第十四話 空は青く高く
翌朝。
その日、陸家の門前には馬車と数台の荷車が並び、女官たちが次々と荷を運び込んでいた。
まだ朝の静けさが残る中、せわしないその光景だけが、妙に浮き立って見えた。
「まさか……例の噂、本当だったのか?」
「本当なら、一目でいいから拝みたい……」
通りを行く人々が少し離れた場所から中をのぞき込み、時折、兵に追い払われていた。
離れの一室。
差し込む陽の光の中、伽耶は鏡台の前で、何度も何度も櫛を髪に通していた。
その表情は、どこかこわばっている。
背後には、誠の姿があった。
「伽耶様、まだお目覚めになったばかりです。……やはり、無理はなさらぬほうが」
心配そうな声が投げかけられるが、伽耶は手を止めない。
「大丈夫よ。……いずれ登らなければならない山だもの。怖くないといえば嘘だけれど、いつまでも逃げてはいられないわ」
何かを言いたげに、誠は一瞬だけ口を開きかけた。
だが、すぐにふうっと息を吐く。
「昔から、伽耶様は一度決めたら聞きませんからね……。ですが、わたしが、どんな時も、必ずお守りします」
伽耶は櫛をそっと置き、鏡越しに振り返るようにして微笑んだ。
「ありがとう、誠」
トン、トン。
軽やかなノックの音が、静かな部屋に響いた。
静かに開いた扉の先にいたのはーー芳蘭だった。
あの旅立ちの朝、別れたときよりも、髪にはいくつか白いものが混じり、輪郭もやや丸みを帯びていた。
けれど、すっと伸びた背筋、静かに跪き深く頭を垂れる所作は、伽耶の記憶にある芳蘭そのものだった。
「お久しゅうございます、姫様。この芳蘭、再びお仕えできること、何よりの喜びにございます。……どうか、お支度をさせてくださいませ」
「……再び会えて、嬉しいわ。お願いするわね、芳蘭」
伽耶がそっと微笑むと、顔を上げた芳蘭もまた、懐かしい笑みをたたえていた。
その目には、ほんのわずかに、涙の光が滲んでいた。
やがて、再びノックの音が響き、女官たちがさまざまな道具を持って入室してきた。
「……更にお綺麗になられましたね、姫様」
芳蘭は化粧水を指にとり、優しく伽耶の頬へと塗り広げながら微笑みかけた。
「そうかしら。わたし、城にいた頃に比べたら日にも焼けたし、太ったわ。……あなたには、怒られるだろうなって、いつも思っていたのよ」
自嘲気味に笑った伽耶に、芳蘭は静かに首を振った。
「いいえ。あの頃の姫様より、ずっと、お綺麗です」
ちらりと、芳蘭の視線が鏡越しに部屋の隅を見やる。
そこには、慌ただしく動く女官たちの向こうに気まずげに目を逸らしつつ、おこめとともにじっと座っている誠の姿。
芳蘭は、あたたかな微笑を浮かべた。
村で日に焼けた肌に、白粉がはたかれ、頬に紅がさされる。
筆が眉を描き、目元に色が入る。
翠から借りていた素朴な衣を脱ぎ、
鮮やかな紅の重衣に袖を通すと、
芳蘭の手によって、丁寧に髪が結い上げられていく。
鏡の中の自分が、少しずつ “あの頃” に戻っていく。
伽耶の胸に、言いようのない不安がじわじわと広がっていく。
(……怖い。城に戻ったら、また…… 閉じ込められてしまうのでは……)
胸の奥が、かすかに軋んだ。
肩を震わせそうになる自分を、伽耶は必死に抑えた。
最後に口紅を引かれたとき――
鏡の中には、確かに、“あの頃”の姫の姿があった。しゃん、と髪飾りの音が鳴る。
「……お綺麗ですわ、姫様」
芳蘭が肩に手を添え、周りの女官たちを気にしながら、耳元にそっと口を寄せた。
「愛されている女性のお顔をされています。……あの頃より、ずっとお綺麗ですよ」
その言葉に、伽耶ははっと息を呑む。
(……そう、わたしは……もう"あの頃のわたし"ではない)
くるりと、伽耶が振り返る。
その視線の先には、おこめを抱く誠の姿があった。
誠は、伽耶を前にすると、息を呑み、口を開きかけてはためらう。
——言葉にしてしまえば、この胸の熱が抑えられなくなる気がして。
一拍、静寂が落ちた。
「……お美しいです、伽耶様」
伽耶はふっと微笑むと、手を伸ばし、そっとおこめの頭を撫でる。
「…… 行きましょう、誠」
一瞬だけ、誠の喉がかすかに震えた。
伽耶の手に、誠の手が重なる。
「……はい。決して、あなたのお側を離れません」
静かに、けれど力強く頷いた誠の言葉に、
伽耶は目を伏せ、微笑み返した。
離れの扉を開けた瞬間、陽光を浴びて白馬がひときわ眩しく鼻を鳴らした。
伽耶は、思わず目を見開いた。
「……桜華……!」
懐かしいその名を呼ぶと、馬は嬉しそうに鼻先を伸ばしてくる。
翡 陽珀から贈られ、毎朝世話をし、ともに出かけた馬——
巫児村には連れてゆけず、泣く泣く置いてきた大切な友だった。
「元気にしてたのね……心配していたのよ」
伽耶はそっと顔を寄せ、頬を馬の首筋に当てた。
その白くなめらかな毛並みの感触が、胸の奥に眠っていた何かを呼び起こす。
(……わたし、本当に帰ってきたのね)
傍らでは誠が、目を細めてその様子を見守っていた。
「師より指示がありました。馬車ではなく、馬で登城するようにと」
そう言って、誠は手綱を差し出す。
「……民の前を、通ります。お姿を、お見せしたいとのことです」
伽耶は桜華のたてがみに指を埋めながら、ふっと瞳を伏せた。
(――“姫”として戻るということなのね)
けれどその胸に湧き上がるのは、恐れではなかった。
もう、自分には“隣にいる人”がいる。
ゆっくりと顔を上げ、伽耶は誠へと手を伸ばした。
「……ありがとう。よろしくね、誠」
誠は、すぐにその手を包む。
「はい。必ず、お守りします」
ふと吹いた春風が、二人の髪をゆらした。
兵に囲まれて進む城への道のりは、伽耶の想像を遥かに超えていた。
せいぜい、通りすがりに数人が振り返る程度だろう。
そう、考えていたのだ。
けれど——
街道には、あふれんばかりの人々が立ち並び、皆が一様に伽耶の名を呼んでいた。
中には、手を振りながら涙をぬぐう者の姿すらある。
伽耶は驚きに目を見開きながらも、すぐに背筋を伸ばし、馬上から穏やかに笑みを浮かべて手を振った。
“姫”として、最後に逃げるように通ったこの道は、あの日とは——何もかもが、違っていた。
ようやく坂道を登り切り、城門前の広場へと入ったとき、兵の号令とともに隊列がぴたりと止まる。
「ここで、開門を待ちます。……少し疲れましたか?休まれますか?」
誠が控えめに声をかけると、伽耶は小さく首を振った。
「いいえ、大丈夫。……桜華がとてもお利口だったから」
そう言って桜華の首筋に手を添えると、白馬は嬉しそうに鼻を鳴らした。
その時。
ひゅう、と風が吹く。
強く吹きつけた風に思わず目を閉じる。
けれど、そっと瞼を開くと——
視界が、色とりどりのなにかにひらりと覆われる。
「……なにかしら。花びら……?」
伽耶が開いた手のひらに、そっと紅の花びらが舞い降りた。
横で手綱を引いていた誠も、きょろ、と周囲を見渡した。
城門脇の石畳の上に、いくつもの、沢山の花束が、まるで小山のように積み上げられている。
それは、ただの装飾ではなく——綺麗に整えられた花束から、野の花、庭先で摘まれたような素朴な花々まで。
ひとつひとつが、誰かの手で置かれたことがわかる、温かな贈り物だった。
「……こんなにたくさん……何か祭礼の予定があったでしょうか……?」
「どうかしら。……でも、綺麗ね……」
伽耶は、思わず微笑む。
かつて幾度となく目にしてきたはずの城門前の広場。
けれど、あの頃とは——どこか、違う。
そう思った瞬間、不意に胸の奥がじんわりと熱を帯びた。
空はどこまでも青く、高かった。
春の風がひとひら、伽耶の髪を撫でていった。




