エピローグ 紅に咲く 後編
夕陽が、静かに山の向こうへと沈んでいく。
風は少し冷たくなり、庭のすすきが、さらさらと優しく音を立てていた。
魚を焼く囲炉裏がぱちぱちと音を立てる。
伽耶は、湯呑みを手に、縁側にちょこんと座っていた。
隣には誠。ふたり並んで、ただ静かに、移りゆく空を眺めていた。
伽耶は、湯呑みのふちを指でなぞりながら、ぽつりと呟いた。
「……色んな人を傷つけてしまったけれど…それでもこの村に来て、よかったなって思う」
誠の視線が、そっと伽耶に向けられる。
「……どうして、ですか?」
「だって……こんなふうに、のんびりして、笑って、ふたりで……なにも気にせずにいられる場所……ほかに知らないから」
「……そうですね」
誠が微笑むと、伽耶もすこし照れたように、けれど嬉しそうに笑った。
「……贅沢言うなら、たまには舞いたいなーって思うけど、でも……“しあわせだな”って、思えるの」
その言葉に、誠の胸の奥が、じんわりとあたたかくなる。
「そうだ!」
ふいに、ぽんっと手を打って、伽耶がすっと立ち上がった。
「誠、見てて!」
「……え?」
「ちょっとだけ……舞ってみたいの。いま、舞いたくなったの」
裸足のまま庭へと降りていく伽耶を、夕陽がやわらかく包む。
そよ風が裾を揺らし、すすきが、さぁ……と囁く。
舞う準備をする伽耶のその瞳には、もうすでにあのときの“舞姫”の光が宿っていた。
誠はただ、呆然と見惚れることしかできなかった。
(……美しい)
(いや、それだけじゃない。こんなにも、自由で――)
その場に花が咲いたように。
伽耶は、楽しそうにくるりと回った。
空に向けて手を伸ばし、光を抱くように、そしてそっと放つ。
草の上を踏みしめる音さえも、どこか楽しげで、嬉しそうで――
伽耶の動きは、誰にも強いられない、
ただ「いま舞いたい」と思った心のままに咲く、自由な花だった。
その舞は、舞台にあがっていた頃と比べると完璧ではなかったかもしれない。
息もすこし、荒い。
衣装だって、村娘が着るその衣は薄汚れていて、あの頃のような絢爛さはない。
けれど――
今ここに咲くその花は、誠の目には、世界で一番、尊く見えた。
「――っ、はぁ、はぁ……」
舞い終えた伽耶は、肩で息をしながら振り返る。
「……どうだった?」
とびきりの笑顔だった。
顔を真っ赤にして、けれど、目はきらきらと輝いていた。
「……とても…美しかったです」
静かに、けれどまっすぐに。
その声に、伽耶は一瞬目を丸くしてから、ふわりと笑った。
「ふふ、やっと…美しい舞って言ってくれた……」
頬が、夕焼けよりも濃く染まっていく。
「ねえ、誠……」
さぁ、と風が伽耶の髪を揺らし、ざわざわ、とすすきの葉が音を奏でる。
「わたし、誰のためでもなく、
自分が“好きな人”のために、好きに舞える――いまが一番、幸せだわ」
誠はその言葉に、
胸がきゅうっと締め付けられる思いだった。
「……それは…わたしのこと、でしょうか?」
「えへへ、どうかな?」
伽耶はにこっと笑って、胸元の香り袋にそっと手を当てる。
その笑顔は、幸せが溢れていて、まるで答えそのものだった。
さぁ……と風がふたりのあいだをすり抜けていく。
すすきが揺れ、空は、深い紅へと染まってゆく。
――そしてその紅の中で、
彼女は、確かに。
ふたりだけの世界で、咲いていた。
128話にもわたるこの物語を、最後まで読んでくださり本当にありがとうございました。
誠と伽耶のその後の物語も、番外編にありますので、引き続きお付き合いいただけたら嬉しいです。
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心からの感謝を込めて。