番外編 風船戦記 壱
それは伽耶と誠が出会って2年後。
柔らかな陽射しが書房を照らし、開け放たれた窓からは、ふわりと桃の花びらが舞い込んでくる。
「えーっ、誠、来週はこられないの?」
伽耶が、少し口を尖らせてそう言った。
机の上に肘をつき、散らばった本をまとめていく誠をじっと見つめる。
誠は手を止めず、ほんの少しだけ困ったように微笑んだ。
「一日だけです。軍部の試験がありまして」
「試験?難しいの?」
「模擬戦と聞いていますが、詳しいことはまだ。兵の動きなどを見る訓練かと」
誠は整えた本をトントンとそろえると、そっと伽耶の前に置いた。
その様子を、伽耶は机に頬をのせて、じーっと眺めている。
「あなたなら、どんな試験だって楽勝ね」
その言葉に、誠はちらりと伽耶に視線を向け――そして、すぐに目を逸らした。
「慢心せず、挑みます。……姫様にも課題をお渡ししておきますので、お忘れなく」
「えーっ、その日くらい遊びた……」
言いかけたところで、背後から芳蘭の咳払いがひとつ。
伽耶は慌てて姿勢を正し、しゃんと背筋を伸ばした。
「姫様に良い報告ができるよう、精進いたします。では、本日はこれにて」
誠はわずかに笑みを浮かべると、静かに一礼して部屋をあとにする。
扉が閉まる音を背に、伽耶はふぅとため息をひとつ。
「はぁ~……誠来られないなんて……つまんないの」
「姫様。来週は陛下よりご命令の行事もございますよ」
「えーっ!?じゃあ二日も会えないってこと?」
「いえ、確か……陸誠様のご予定と、同日だったかと」
芳蘭が手帳をめくって小さく頷くと、伽耶は「そっか」と机に再び身体を預ける。
すぐにもう一度、咳払い。
伽耶はピシッと姿勢を正した。
それから数日後。
昼下がりの軍部控室には、翌日の昇進試験に挑む少年たちが集められていた。
「試験、ねぇ。俺の剣技があれば、怖いもんなんてねーな」
蒼煌辰は足を組み、椅子の背に寄りかかって軽口を叩く。
その横で、誠は正座で静かに前を向いていた。軽く、ため息。
「調子に乗らないでください。いつも師匠に怒られているでしょう」
「いいだろ? 事実なんだからさー」
そう言いながら笑う煌辰の腕を、誠が肘で軽く小突いた――
そのときだった。
「ははっ、聞いたか!?父上が王に頼んでくださったらしいんだよ!」
部屋の扉を開け、騒がしく入ってきた少年の声が響く。
誠と煌辰が、ちら、とそちらに視線を向けた。
入ってきたのは、肩で風を切って歩くような足取りの少年――梁 蓮臣。
取り巻きに囲まれ、得意満面といった様子だった。
「明日の試験、姫様方が観覧なさるんだとよ。
父上が、“うちの息子の勇姿をご覧に入れたい”って頼んでくださったらしい!」
煌辰はあからさまに舌打ちした。
蓮臣はその音に気づいたのか、周囲を見回し、
誠と煌辰の姿を見つけると――わざとらしく声を張った。
「……華蘭姫様も、伽耶姫様も、俺の戦いぶりをご覧になるってわけだ。
ま、これで“陸誠の時代”も終わりか? 姫様の側近の座、そろそろこの俺に譲ってもらおうかなぁ?」
誠は、まっすぐ前を向いたまま、一切の反応を見せなかった。
伽耶の教育係に任命されて以来、蓮臣からの敵意は幾度も感じていた。
その度に思う――相手にする価値はない、と。
だが、その横で煌辰がニヤッと笑う。
「そうだといいな、“七光り蓮臣”殿?」
静かに、しかしはっきりと投げかけられた言葉に、蓮臣の顔がみるみるうちに赤く染まっていく。
「お前……!」
怒鳴りかけた、その瞬間だった――
「静まれ」
重々しい声が響き、部屋の空気がぴんと張り詰めた。
扉の奥から現れたのは、軍部の試験官だった。
蓮臣は小さく舌打ちすると、どかっと腰掛けた。
「明日の昇進試験の詳細を発表する」
重たく響いたその声に、控室のざわめきがぴたりと止まった。
「ここにいる百名を、くじにて紅軍・白軍に分ける。
各自、頭部に紙風船を装着。大将は色を変えて識別とする。
制限時間は半刻。敵の風船をより多く割った軍が勝利となる」
少し間を置き、試験官の声がさらに低くなる。
「ただし――大将の風船が割れた場合、その時点で敗北とする」
「要は、模擬合戦ってわけだな」
煌辰がぽつりと呟いた。
その隣で誠は、手元の紙風船をじっと見つめたまま黙っている。
「ってことは、大将守っときゃ勝ちってことじゃね?」
「風船なんか隠しとけば割られないんじゃないの?」
後方から聞こえてきた囁き声に、
さらに別の少年たちがぽつぽつと反応を返す。
「でもさ、相手の風船も割らなきゃ勝てないだろ?」
「どこに隠れれば安全かな……」
少年らしい雑多な声が徐々に広がっていく中、
試験官がひときわ強い声で締めくくった。
「くじを引け。引いた者から軍を分け、軍議に入れ」




