第一話 小さな決意
2人が出会って4回目の桜が咲く頃。
伽耶と誠は中庭の長椅子に腰を下ろしていた。
伽耶は、どこか辛そうな表情で、出会った頃と比べると長く伸びた足を両手で揉んでいる。
「うー……両足がいたい……」
隣に座った少年・誠は、膝に本を乗せたまま、その様子を少し心配そうに見つめていた。
「ご披露は一週間後に迫りましたね。順調に進んでおられるのですか?」
「全然だめ。舞って本当に難しいの。先生の言ってることがちっともわからないんだから!」
伽耶は頬をふくらませて、腕を組んだ。
「もっとしなやかに、美しく。その調子では“アヒルの体操”と言われてしまいますよ!ですって!」
口を尖らせる伽耶の横顔が可愛らしくて、誠の口元には思わず笑みが浮かんでしまう。
「――ちょっと見ててくれる?」
伽耶はぱっと立ち上がると、草の上にそっと片足を引いて構えた。
誠が驚いて本を閉じるよりも早く、ふわりと袖が風に揺れる。
舞曲の旋律は、伽耶の頭の中にだけ流れていた。
彼女はその調べに合わせて、懸命に体を動かす。
手の角度、足の運び――どこかぎこちないが、ひたむきで、まっすぐだった。
ひとしきり舞い終えると、伽耶は少しだけ息を切らして振り返った。
「……どう? 今の。少しは綺麗に見えた?」
誠は一拍おいてから、静かに首をかしげた。
「……元気な、舞ですね」
「……へ?」
「いえ、つまり――とても生き生きしていて……その、元気に満ちていて、印象深く……」
「元気は褒め言葉じゃないわよ!もう!」
誠の曖昧な言葉に、伽耶はぷくーっと頬をふくらませる。
「……いいもん、絶対に綺麗って言わせてみせるんだから! 本番では、誰よりも綺麗に、しなやかに舞ってみせるんだから!」
その目には、悔しさの奥にある炎が静かに灯っていた。
誠は口をつぐみ、その小さな決意を胸に刻むように、そっと頷いた。
「もう、今日はこれから猛特訓する!」
伽耶は椅子から飛び出すと、そのまま駆けていく。
誠はその背中を見送りながら、小さくつぶやいた。
「……姫様は、やはりすごいお方だ」
それから、時は流れて一週間が経った。
いつもは厳かな会議が行われるこの広間も、今日は宴のために色とりどりの飾り付けが施されていた。
近隣の同盟国を招いた親睦会。伽耶は、そこで生まれて初めて“舞”を披露することになっていた。
伽耶は、ふんわりとした薄桃色と白の衣に身を包み――真っ青な顔をしていた。
「だめ……わたし、踊れる気がしない……」
「大丈夫です、姫様。あれほど練習していたではありませんか……」
何度目か分からない呟きに、誠もまた何度目か分からない言葉で応じる。
そこへ、控室の戸が開き、華蘭がひょいと顔をのぞかせた。
「あら〜、真っ青じゃない! 大丈夫、大丈夫、始まっちゃえばすぐよ!」
そう言って伽耶の手を握った華蘭は、その冷たさに驚いて目を見開いた。
「でも、お姉様……! 結局、先生からの評価は“アヒルのお散歩がいいところ”って言われたのですよ……!」
伽耶は涙目で華蘭を見上げる。その姿に、華蘭は思わず吹き出した。
「大丈夫よ。あの先生、すっごく厳しいんだから。私なんて、初めての舞披露の前の最後の評価――“タコの日向ぼっこ”だったわ!」
アヒルのお散歩とタコの日向ぼっこ。
どちらが“上”なのか分からず、誠は吹き出しそうになり、咳払いで誤魔化した。
そこへ、文官が足音も静かに控室へ現れ、恭しく頭を下げた。
「姫様、そろそろ――お時間にございます」
伽耶はひゅっと小さく息を呑み、瞬きも忘れたように固まった。
だが――やがて、ゆっくりと立ち上がり、扉の方へと歩き出す。
「姫様、私も舞台袖より見守っております故……」
すぐ後ろからの誠の声に、伽耶はぎこちなく振り返った。
「……ありがとう。いってくるね」
声はかすれ気味で、顔色も青ざめていた。今にも吐いてしまうのでは、と誠が思うほどに。
けれど、伽耶の足は、しっかりと広間の方へ向かっていた。
⸻
「それでは本日は、同盟国の繁栄と友好を願い――」
「我が季国が誇る末姫、伽耶様より、舞をご披露いただきます」
筆頭侍官の朗々とした声が広間に響く。
ざわ……と、場が静まり、次第に観客たちの視線が、舞台の中央へと集まっていく。
伽耶がその場に一歩踏み出したとき――
彼女の足は、まるで地に根を張ったかのように止まった。
(あっ……)
あまりの視線の圧に、呼吸の仕方すら忘れそうになる。
目に映るのは、重臣たちの厳格な顔、近隣の王族たちの鋭い眼差し――そして、舞台袖の奥、誠の姿。
――伽耶は、そっと目を閉じた。
――今日の自分は、昨日までの自分の積み重ね。
あの書棚の本を、誠は一年で読み終えたと言っていた。
誠だって、がんばってきた。
だから、あんなふうにまっすぐで、優しくて、誇らしくて――
(わたしだって……)
大丈夫。
わたし、この日のために、ちゃんとがんばってきた。
伽耶が静かに目を開いたその瞬間――
音楽が、流れ始めた。
すると不思議なことに、それまで氷のように固まっていた身体が、すうっとほどけるように動き出す。
足先、指先――すべてが、音に導かれるままに流れていく。
先ほどまで突き刺さるように感じていた重臣たちの視線も、他国の王族の目も、もう何も怖くなかった。
ただひたすら、音楽に身を委ねるのみ――
舞の終わりを告げる音が広間に満ちると同時に、伽耶の動きも止まった。
数秒の静寂のあと、ぱち、ぱち、と手が叩かれる音が広がっていく。
――割れんばかり、とはいかない。
けれどその拍手は、確かに伽耶の胸に届いた。
(やった……わたし、ちゃんと踊れた……!)
伽耶がそっと肩を落としたその横顔は、涙をこらえるように微かに揺れていた。
袖には、誠が待っていた。
「どうだった?!」
小走りに駆け寄った伽耶に、誠はにっこりと微笑む。
「ええ、とても丁寧で、練習の成果がよく出ていて、良かったと思います」
その言葉に、伽耶はふっと笑った。
(――“美しかった”って、言ってくれると思ったのに)
でも、すぐにその想いを胸の奥にしまい込み、小さく息を吐く。
(……まあ、元気な舞よりは、ずっといいかも)
伽耶は誠にもう一度笑いかけると、そのまま並んで控えの間へと歩き出した。
控室に戻ってしばらくすると、外の廊下が急に騒がしくなった。
どうやら、宴が一区切りついたようだった。
そのとき――戸が勢いよく開き、華蘭が風のように飛び込んでくる。
「伽耶〜っ!すっごく良かったじゃない! 頑張ったわね!」
そのままぎゅうっと抱きしめられ、伽耶は思わず笑い声をこぼす。
「華蘭姉様……ありがとうございます」
「おうおう、これが俺の妹かって、びっくりしたもんな! なぁ、総雅!」
烈翔の言葉に続くように、総雅も静かに頷いた。
「……うむ。立派だったぞ、伽耶」
華蘭の手が頭をくしゃくしゃと撫で、烈翔が背中をどん、と叩き、総雅が少し離れた場所からふっと笑う。
兄姉に囲まれながら、伽耶は思わず両手で頬を押さえた。
(夢みたい――こんなふうに、みんなに褒めてもらえるなんて)
そのときだった。
「……ほう。おまえたちがここにいたか」
低く、落ち着いた声とともに、控室の戸が再び静かに開いた。
現れたのは、伽耶の父・季景仁。
伽耶がはっと立ち上がると、景仁はゆっくりと伽耶に歩み寄り――
「美しい舞だった」
ただ一言、静かに、けれど深く伝えるように告げた。
伽耶は胸いっぱいに嬉しさを感じながらも、どこか少しだけ、心の奥にぽつんと残る影に気づいていた。
――やっぱり、誠にも……言ってほしかったな。
“美しい舞だった”って。
そんな思いを胸に秘めたまま、伽耶は誠のいる方へ目をやった。
けれど誠は、静かに控えの位置から伽耶を見守っているだけで、特に言葉を交わすこともなかった。
(……ううん、いいの。まだ、まだまだ、がんばるんだから)
自分の胸に小さくそう言い聞かせると、伽耶はそっと背筋を伸ばした。
その小さな決意を、誰も知らないまま――
夜の宴は、やがて静かに幕を下ろしていった。




