あなたを隠す、月の光 前編
「伽耶せんせーい!こっちはー?」
「この字も見てよー!」
青空が広がる中、弾けるような声がいくつも響いていた。
風にゆれる木陰の下。
楽しげに笑い声をあげる子どもたちの輪の中で、伽耶はひとり、穏やかに笑っていた。
はじまりは、ほんの偶然だった。
たまたま暇そうに歩いていた子に声をかけて、ほんの数文字、一緒に書いてみただけ。
それが翌日には、二人に増え、また一人……
いつの間にか評判が広まり、今ではこうして、ちいさな文字教室になっていた。
(今日も、楽しそうですね)
誠はその光景を横目に、鍋をかまどからおろす。
湯をざるに捨て、茹で上がったとうもろこしを大きな皿に載せていく。
「さあ、少し休憩にしましょう」
それが子どもたちの真ん中に置かれた瞬間、
わあっ!と笑顔がはじける。
伽耶は、湯気の立つ黄色い粒を見ながら、誠とそっと顔を見合わせた。
(……あれから、もうどれくらい経っただろう)
王の訃報に国中が喪に服したあの日。
葬儀に参列することも叶わず、あれ以来どことなく元気のない伽耶だったが、こうして子供達に囲まれているうちに、元の笑顔も戻ってきていた。
「そうだ、伽耶せんせー知ってる?隣の村に、明日劇団くるんだって」
「……劇団?」
興味を引かれたように、伽耶が首をかしげる。
誠はぎくりと肩を揺らした。
(もちろん…知っています)
そっと目を伏せる。
その話は、確かに寄り合いで耳にしていた。
劇団が近隣に巡業に来ること。
隣村で明日、一夜限りの舞台が開かれること。
だが――
(伽耶様の耳に入れば、必ず行きたいとおっしゃる)
誠はちらりと横目で伽耶を見る。
(だが、伽耶様は今、潜伏中の身。人が多く集まる場所には……)
しかし。
伽耶の瞳はきらきらと輝き、その顔に"行きたい"と書いてあるかのようだった。
(こうなってしまっては、止められた試しがありませんね…)
誠はゆっくりと、息を吐いた。
風がさぁ、と通り抜け、夜の空を黄色い提灯がゆらゆら、と飾る。
林の真ん中にある広場は、ふだんは子どもたちの遊び場だ。
がらんと静かな場所――そのはずだったのに、今夜はまるで別の世界のよう。
幕屋がいくつも張られ、その中央には小さな舞台。
賑やかな夜店の明かりが灯り、繋がれた馬にはしゃぐ子どもたちの声、そして少し顔の赤い大人たちの上機嫌な笑い声。
村の祭りとも、どこか違う。
けれど、それがまた胸をざわつかせる。
誠は、ゆるやかに歩く伽耶の少しうしろを歩いていた。
黄色い提灯の灯りが、伽耶の髪に淡く映る。
きょろきょろと出店を見回しては、その目をきらきらと輝かせる彼女の横顔に、誠はなにひとつ声をかけられずにいる。
ふと足を止めた伽耶が、くるりと振り返る。
風に揺れた長い髪が、やわらかく弧を描いた。
「ねえ誠、あれ買ってみましょう?」
出店を指差すその顔があまりにも嬉しそうで……
(…可愛い)
頬を少し緩めると、いつもよりすこしだけゆっくりと頷いた。
劇の演目は、ある国の王子と、月から舞い降りた巫女との、ひそやかな恋の物語だった。
静かな笛の音に合わせて、舞台の上では、ふたりが寄り添い、舞い、やがて……
王子が巫女の手を取り、そっと唇を重ね――幕は、しずかに降りた。
やがて演者たち全員が舞台で深々と礼をすると、舞台を囲むように置かれた長椅子に掛けていた観客たちは、一斉に拍手をおくった。
誠は、となりに座る伽耶を、そっと横目に見る。
彼女は少し目を潤ませながら、それはもう無邪気に、笑顔で手を叩いていた。
(……どうして、こうも…)
その言葉は口に出さず、誠はただ、小さく微笑んだ。
やがて、伽耶が気づいたように振り向く。
「素晴らしかったわね」
「……ええ」
二人が微笑みあった、その時だった。
「さて、本日はこんなにも大勢の皆さんにお集まりいただいたのです。折角ですから、特別な催しをいたしましょう」
舞台の上。王子役を務めた男が、朗々と声を響かせる。
彼は、舞台の縁を歩きながら、観客たちを見渡した。
一瞬、伽耶の方でその視線が止まった――ように見えたが、すぐにまた、何事もなかったかのように視線は動いていく。
(……気のせい、かしら)
伽耶が小さく首をかしげるその横で、誠はほんの一瞬、わずかに指を動かした。
「最後の王子と巫女の舞。今宵は、観客の皆様のどなたかに、巫女役をご一緒いただくこととしましょう!」
王子役の男が高らかに宣言すると、女性たちから歓声があがる。なんせ彼は見目もよく、最後には口付けシーンまであるのだ。
「では……ご希望の方、いらっしゃいませんか?」
ぱら、ぱらと手が挙がるなかで、王子役の男は、ぐるりと観客を見回した。
「……では。そちらの方!」
指差されたのは、伽耶だった。
「えっ……?わたし、手は……」
「さあさあ、どうぞ!今夜の姫巫女さまです!」
戸惑う伽耶の元へ、軽やかにやってきた男がその手を取った瞬間――
「この方は……!」
誠が席から立ち上がる。
一歩、前に出ようとした――その時だった。
「わ、せんせーだ!がんばれー!」
「伽耶ちゃんが巫女だってー!」
同じ村から来ていた子どもたちの声が、無邪気に、容赦なく響く。
(これでは……もう止められない)
誠は、眉をひそめながらも――
伽耶が「大丈夫」と口パクで伝えたのを見て、
静かに息を吐いた。
そして、椅子に腰を下ろした。
舞台袖で、伽耶はそっと衣を手に取った。
それは、巫女役が纏っていた白と金の舞衣。
衣服の上から羽織れるようになっており、団員の手を借りて、頭からすぽんと被る。
足首ほどの丈の下衣は、動くたびに裾がゆれ、
くるりと回ると、まるで空気に浮かぶようにふわりと広がった。
(……なんだか、お城で舞をしていた時みたい)
懐かしさと、少しだけくすぐったいような気持ち。
舞の記憶が、胸の奥からやさしく湧き上がってくる。
思わず、伽耶の頬に笑みがこぼれた。
その瞬間。
「参りましょう」
舞台の中央――王子役の男が、やわらかな笑みで手を差し出していた。
伽耶はその手を取り、そっと舞台へと歩み出る。
ぱっ、と観客席から歓声があがる。
村の子供たちの声、大人たちの感嘆の声。
王子役が手を取ったまま言う。
「ご安心を。舞の流れはこちらで誘導いたしますから、身を委ねていただければ――」
「……ええ、大丈夫ですわ」
伽耶は、小さく微笑んだ。
(さっきの舞なら、まだ頭に残っているわ)
背筋を伸ばし、軽くひとつ、頷く。
――舞が始まった。




