わたしの死に様に、ついてきて 後編
すっかり日が山の向こうに沈み、囲炉裏の火も静かに落ち着いたころ。
伽耶は湯呑みに口をつけ、ぽつりとため息をついた。
向かいでは、誠が帳簿に筆を走らせている。
部屋の中には、紙と筆の音、そして湯の立つかすかな音だけが漂っていた。
その静けさを破るように――
「……はっ……!」
息を呑むような小さな声が、湯呑みの向こうから漏れた。
誠は帳簿の手を止めて顔を上げる。
「………伽耶様?」
そこには、目を見開いたまま硬直する伽耶の姿。
ややあって、彼女は湯呑みをそっと置き、真顔で誠のほうを向いた。
「――誠。わたし、気づいてしまったの」
その真剣すぎる眼差しに、誠の背中を薄い不安が這う。
「.....はい」
「死ぬ間際の台詞は、事前に考えておかないと碌なことが言えない」
きりりと断言する声に、誠の筆が止まる。
ぽたりと、帳面に墨が落ちた。
「…………はい?」
伽耶は悔しげに唇を噛む。
「夢の中のわたし、死ぬ直前にこう言ったの。『誠、きてくれたのね、誠』。2回も名前呼んだだけよ。我ながらなんて乏しい語彙力なの」
「…………」
拳を握りしめ、わなわなと震える伽耶。
誠は静かに筆を置いた。
「もっとあったはずなのよ。"今までありがとう”とか、”あなたと過ごせて幸せだった”とか、なんなら、”来世もまた見つけてね”くらい言いたかった......」
(そこまで盛り込むのですか……)
伽耶は深いため息をひとつ落とすと、再び湯呑みに手を伸ばす。
「その一言で、あなたの残りの人生が変わる可能性があるのよ。わたし、あなたの腕の中で、ちゃんと、感動的で美しくて、あなたの心に一生残る台詞を言いたいの」
そう言って、茶を口に含む。
(……死ぬ前提の会話というのが、やや胃にきますね)
誠は落ちた墨が帳面に染みていくのを見下ろし、静かに目を伏せた。
「そうと決まれば、こうしてはいられないわね……!」
湯呑みをトンと置き、伽耶は勢いよく立ち上がる。
そして、机に向かう誠のもとへと歩いてきた。
「ちょっと詰めて?紙と筆、借りるわよ」
「えっ、いま記録を――」
「後世に残す記録より、後世に残す台詞の方が優先順位は高いわ」
まっすぐな目で断言されて、誠は口を閉じるしかなかった。
伽耶は小さな机の端に腰を下ろす。
もともとひとり用の机だ。
誠が急いで少し身を引くも、肩も腕も、ぴたりと伽耶と触れてしまう。
「…………」
誠はそっと視線を逸らした。
その耳は、ほんのり赤い。
隣では、伽耶が意気揚々と筆を握っている。
墨をすり、紙を整え、すっかり“本番”の表情だ。
誠はため息をひとつこぼしながらも、帳簿へと視線を戻した。
……が、すぐ隣でまっすぐに“最期のセリフ”を考えている伽耶の横顔が、なぜだかとても愛おしくて、筆を持つ手がふと止まってしまう。
(……まったく、なにをしておられるのか)
それでも筆を取り直し、誠は静かに帳面を進める。
しばらくして、
「うーん……うーん……」
と、伽耶の苦しげな唸り声がもれる。
誠はふと横目で紙面を覗いた。
そこには――
“来世”、“道端に咲く花”、“最後のお願い”など、
詩的で意味深な単語たちが、ずらずらと並んでいた。
いくつかの語には太い墨で斜線が引かれており、そのうちのひとつには「凡庸」と小さく書き添えられている。
「………」
伽耶は、眉間に皺を寄せ、顎に指を当てて考え込んでいた。
(……お城での学びのときも、これほど真剣な表情はそうなかった気がしますね)
誠は苦笑をうかべる。
「…もっと感動的で、ちょっと詩的で…それでいて衝撃的な.....」
「どこを目指しているのですか伽耶様…」
誠は思わず声が出てしまい、その声に伽耶は首を傾げ、嬉しそうに横に座る誠の顔をのぞいた。
「いっそ句にするのどうかしら?
"君を想い 逝くは無念の 雪の中"
.....おしゃれじゃない?」
「"の中"はなくても伝わります。…違います。そういうことを今、申し上げたいのではありません」
「むぅ…たしかに」
伽耶は唸りながら、唇を尖らせる。
誠は小さく首を振ると、湯呑みに口をつけた。
そして――
「……はっ!」
不意に、伽耶が息を呑む。
誠は茶を飲み下しながら、横目でちらりと彼女を見やる。
すると、伽耶は瞳をきらきらと輝かせ、赤墨の筆を手に取っていた。
さらさら、さらさら。
「…なにか、お気づきになられましたか」
「言葉で難しければ、視覚よ!大事な情報源の一つだわ」
機嫌よく筆を走らせる伽耶は、満足そうに描き終えると紙を両手で持ち上げた。
「完成したわ!血で描く最期の"記憶の庭”の試作!」
「記憶の庭…」
誠は静かにその紙を見つめる。
(魚、だろうか…角?が生えている…?これは……雪、でしょうか……)
やや不安げに首を傾げ、そっと口を開く。
「題目は……祟り、でしょうか?“末代まで祟る”といったような……」
「違うわよ!こっちは鯉、こっちは桜の花びらよ。あの宮の中庭が題材なの。わたしたちの思い出の場所でしょう?」
にこにこと笑みを浮かべながら首を傾げる伽耶。
誠は、ふぅ……と小さく息を吐いた。
「……まず、こちらの“鯉”についてですが。
わたしの知る限り、鯉に角はございません」
「あ、それは“感情”を表してみたの。怒りを湛える鯉、みたいな」
「……そういった装飾の前に、まず鱗とヒレの存在をご確認ください」
誠の言葉に伽耶は唇を尖らせる。
「......花びらはどう?ひらひらと舞って、優雅でしょう?」
「…失礼ながら申し上げますと、先程の句を引きずってしまい、雪かと……」
「もうっ…!」
伽耶はぷんと頬をふくらませ、腕を組むとふいっと顔を背けた。
(……言いすぎたでしょうか)
誠は一瞬だけ迷い、そっと筆を取る。
「……このあたり、少し先端を尖らせて……ここに模様を加えて……はい、こうするといかがでしょう?」
隣から、ちらりと紙を覗き込む気配がした。
「…っすごいわ誠!ちょっとそれらしくなった!」
ぱっと目を輝かせる伽耶に、誠はふ、と笑みを浮かべる。
「ご満足いただけて、なによりです」
そう言いながらも、筆を持ったままの手がぴたりと止まる。
伽耶が、そっとその手に自分の両手を重ねてきたのだ。
「じゃあ、“死に際の絵”はあなたが担当ね!」
「わたしは、蘇生担当です」
誠が小さく肩を落とすと、伽耶は満足げに筆を置き、にこにこと笑みを浮かべた。
囲炉裏の火は静かに揺れ、部屋の中に、落ち着いた沈黙が戻る――かと思われた、その時。
「…はっ!」
雷に打たれたような声とともに、伽耶の動きが止まる。
誠もまた、ぎぎ……と音が鳴りそうなほどぎこちなく顔を向けた。
「………次はなにに気づかれてしまったのですか、伽耶様」
恐る恐る問いかけると、伽耶はゆっくりと顔を向け、目をきらきらと輝かせて言った。
「歌はどうかしら?」
「……はい?」
もはや誠の声は、呟きにも似ていた。
「以前お城にいた時、劇をみたでしょう?死に際になぜか突然歌い出したあれよ。とても元気に、高らかに、思いの丈を歌っていたわ!」
「………」
誠のまぶたが、微かに引きつる。
その劇ならば、たしかに覚えがあった。
城下で流行りの劇だとかで、伽耶に頼み込まれ、城に招いて共に観劇したのだ。
「正直自信はないけれど…試す価値はあると思うの」
伽耶の瞳はすでに、決意の色を宿していた。
「……ちょっと、練習が必要ね。いきなりは……さすがに恥ずかしいし。ふふ、たのしみにしていてね?」
にこりと笑うと、伽耶は足音も軽やかに、ふわりと居間を出ていった。
その場に残された誠は、しばらく何も言えずにいた。
静かになった部屋には、ぱち、と炭のはぜる音だけが、やけに大きく響いていた。
(……いや、もう何を楽しみにすればよいのやら……)
誠はそっと湯呑みに手を伸ばし、口をつけた茶がぬるくなっていたことに、今さら気づいた。
翌朝。
朝食を終えた伽耶は、どこか思い詰めたような顔をしていた。
「……では、行ってまいります」
それでも笑顔を作って手を振るその姿に、誠は言葉にならない不安を覚えながら、家を出た。
そうして太陽が真上に登る頃、畑作業を終えた誠は早々に家路へと戻っていた。
朝の伽耶の表情が気になり、正直仕事が手につかなかった。
家の外にはいつものように洗濯物が干されている。
(杞憂でしたか)
誠はふ、と笑みを浮かべると、扉を開けた。
……が、そこには。
仰向けに倒れている伽耶の姿。
脇腹が赤く染まり、周囲にも“血”というには随分と鮮やかな赤い何かがにじんでいる。
その周囲にはーー
鯉と桜が描かれた紙が、伽耶を中心にまるで花びらのように配置されていた。
誠は一歩、足を止めた。
伽耶がゆっくりと瞼を開く。
「誠…」
かすれた声に、絵を踏まぬよう注意しながら、そっと近づき跪く。
「きてくれたのね、誠…」
伽耶はにこっと微笑み、片手を伸ばす。
誠はその手をそっと取った。
「君を想い.....逝くは無念の......家の中.....」
「家の中」
誠はほんの少しだけ、目を伏せて口を引き結ぶ。
が、その次の瞬間一ー
伽耶はすっ......と起き上がって立ち上がる。
(えっ...?)
「ーー♪君を見つけたあの庭で
ひらひら舞い散る桜の花
鯉はめぐりて愛を知り
.....いつまでもわたしを覚えていて♪」
(何と個性的な音階…)
胸に手を当て高らかに歌い切った。その顔はどこか誇らしげですらある。
(思えば伽耶様の“御歌”を拝聴するのは今日が初めてかもしれません…)
誠はごくりと唾を飲んだ。
歌い終えた伽耶はいそいそと誠の側に横になると、そっと目を閉じた。
そして。
「…どう?」
静かに目を開けてにこ、と笑みを浮かべる。
誠はしばらくじっとその様子を見ていたが、5拍の拍手を送る。
そしてーー
「.....伽耶様、欲張りすぎです。」
「えっ?」
身体を起こした伽耶がきょとんと首を傾げる。
「台詞、絵、血、花、鯉、詩、歌、演出、衣装、間合い、余韻......ひとりで物語の全要素を背負いすぎです」
誠の視線は、脇腹の赤い染みに移る。
「その“傷”は.....」
「あ、これね、果汁よ。染料を混ぜて濃く見せてるの。なかなか良い出来だとおもわない?」
誠、両手で顔を覆う。
「.....伽耶様。せめて本気で泣ける演出にしていただけませんか......?」
「今泣いてるじゃない。私にはわかるわ誠」
「それは違います......!」
誠は深く息を吐くと顔を上げた。
そして、伽耶の手を取り、赤く染まったその手のひらを優しく拭っていく。
「…あなたが、そんな台詞や演出をする機会がないよう…わたしが、守ります。必ず」
「誠…」
伽耶は誠の目をじっと見つめた。
「それに…このような演出などなくとも…わたしが遺される時は、美しいままのあなたが、いつまでも残るでしょう」
拭き終えた誠は、伽耶をそっと立たせ、散らばった紙を拾い集めていく。
両頬を染めた伽耶もまた、その隣に膝をついて、紙を手に取った。
かさ、かさ、と紙を重ねる音だけが、しばしの静けさを埋めた。
「……伽耶様」
「なあに?」
伽耶は顔を上げると、にっこりと微笑んだ。
「一ーでは、今度は。
"わたしが先に逝く"場合も、ご検討ください。」
「………え?」
伽耶はぴたっ、と手を止める。
誠は、視線を下に落とし、紙を集める手を止めぬまま淡々と続ける。
「伽耶様が遺される側になられるなら。言葉、音、景色.......何を残されたいのか、知っておきたいと思いまして」
誠は紙を集め終えると、手際よくとんとん、と整えていく。
「演出はなくとも構いません。
ですがーーせめて、"遺された伽耶様”が、寂しくならないように」
「………やめて」
誠、はっと顔を上げる。
そこには一ー
さっきまで笑っていた伽耶の姿はなかった。
唇を噛んで、目に涙を浮かべている。
「.....そんなの、考えたくない......」
「伽耶様……」
誠はまとめた紙をそっと床に置いた。
「誠がいなくなったら、わたし…生きていても色がなくなるわ。なにをしても、しなくても、絶対に楽しくなくなる…」
(わたしも、あなたの死を想像すると、同じ気持ちではあったのですが…)
誠は苦笑しながら、そっと伽耶の肩を抱き寄せた。
「ごめんなさい。わたしの戯言でした。あなたより先に死ぬことなど、絶対にしません」
伽耶は誠の胸にそっと手を当てる。
「絶対ね…?」
誠は、頷くと、伽耶の目尻を拭う。
溢れた涙がその手に落ちた。
「あなたのことも――守り抜きます。必ず」
伽耶は少し笑って、こくんと頷いた。
開け放たれた戸から吹き込む風が、ふたりの髪を優しく揺らしていた。




