第十八話 もう、涙は止めない
烈翔への報告。
王位継承権を放棄すること。
結婚後は村へ戻ること。
そのすべてを両家に伝えた日から、日々は怒涛のように過ぎていった。
朝に文官から受けた説明の内容が、昼には書類として積み上がる。それにひたすら署名を記していく。
気づけば日が暮れ、夜半まで灯りを絶やさず筆を走らせる日も続いた。
そんな中で、両家の食事会の準備も進められた。
未だ紫国に狙われかねない身でもある伽耶のため、盛大な婚礼は避け、結婚の報せも、城外には伏せられることとなったのだ。
両家の者たちが内密に集まり、ささやかな食事の席を設けた日。
会の初めから、何度も袖で目を拭いながら伽耶の姿を見つめていた烈翔は、最後には盛大に泣いた。
そして——
とうとう、村へ戻る朝がやって来たのだった。
「こら、おこめ。危ないですよ」
馬車の前。
誠は足元をちょろちょろと駆け回るおこめを尻目に、荷を丁寧に縛り直していた。
「ぬかりはありませんね?」
声をかけたのは翠だった。その背後には奎の姿もある。
誠は振り返り、小さく頷く。
「はい。……このたびは、本当にお世話になりました。なんと礼を申し上げればよいか……」
「良いのですよ」
翠はふんわりと微笑みながら続けた。
「あなたが元気で……自分の人生を共に歩んでくれる方を見つけた。母としては、それが何より嬉しいのですから」
誠は目を伏せ、深く礼をした。
その時だった。
「誠! おかあさま!」
離れから駆けてきた伽耶が、小さく手を振った。
その背後には、どこか誇らしげな顔の芳蘭が控えていた。
『わたくしが、伽耶様に――嫁入り前最後の教えをいたします!』
そう宣言して陸家を訪れた芳蘭に、伽耶はやや戸惑いつつも二人で時間を過ごした。
誠はその様子を、心配半分・興味半分で見守っていたのだった。
「おはようございます、おかあさま! それに……」
にこやかに翠へ挨拶をした伽耶だったが、誠と目が合うと——
途端に頬が赤く染まり、そっと目を逸らす。
「……お、おはよう。誠」
「おはようございます、伽耶様……?」
誠は首をかしげた。
(……なにを教えられたのでしょうか。ま、まさか……いえ、芳蘭殿なら……いや、それはそれで……)
誠が少し困惑していると——
「伽耶様がお嫁に行かれる前に、わたくしがお教えできて幸せでした。……もう、思い残すことはありませんよ!」
「まあ……芳蘭さんったら」
芳蘭が達成感に満ちた声を上げると、翠は思わず吹き出した。
伽耶は耳まで赤くしたまま、小さく俯いた。
「伽耶!」
割って入った声に、二人が顔を上げると、そこには総雅、焉明、そして煌辰の姿があった。
総雅は伽耶を見つけるなり、勢いのまま抱きしめた。
胸がぎゅう、と圧されて、伽耶は小さく息をのむ。
その気配に気づいた誠が、慌てて身を乗り出した。
「本当に嫁に行くのか?伽耶。まだ……今ならまだ……」
「往生際が悪いですぞ、総雅様。失礼ながらもう随分と前から勝敗は決しておったのですから」
焉明が飄々とした声で言うと、総雅は「な、なにを言うか焉明!」とムキになり、伽耶を覗き込む。
「なあ伽耶?そんなことないな?嫁になど行かないな?」
総雅がようやく腕を緩めると、伽耶はにこりと微笑んで顔を上げた。
「わたし、幸せです、お兄様。こうして誠と出立できることが」
総雅は、ガン、と何かに殴られたような顔をして固まった。
ぎぎぎ……とぎこちなく首を回し、今度は誠を睨みつける。
「おまえ……幸せにしなかったら……許さないからな……」
「……必ず、幸せにいたします」
誠が深く頭を下げると、総雅は鼻を啜った。
「おい……ほんとによかったなぁ……」
震える声に誠がそっと顔を上げると、鼻を真っ赤にしぐずぐずしながら肩を揺らしている煌辰の姿があった。
誠は一瞬目を見開いたが、すぐに懐から手拭いを取り出して差し出す。
「陛下も来たがってたよ……でも伽耶姫ちゃんが危ないって止められてさ……伝言もあってさ」
「伝言?」
「『伽耶を泣かせたら、打首』だそうです」
(泣かせることなどありませんが……それは……冗談、ですよね? 陛下?)
ふふっと笑う伽耶の横で、誠は思わず首筋をさすった。
その時――
「さあ! 伽耶様! 陸誠様! いつまでのんびりなさってますか! 御出立の時間ですよ!」
芳蘭の一声に、空気がしゃんと引き締まる。
伽耶と誠は顔を見合わせ、並んで深く礼をした。
「本当にお世話になりました。皆様のおかげで、ここまで来ることができました」
誠の声に、ぐすりと鼻を啜る音が重なる。
顔を上げた伽耶と誠は、目を合わせ……思わず微笑み合った。
「では、参りましょう。伽耶様」
誠が先に馬車に乗り込み、おこめもその後にぴょんと跳ねて飛び乗る。
差し出された手に、伽耶はそっと自分の手を重ねた。
「……ええ」
伽耶は乗り込む前に、そっと振り返った。
目が合った総雅は涙をこらえきれず、焉明はいつもの調子で微笑んでいる。
蒼煌辰は袖で涙を拭い、目を赤くした芳蘭は、同じく目を赤くした翠に肩を支えられながらも、まっすぐ伽耶を見つめていた。
その隣では、奎が静かに頷いていた。
伽耶は、胸の奥にふわりと温かなものが広がっていくのを感じた。
(……わたし、幸せ者ね)
その時、ひゅうっと風が吹いた。
伽耶の髪がなびき、頬を撫でる。
(……この匂い)
ふと懐かしい記憶が胸に蘇り、伽耶は空を仰いだ。
雲ひとつない、どこまでも青く澄んだ空。
まるでその青が、これから旅立つふたりと一匹を、優しく見送ってくれているかのようだった。
「……いってまいります」
伽耶の声は、風に溶けてかき消えた。
けれど——
どこからか、確かに「いってらっしゃい」と、
声が返ってきたような気がした。
馬車は、静かにその車輪を回し始めた。
伽耶は紫国に狙われかねない身。
かつての華蘭のように、華々しく城を発つことはできない。
あくまで旅の一座として、ひっそりと都を出るーー
それが、今回の出立だった。
(この景色も……もう、最後かもしれないわね)
がたがたと揺れる馬車の小窓から、伽耶はそっと外を眺めていた。
その肩を、誠が優しく抱く。
二人して、流れる街の景色を見つめていた。
その時。
ひらり――
紅の花びらが、小窓から舞い込んできた。
「……花びら?」
思わず伽耶が呟く。
小窓から顔を寄せて外を見ると、空にいくつもの花びらが舞っていた。
街の店先や、家々の軒から。
人々が、静かに、ひとひらずつ。
祝福を込めるように、馬車に向かって花びらを投げていた。
「……これは……?」
伽耶が声を落とすと、誠が小さく答えた。
「……出立のことが、漏れていたのでしょう。
伽耶様は、民の英雄です。皆、たとえ禁じられていても……お祝いしたかったのでしょう」
誠の手に、ぐっと力がこもる。
伽耶の肩が、少しだけ揺れた。
伽耶の脳裏に、あの記憶がよぎる。
以前、都を離れたあの日。
ひとり、罪人のように馬車へ乗り込み、誰にも見送られることなく、城を後にした。
王族の立場を捨て、自分の信じる道を選んだ。
後悔は、なかった。
けれど。
――今。
こうして、見送ってくれる人たちがいる。
見えない想いが、紅の花びらとなって、空を満たしている。
ぽろり、と伽耶の目から涙がこぼれ落ちた。
けれど、もうそれを止めようとはしなかった。
誠が、静かにその手を握っていた。




