第二話 桜、遠く離れて
あれからさらに季節はめぐり、とうとう2人で迎える桜が5回目になり、伽耶と誠は10歳になっていた。
「これ、ここで合ってる?」
伽耶は筆を持ったまま首を傾げ、隣にいる誠に顔を向けた。
自然に近づく距離。肩が触れるか触れないかの微妙な距離感。
だが、伽耶はまったく気にしていないようだった。
「はい、素晴らしいです。特にこの“殿”の筆運びが見事です」
「ほんと?ふふっ、嬉しい!」
誠は伽耶の無邪気な笑顔に、思わず微笑み返した。
すると伽耶は、ふと何かを思いついたような顔をした。
誠は知っている――この顔をする時は、だいたい“何か企んでいる時”だ。
「ねえ、今日のわたし、頑張ってると思わない?」
「……そう、でございますね……?」
誠は反射的に身構えた。どんな“爆弾”が飛んでくるのか、思わず警戒してしまう。
「見て。今年も、桜がきれいに咲いてるの!ねえ、ちょっとだけ……見に行こう? ね?」
両手をパンッと合わせ、ぎゅっと目を閉じる伽耶。
その姿があまりにも愛らしくて、誠の口元がほんの少しだけ緩んだ。
(……本当に、変わらないおかただ)
「……では、少しだけ」
その言葉が返ってきた瞬間、まるで花が一斉に咲いたかのように、伽耶がぱっと笑顔になる。
「やったー! 早く行きましょ、今年も誠と桜が見られて嬉しいわ!」
そう言うや否や、伽耶は誠の手を取って駆け出した。
誠は少しだけ目を丸くしたが、結局、いつものようにその手をしっかりと握り返し――
ふたりは、春風のなかへ駆けていった。
そのふたりの後ろ姿を、芳蘭はどこか切なげな目で見送っていた。
そして誠は、その視線を、目の端でそっと捉えていた。
5歳の頃から変わらない2人――けれど、確かに変わってきたものもある。
舞の披露以降、彼女は変わった。毎日の稽古にも筆にも、以前よりずっと真剣に向き合うようになったのだ。
あの日、誠の「元気な舞ですね」の一言が、ずっと胸に残っている。彼にもっと綺麗な自分を見てほしい。
その一心だった。
しかし、それとは裏腹に――
ここ数ヶ月、伽耶の胸をふさぐ違和感があった。
それは、女官たちのささいな視線。
時折聞こえる、ひそひそとした話し声。
――そのどちらも、誠と一緒にいるときに、特に強く感じる気がした。
ふと目をやれば、そうした時の誠の表情も、どこか曇っている。
(なんだろう…?)
疑問は頭に浮かんだものの、なんだか口に出せるような空気感でもなく、伽耶は誰にもその違和感の正体を聞けずにいた。
そして、その日はやってきた。
ある朝。
「姫様……少し、よろしいですか?」
いつもより少し早く伽耶の部屋を訪れた芳蘭が、低い声でそう切り出した。
その目は、いつになく真剣で――少し、寂しげでもあった。
伽耶が「なにかあったの?」と問い返すと、芳蘭は一呼吸おいて、言った。
「本日より、姫様の指導の先生は変わることとなりました。」
風のない朝だったが、その瞬間、伽耶のまわりだけを冷たい風が吹き抜けたようだった。
「……どうして?」
声がうまく出ない。
唇がかすかに震えるのを、彼女は自覚していた。
「姫様も十歳になられました。
ご年齢に応じた新たなご学問の形へと――というのが、上のご判断でございます」
「新たな学問って……それなら誠に教えてもらえばいいだけでしょう!?
誠はなんでも知ってるのよ!」
珍しく声を荒げた伽耶だったが、芳蘭は少しも動じなかった。
「決定事項です。
それに――もう、陸誠様にお会いになることは叶いません」
その言葉を聞いた瞬間、伽耶は足元から力が抜けるような感覚に襲われた。
身体が、ずん、と重く沈んでいく。
「ど、どうして……?
別に、わたしが誰と会おうと……」
「――あなたは、この国の姫君なのです。
誰かひとりに心を寄せては、ならないお立場なのですよ」
その言葉が、伽耶の両肩に、静かに――けれど容赦なく、重くのしかかった。
伽耶は、口を開こうとした。
でも――声が、出なかった。
なにか言わなきゃ、と焦るのに、喉が痛いほどつまっていて、
なにひとつ、言葉にならなかった。
代わりに、小さく膝が揺れて、
そのまま、椅子に――ストン、と腰を下ろした。
力が抜けたように、腕がだらりと膝の上に落ちる。
伽耶の瞳は、まっすぐ前を向いているのに、どこも見ていなかった。
まるで、魂の抜けた人形のように、ただ――ぼうぜんと、座っていた。
芳蘭はそんな伽耶の姿をひと目見て、小さく息を吸い、しかし何も言えずに静かにその場を下がった。
部屋の戸が閉まる音が、遠く聞こえた。
けれど伽耶の耳には――
その音すら、届いていなかった。
コン、コン。
静かな部屋にノックの音が響いた。
「失礼いたします。季国学士院より参りました、柴林と申します」
戸が開かれ、入ってきたのは、伽耶の見たこともない中年の男だった。
誠よりもずっと年上で、落ち着いた口調で、分厚い本を持っている。
男は几帳面に書簡を並べ、難解な言葉をぽつぽつと口にし始めた。
けれど――伽耶には、何も入ってこなかった。
何を言っているのか、何を説明されているのか。
文字も、言葉も、耳をすり抜けていく。
ただ座っているだけで、頭はぼんやりと霞んだままだった。
気づけば、その男の姿もなく――
いつのまにか日が落ち、部屋には夜の気配が漂っていた。
いつもなら、一緒に笑い合っていたあの時間。
机に並んで、筆をとっていたはずのあの時間。
今日は、ただ――静かに終わっただけだった。
その同じ夜。
誠は、自室の机にじっと座り続けていた。
灯された灯籠の明かりが、静かに彼の横顔を照らしている。
筆は握ったまま動かず、目は一点を見つめていた。
(……もう、姫様のそばには行くな)
昼下がりの書房で言い渡された、芳蘭の冷たい言葉が、まだ耳の奥で反響している。
(姫様はもう十歳です。あなたの役目は、もう果たされたのです)
「果たされた」
その言葉の意味が、胸にじわじわと染みていく。
『姫様と陸誠様――あれ、もう恋人じゃない?』
『この前なんて、あんなに顔近づけてさ〜可愛いけど、あれ本気だったらマズいよね?』
『だって姫様って縁談の話が……』
『陸誠様じゃ……その、家柄的に……ねぇ……?』
偶然聞いてしまった女官たちの噂話。
軍部では、もっと直接的に揶揄われることもあった。
自分でも、伽耶と距離が近すぎることはわかっていた。
それでも、伽耶が望むならと、そばにいることを選んできた。
(……それすら、もう許されないというのなら)
握った拳が、小さく震えていた。
机の上の栞に目を落とす。
小さな桜の押し花が、ふるえる灯火に照らされていた。
(――おそばにいたかったのに)
外では雨が降り始めたのか、雨が葉を濡らす音が響いてきた。
誠は、雨に濡れる桜を、ただ静かに見つめていた。




