した。
「“春風はまず、宮中の庭園に咲く梅を開き、
桜・杏・桃・梨の順に、次第に花を咲かせていく”という意味です」
そう告げたあと、誠は図鑑のページを一枚ずつめくっていく。
「こちらが梅。そして、桜、杏、桃……梨はこちらです」
ページをめくりながら、それぞれの花の挿絵と、書かれた漢字に指先を添えていく。
そのたびに指先が挿絵をなぞり、文字に触れていく。
伽耶はじっとその動きを見つめ――
「あっ、この漢字……!」と声をあげた。
「春風の句に出てきた文字だわ……!」
誠はやさしく微笑むと、言葉を続ける。
「はい。どれも“花の名”であると同時に、姫様が今、学ばれている“言葉”でもあるのです」
図鑑を閉じながら、誠は少しだけ視線を空に向ける。
「これは“春風の詩”ですが――
学びもまた、“花”と同じように、ひとつずつ、順を追って咲いていくのです。そして――」
そう誠が言葉を紡いだそのときだった。
ふわっ――と、強い春の風が吹いた。
桃の枝が揺れ、草花の香りがふたりの間をすり抜けていく。
伽耶の髪がふわりと舞い、誠の持つ図鑑のページが、ぱらぱらと音を立ててめくられた。
しかし誠は、伽耶の方をまっすぐに見つめ、静かに、けれど迷いなく言葉を重ねた。
「私もまた、姫様の学びにとっての“春風”となりたいと、強く感じております。
ーーー共に、学んでまいりましょう」
誠のその言葉に、伽耶は目を輝かせて、にこっと笑い――
「うん!」
その明るい返事に重なるようにして――
ガシャーンッ!!
鈍く大きな音が響いた。




