天国のりんご
その日、巫児村には、朝からしんしんと雪が降っていた。
白く染まった屋根の上に、柔らかな雪が静かに積もり続けている。
伽耶は、寝台の中で小さく伸びをすると、身じろぎしながら上体を起こした。
「……さむい」
火鉢の火はとっくに消えてしまっていたらしく、部屋の空気はすっかり冷え切っていた。
肩をすくめ、震える身体を布団に包み直しながら、ふと隣へと視線を向ける。
――いつもなら、目を覚ました頃には、もう畳まれているはずの布団。
けれど今日は、まだそのままそこにあった。
(……あれ?珍しいこともあるのね)
首を傾げながら、伽耶はそっと布団を抜け出す。
隣の布団の端をめくると、そこには――
眉を寄せ、苦しげに眠る誠の姿があった。
(様子がおかしいわ……!)
慌てて膝をつき、彼の額に手を伸ばす。
触れた瞬間、その熱さに、思わず目を見開いた。
(熱い……!)
額にはびっしょりと汗が滲み、息もどこか荒い。
明らかに、高い熱が出ている。
(ど、どうしよう……!どうすればいいの……!?)
伽耶は姫として育ち、家族とも離れて暮らしてきた。
病人の看病など、これまで一度もしたことがない。
戸惑う彼女の耳に、小さな声が届いた。
「……ひめさま……」
かすれた声。
その響きに、伽耶の肩がぴくりと揺れる。
「せ、誠!大丈夫なの?ひどい熱よ!」
「……だいじょうぶです。薬さえ飲めば、なんとかなります。それより……いまご朝食を……」
誠は、ゆっくりと身体を起こそうとする。
けれど、伽耶は慌てて両手でその肩を押し、布団へと戻した。
「だ、だめよ!寝ていないと!」
「ですが……」
「駄目ったら駄目!命令よ!布団から出てはいけません!」
そう言って、ずり落ちかけていた掛け布団を肩まで引き上げると――
誠は小さく笑って、そっと目を閉じた。
「……それは、ずるいです。……ひめさま……」
その言葉に、伽耶はきゅっと唇を結ぶ。
そして、そっと立ち上がり、布団の脇にしゃがんで様子を見守る。
(あの誠が、あんなふうに“ひめさま”って呼ぶなんて……この村にきてから、絶対に呼ばないように気をつけてたのに……よほど具合が悪いんだわ……!)
そう思った瞬間、伽耶の胸に小さな決意が宿った。
(わたしが、がんばらないと……!)
冷えた部屋の中。
伽耶の瞳に、そっと小さな炎が灯っていた。
それから。
伽耶は慣れぬ手つきで、囲炉裏の火をおこし、寝室の火鉢へと移す。
竈門にも火を入れ、米をとぎ、鍋に水を張って火にかけ――
薬湯を作り、水差しと杯の用意も整えた。
巫児村に来てから、すでに日が経っているとはいえ、これまで朝の支度すべてを、ひとりでこなしたことはなかった。
火の粉に驚いて悲鳴をあげたり、水鉢をこぼして足元を濡らしたりしながら――
それでもどうにか、粥が炊きあがった頃。
伽耶の頬には煤がつき、服の裾もすっかり汚れていた。
薬を棚から下ろすときに浴びた粉も、髪にまだ少し残っている。
(でも……なんとか、できた!)
ほっと息をついて、粥の湯気に目を細めながら、伽耶はそっと寝室の方へと目をやる。
(……誠に、食べさせなきゃ……!)
その眼差しには、疲れを忘れるほどの、まっすぐな決意が宿っていた。
寝室は、火鉢の火のおかげか、ずいぶんと暖まっていた。
伽耶はそろそろと誠の布団の横へ歩み寄り、
そっと盆を置く。
(よく寝てる……)
朝よりも少し穏やかになったその寝顔に、ふふっと小さく笑みを浮かべた。
そして薬湯を手に取る――が、手が止まる。
(あれ……?こういうときって、起こしてまで飲ませるのかしら……?それとも、寝かせておいた方がいいの……?)
なにしろ、看病なんて初めてだ。
伽耶は頭を抱え、記憶を探る。
(たしかわたしが肺炎で倒れたときは……無理やり口に流し込まれてた気がする……!)
正確には、意識が朦朧とする中で、芳蘭が半身を抱き起こし、薬を飲ませてくれていたのだが、伽耶にとっては“流し込まれた”記憶しか残っていない。
(……じゃあ、わたしも……)
覚悟を決め、匙で薬湯をすくって誠の口元へ。
――しかし、口の端から、とろりと溢れてしまった。
「あっ……!」
慌てて拭こうとしたが、布巾の用意などしていない。
「ど、どうしてこうなるの……」
袖口でぺたぺたと拭きながら、うるうると目を滲ませたそのときだった。
「……伽耶様……?……どう、されたんですか……」
うっすらと誠の瞼が開く。
(こんなときにまで、わたしの心配を……)
伽耶は涙を見せまいと、さっと袖で目元を拭った。
「わたしは大丈夫よ。……誠こそ、平気?
お粥と薬湯、作ったから飲んでほしいの」
その声に応えるように、誠はゆっくりと身体を起こす。
「……大変だったでしょう……ありがとうございます……」
まだ少しぼんやりしているものの、座ることはできそうだった。
(ええと……たしか、芳蘭はこうしてたわ……)
伽耶はお粥を匙ですくい、ふーっと息を吹きかけて冷ます。
そして、それをそっと誠の口元へ運んだ。
「……ここは、天国でしょうか……」
「な、なに言ってるのよ、もう……」
熱と寝起きのせいか、いつもよりぽやっとした誠は、素直に口を開けて、お粥を受け取る。
もぐもぐ、ごくん。
「……とても、美味です」
かすかに笑みを浮かべるその顔が、
あまりにも優しくて、無防備で――
伽耶は、思わず胸元をぎゅっと押さえた。
(だ、だめよ……病人にこんなこと思っちゃ……!だけど……だけど……!)
ちら、と誠に目をやると、
熱のせいか、少しぽやんとした顔でこちらを見つめていた。
(……可愛いっ……!!!)
「うぅ……っ」
伽耶は小さく呻いて目を逸らす。
「……伽耶様……?」
「はっ……!」
慌てて咳払いをひとつ。
気を取り直して、なんとか笑顔を作る。
「……さ、つぎよ。もう一口、あーんして?」
ふーっと息を吹きかけ、匙にのせたお粥が、そっと誠の口元に差し出された。
そうして――
粥と薬湯が、きれいに空になった。
誠は再び布団へ横になる。
「ちゃんと寝てないと、だめよ?」
伽耶がやさしく微笑みながら声をかける。
盆を手に立ち上がると、食事と水分をとったおかげか、誠の顔にもいくぶん血の気が戻っていた。
再び襲いかかってくる眠気に、誠はうとうとと瞼を揺らす。
そのまどろみの中――ふと、幼い日の記憶が浮かんだ。
***
あれは、仕え始めてまもない頃。
やはり雪の降る、寒い日のことだった。
いつものように宮を訪れた誠が、いつものように伽耶へ挨拶をした。
けれど――その日は、返事がなかった。
不思議に思って顔を上げたそのとき、頬を紅く染め、ぼうっとした表情の伽耶が、ふらりと倒れ込んできたのだ。
『伽耶様!体調が悪いのでしたら、おっしゃってくださいまし!』
慌てる誠の隣で、芳蘭が語気を強める。
すると伽耶は、唇をとがらせて、むすっと言ったのだ。
『だって、お熱があるって言ったら、誠に会えなくなるもん……』
***
(……あのときの姫様は、本当に可愛らしかったですね……)
ふ、と笑みを浮かべながら――
誠はそのまま、ゆるやかに、深い眠りへと身を委ねた。
誠はゆっくりと瞼を開いた。
あたりは薄暗く、行燈には火が入っている。
(かなり深く眠って……伽耶様は……?)
身体を起こしながら周囲を見回す。
朝の薬湯が効いたのか、頭はすっきりとしていた。
そのとき、控えめに戸の開く音がした。
「誠!目が覚めたのね。ちょうどよかったわ」
伽耶がにこにこと笑みを浮かべながら、盆を手に布団のそばへやってくる。
湯気の立つお粥と薬湯、そして皮を剥いたりんごが丁寧に並べられていた。
「……ご用意してくださったのですね。ありがとうございます」
「ふふ、だいぶ良さそうで安心したわ。食べられそう?」
誠は小さく頷くと、匙を手に取り、歪な形のりんごに目を留めた。
「……りんごなんて、食糧庫にありましたっけ……?」
その言葉に、伽耶の顔がぱぁっと輝いた。
「ううん、わたしが買ってきたのよ!市場で!」
誠の手から、匙がぽろりと落ちた。
「……市場……?」
「そう!誠のために、がんばったの!」
伽耶は得意げに胸を張る。
「お怪我は……?」
「してないわ、ほら。ね?」
言われて見る限り、外傷はなさそうだ。
誠はひとつ息を吐いて、杯を手に取る。
「芳蘭がね、りんごは万病に効くって言っていたのを思い出して。市場に売っていてよかったわ。……でも、おかしなことがあったのよ」
伽耶は思い出し笑いを浮かべながら、さらりと言った。
「わたしがひとりで寒そうに見えたのでしょうね。何人もの方に、お茶に誘われたの。『暖かいお部屋もありますよ』って」
「ぶっ……!」
盛大に咽せた。
伽耶は慌てて布巾を手にし、辺りを拭う。
「そ、それで……どうなさったのです?」
「急いでいたからお断りしたわ。せっかくのご厚意だったけれど」
伽耶は屈託なく笑いながら、自分もりんごを口に運んでいる。
(急いでいなければ……ついていった、ということですか……!?)
誠はめまいを堪え、額に手を当てた。
「……よいですか、伽耶様」
誠はそっと両手を伸ばし、がし、と伽耶の肩に置く。
そして、まっすぐにその瞳を見つめた。
伽耶は突然のことに目を丸くし、頬を染める。
「わたしのために頑張ってくださったこと、心から感謝します。……ですが」
「……ですが?」
「今後、お一人で市場へ出向いてはなりません……!」
「えっ……でも……」
「なりません!」
あまりにも真剣な目に、伽耶は思わずごくりと喉を鳴らした。
「それから…!知らない人について行ってはいけません…!」
必死に搾り出すように言う誠のあまりの迫力に、伽耶は返す言葉もなく、こくこくと頷く。
誠は肩からそっと手を離すと、再び匙を手に取った。
(熱など出している場合ではありません……!早く……早く治さねば……!)
お粥をかきこみ、苦い薬湯も一息に飲み干す。
最後に口にしたりんごは甘酸っぱかった。
「ふふ、すっかり元気になってきたみたいね」
のほほんと微笑む伽耶の隣で、誠は静かに心に誓っていた。
――明日から、朝の日課に乾布摩擦を加える、と。
それから――すっかり夜も更けた頃。
囲炉裏の火も落ちつき、静まり返った寝室の中。
穏やかな寝息を立てる誠の枕元に伽耶はしゃがみ込むと、その枕の下に市場で買った護符を静かに滑りこませた。
そして、寝顔をじっと見つめた。
「……早く良くなりますように」
小さく囁くと、そっと額に口づける。
それは、火照った肌にふわりと残る、やさしい祈りのしるしだった。




