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紅に咲く ― 鳥籠の姫君と誓いの護衛 ―  作者: ゆき
最終章 紅に咲く
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最終話 ただいま

それから馬車は静かに走り続けた。

伽耶が姫であることを馬車の御者にさえも悟られぬよう、

ある時には森の中で、

ある時には街の端で、

そしてまたある時には湖のほとりで

馬車を何度も乗り換えた。


その度に伽耶の姫としての痕跡が風に消えていく。


最後に乗り換えた馬車の御者が、

「お嬢さん、あんな小さな村に何の用なんだ?」と笑いかけてきたとき――


伽耶は思わず、胸を撫で下ろした。


ようやく、“姫”ではなく“ただの娘”になれた気がしたからだ。


日がすっかり沈み、提灯の淡い灯りを頼りに馬車は畑の小道を進んでいく。

冷たい夜風が小さな隙間から頬に触れ、馬車の軋む音だけが一定のリズムを刻んだ。


烈翔が言っていた。


「別邸には管理人がいて、身の回りのことはその者が取り仕切る」


(仲良く、なれるといいけれど……)


小さく吐き出した息はすぐに消えた。


その時、馬のいななきが夜気を震わせ、馬車はがたん、と歩みを止めた。


朝からずっと馬車に揺られ続けていた身体が悲鳴をあげる。


それでも――


胸の奥に広がるのは、新しい場所へのわずかな期待だった。


「お嬢さん、つきましたよ」


きい、と控えめな音を立てて馬車の扉が開かれる。

伽耶はそっと手をかけ、夜気の中へと降り立った。


馬車はすぐさま走り去り、提灯の灯りごと、あっという間に闇に呑まれていった。


視線を前に向けると、小さな門の前に、松明の灯がゆらゆらと揺れていた。

風に煽られた火が影を伸ばし、その先にひとりの男の姿を浮かび上がらせる。


跪き、深く頭を垂れたその背は、まっすぐで――


伽耶は思わず口元に手を当て、息を呑んだ。


その背中には、あの日から変わらない懐かしさが宿っていた。


「この別邸の管理を任されております、陸誠にございます。本日より、どうぞよろしくお願いいたします」


耳に届く、静かで澄んだ声。

何度も何度も夢の中で聞いた、大切な声。


伽耶は涙を指でそっと拭うと、咳払いをひとつ。


「……くるしゅうない、おもてをあげよ……ふふ」


声は震え、最後には小さな笑い声へと変わった。


脳裏に蘇る、小さかったあの日の書房。


『陸誠、参りました。本日より、どうぞよろしくお願いいたします』


『うむ、くるしゅうない! おもてをあげよ!』


『姫様! おふざけになってはなりません!』


『えぇ〜? でも、烈翔お兄様はこうおっしゃっていたわ!

“おもてをあげよ、くるしゅうない”って!』


『……あれは、“殿下”だから許されるのでございます』


『わたしだって、“姫殿下”ですもの!』


小さな自分の笑顔が胸をかすめ、伽耶は、ふ、と笑みを零した。


「もう、“姫殿下”じゃないのにね……?」


夜風が頬を撫でる。

それでも、その声には確かな笑みが宿っていた。


「……そうですね」


ゆっくりと顔を上げた誠の瞳が、柔らかく笑っていた。


「……おかえりなさいませ、伽耶様」


その声を聞いた瞬間――


胸の奥が、きゅうっと締めつけられなくなる。


長い長い道のりだった。

大事なものを捨てて、守るためについてきた嘘。

失ったもの。

壊したもの。

傷つけた人。

大切な人を失うかもしれない恐怖。


すべてが、この一瞬に重なって――


「……ただいま、誠」


そう言った途端、張りつめていたものがぷつりと切れた。誠の首元に手を伸ばし、その胸元に飛び込んだ。

震えが止まらず、声も呼吸も乱れてしまう。


目に溜め込んでいた涙が、ぼろぼろと零れ落ちる。


涙が止まらなかった。

でも、恥ずかしくなんてなかった。


だって今はもう、誰の目を気にする必要もない。


誠は一瞬ぴくりと肩が揺れ、そしてその背に腕を回してくれる。

その手が震えていることに気づいて、また涙が溢れた。


それでも、伽耶は笑った。


「……ただいま……」


震える声で、もう一度だけ言った。


誠が優しく抱きしめ返してくれる。

二人の間の空気が、やわらかく、あたたかく満ちていった。


松明の灯りがゆらゆらと揺れ、

その光の中で、

涙に濡れた笑顔が輝いていた。

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