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この関係に、名前を

空は、まるで手を伸ばせば届きそうなほど青く、澄んでいた。


雲ひとつない空の下で、鍬を振るう誠の額には、陽の光と汗がきらめいている。


少し離れたところでは、伽耶がしゃがみ込み、草の葉先をひとつひとつ撫でるように摘んでいた。


ふと、誠の手が止まる。


視線を上げると、彼女もまたこちらに気づいたのか、やわらかく微笑んだ。


誠も自然と目を細め、返すように笑みを浮かべる。


何の変哲もない――けれど、かけがえのない日々だった。


そんな時だった。


「で、結局ふたりってどういう関係なんすか?」


ずい、と間合いを詰めてきたのは、村の青年・大慶。

鍬を脇に立てかけた誠の耳元に、妙に楽しげな声音を差し込んでくる。


(またですか)


誠は静かに息を吐くと、馴れた手つきで袖の汗を拭った。


「伽耶様は……仕えているお屋敷の、お嬢様です」


今までに幾度となく繰り返してきた答えだった。


嘘ではない。

けれど、そのすべてでもない。


「へぇ〜……そうっすか?でもさぁ、なんか最近また噂聞いて」


「噂……?」


ぼそりと落ちたその言葉に、誠の指がぴくりと揺れる。


鋭くなりかけた視線を、なんとか和らげながら向けた先で、大慶が声を潜めた。


「紫国の王様に一太刀喰らわせたお姫様が、このあたりに隠れてる……とかなんとか」


「ぶっ……!」


誠は盛大に咳き込んだ。


ごほごほと肩を震わせる誠の背を、大慶が「だいじょぶっすか」と笑いながら叩く。


草むらの向こうで、その音に気づいた伽耶がぱっと顔を上げた。


「誠?」とでも言いたげに、小さく立ち上がる。


誠は片手をあげて「大丈夫です」と合図する。

伽耶はなおも気にかかる様子だったが、それでもそっと腰を下ろした。


「違います。伽耶様は、御病気の療養のためにこちらの村に来られました」


ふいにかけられた問いに、誠は一瞬の間も置かず、そう答えた。


「ふ〜ん」


返ってきたのは、どこか間の抜けた声と――

ニヤニヤと笑う村の青年・大慶。


(この男は、生まれてこのかた村の外を知らぬ者……間者の線は薄い。が――)


誠の瞳が、静かに光を帯びる。


その声は変わらず穏やかだったが、その奥に宿るものは、誰の目にも見えない炎だった。


(伽耶様の正体が知られれば、必ず――“利用価値”として動く者が現れる)


だからこそ、誠は常に目を光らせている。

村人の言葉、視線、足音の変化まで――

この静かな村でさえ、伽耶に近づく者はすべて“警戒の対象”だった。


「じゃあさ……恋人?」


唐突に囁かれたその言葉に、誠はわずかに眉を動かす。


「……お仕えしています」


視線を逸らしながら、額の汗を拭った。

それ以上を答えることはしない。できない。


「好きなん?」


――直球だった。

誠の指先がぴくりと揺れる。だが、答えない。


代わりに、ふう……と小さく息を吐いた。


「……それを知って、どうなさるのですか」


「付き合いたいんだよ、俺が!」


あまりに真っ直ぐな返答に、誠は一瞬だけ動きを止める。


「毎日笑って手振ってくれるし、俺、伽耶ちゃんのこと、イケる気がしててさ!」


目を輝かせる大慶。

その隣で、誠は無言のまま鍬を手に取る。


土のついた鍬先を、丁寧に、丁寧に拭いながら――


(わたしが……その方の名をただ口にするまでに、どれほどの年月を傍で重ねてきたか……


どれほどの刃を前に立ちはだかり、どれほどの言葉を飲み込んできたか……)


鍬を整える手は、あくまで静かだった。

それが、むしろ不気味なほどに。


「でもさ、もしほんとにお姫様だったら、付き合ったりしたら首、落ちるっしょ?」


大慶が笑って肩を組んでくる。

それを、誠は優雅な所作で――ふ、と払った。


その顔に、微笑みが浮かぶ。


けれど、その目だけは、まったく笑っていなかった。


「お姫様ではありません。

ですが、“お嬢様”に安易に手を出した時……剣に手を掛ける男は、いるかもしれませんね」


にこり、と。

けれどその圧は、突風のようだった。


「…………っ」


大慶は数歩、無言で後ずさった。


「も、もう少し考えよっかな……」


「それが、良いでしょうね」


刹那、誠の鍬が鋭く振り下ろされる。

硬い地面を裂くその音が、空気を震わせた。


ごくり、と唾を飲んだ大慶は、音もなくその場を離れた。


ざぁ……と風が畑を渡り、草がやさしくざわめく。

陽は高く、空は青い。けれど、ほんのわずかに、空気に揺らぎがあった。


誠は黙って鍬を握り直し、ゆっくりと息を吐こうとした――そのとき。


「誠ーっ!みてーっ!バッタ捕まえた!!」


場の空気を軽やかに切り裂くように、楽しげな声が畑に響いた。

誠が顔を上げると、そこには――

両手を前に差し出し、まるで宝物でも見せるように笑う伽耶の姿。


草をかき分けるように、ぱたぱたと走ってくるその小さな影に、

誠は思わず――ふ、と頬を緩めた。


鍬の柄を静かに土に立てると、片手で額の汗を拭いながら、その姿を目で追いかける。


まるで、

その笑顔だけが、この世のすべてであるかのように。








その夜。

囲炉裏の火がぱちぱちと音を立て、ゆっくりと燃える炭の灯が、ふたりの影をゆらゆらと揺らしていた。


伽耶は膝を抱えて座り、火を見つめたままぽつりとつぶやく。


「ねえ、誠。……わたしたちの関係って、なんだと思う?」


少し間を置いて、火の揺らめきを見つめながら、伽耶が続けた。


「今日、村の人に聞かれたのよ。“おふたりって、夫婦ですか?”って」


小さく笑ったその表情は、どこか気まずそうで、照れているようでもあった。


誠の手が止まる。

昼間、大慶に問われた言葉が、また胸の奥で響いた。


火の光に照らされた伽耶は、まっすぐにこちらを見つめている。


(……また、そういう顔を)


真っ直ぐで、少しだけ不安げで――

どんな言葉にも真剣に耳を傾けてしまうような、そんな表情。


誠の心が、かすかに跳ねた。


けれど口を開いた彼は、あくまでいつも通りの声で返す。


「……伽耶様は、大切なお方です」


「うん、それは知ってるの」


「では……お仕えしている方です」


「……まだ言うんだ、それ」


伽耶は小さく息をついて、そっと目をそらした。

火に照らされた横顔が、淡く紅に染まって揺れている。


しばしの沈黙のあと――

伽耶は小さく笑った。


「……わたしは、誠のこと、大好きよ。

ずっと一緒にいたいの」


火かき棒を手に囲炉裏の炭をざくざくと刺しながら、まるで、何でもないことのように。


けれどその言葉は、誠の胸の深いところまで届いてくる。


誠の呼吸が、わずかに乱れる。

視線の先で、伽耶がそっとこちらを見た。


「……あなたは?」


(わたしの心はすでにあなたで満ちているのに――)


誠は答えられず、ただ視線を落とした。


(この想いを明かせば、2人きりのこの家で、もう止まることができなくなってしまう気がする)


だが。


その先を答える前に、

伽耶がふいに立ち上がる。


「……ごめんなさい。なんでもないの。困らせたいわけじゃなかったのよ」


ぱち、と炭が弾ける音が残る。


「おやすみなさい」


振り返らずに、すっと部屋を出ていく。

その背中を見送る誠は、ただ拳を握り締めることしかできなかった。


囲炉裏の火は、ゆらりと揺れて――

ふたりの影を、少しだけ遠ざけた。








翌朝。

ふたりは、いつもより口数少なく畑へと向かっていた。


誠は、斜め前を歩く伽耶の背をそっと見つめる。


(……謝りたい。昨夜のことを)


伽耶の顔は、いつもと変わらない。

目が合えば、にこりと微笑んでくれる。


けれど、ほんの少し――その距離が遠く感じる。

いつもより静かなこの空気が、伽耶もまた、昨夜のことを気にしているのだと物語っていた。


(だが……なんと言えばいい?)


“返事が遅れて申し訳ありません”――そんな不格好な謝罪で、彼女の気持ちに応えられるだろうか。

誠の手に握られた鍬に、思わず力がこもる。


そのとき。


「あら……?」


伽耶が小さく声を上げ、立ち止まった。


誠が顔を上げると、

いつも荷を置いている木の下に、ひとりの青年の姿があった。


大慶――その顔はどこか緊張に強ばっている。

伽耶をまっすぐに見据えたまま、踏み出してきた。


(まさか……)


誠の眉がわずかに寄る。

だが、大慶はそれを気にする様子もなく、ずかずかと伽耶の前へ進み出た。


「伽耶ちゃん!」


その呼びかけに、伽耶の肩がわずかに跳ねる。


「俺、君の笑顔が好きなんです!付き合ってください!」


深く一礼し、片手を差し出す。


伽耶は、目を瞬かせた。

一度、二度――

そして、返事をするよりも早く。


彼女の手は、ぐい、と後ろに引かれた。


視界が遮られた先にあったのは、誠の背中。


「申し訳ありませんが……」


静かに、けれどはっきりと。

誠の声が、空気を震わせる。


「この方は、わたしの――」


一呼吸、置いて。


「……一番、大切なお方です」


その瞳はまっすぐに大慶を見つめ、

一切の迷いも、揺らぎもなかった。


一瞬の沈黙のあと――


「やっぱり好きなんじゃん!!!!」


大慶が叫ぶように言い捨て、踵を返して走り去っていく。


その背を見送りながら、伽耶はそっと誠の背から顔を覗かせた。


「……やっぱり、好きなんだ?」


その問いに、誠は言葉を失った。


口を開きかけて、閉じて。

それでも、視線は逸らさずに――

静かに、息を吸った。


「……好き、ですよ。

……わたしの、命よりも……大事な、お方です」


その言葉に、伽耶の頬がふわりと色づく。


そして、小さく笑ったかと思えば、両手でそっと誠の手を取った。


「わたしも、大好き」


囁くようにそう言うと、伽耶はくるりと振り返り、ジョウロを手に井戸へと駆け出していく。


「がんばるぞーっ!」


空へ向かって放たれた声は、どこまでも明るく、青く澄んだ空を駆けていくようだった。


その後ろ姿を、

誠は、手のひらに残るぬくもりをそっと握りしめながら――


(…もう、止まれないかもしれない)


ただ、静かに見つめていた。

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