≪閑話≫姫様のこいあそび
それは、いつもの朝のことだった。
今日の伽耶は、いつもにも増して熱心だった。
漢字の書きとり、漢句の解釈、歴史本の音読――
普段なら倍はかかるところを、今日はすでにすべて終えていた。
「姫様、今日の分はすべて終了です。素晴らしい集中力でしたね」
誠が机の上の書簡や本をまとめながら、穏やかに声をかける。
「そうでしょう!」
伽耶は嬉しそうに両手をぎゅっと握ると、ぱっと顔を輝かせた。
「今日はね、あなたに見せたいものがあったから、頑張ったのよ!」
その目は、早く早くと言わんばかりに輝いている。
「ね、こっち!とっても可愛いんだから!」
そう言うやいなや、伽耶は誠の手を取って中庭へと駆け出した。
「見て、わたしの自慢の池!」
誠が案内されたのは、以前にも見たことのある中庭の池だった。
けれど、今日の伽耶は何か企んでいるような、そんな顔をしている。
ちらりと芳蘭の方を窺うと、伽耶はこっそり誠に顔を寄せ、小声で囁いた。
「今朝ね、ちょっと寝坊しちゃったの。だから、まだごはんあげてないのよ」
芳蘭に知られたら怒られるのか、伽耶はいたずらっぽく笑いながら、帯のあたりから小さな袋を取り出す。
「一緒にあげましょ?かわいいんだから」
そう言って、袋の中から麩を何個か取り出し、誠へ手渡してきた。
誠は差し出された麩を受け取り、思わずまじまじと眺める。
(……姫様の鯉ともなると、餌も上等なのだな)
袋の中には、丁寧に仕立てられた、香ばしい麩がぎっしりと詰まっていた。
伽耶が麩を池に放ると、たちまち鯉たちが大きな口を開けて集まってきた。
なかでも、ひときわ大きな鯉が、他の鯉たちを押しのけるようにして麩を独占している。
「もう、ケイったら今日も強引なんだから」
伽耶は困ったように笑っていたが、誠は眉をひそめた。
「……ケイ、ですか?」
「あの大きな子の名前よ。」
伽耶はうれしそうに続ける。
「あの子はね、とっても縄張り意識が強いの。それに、ほら、他の子のご飯までとっちゃうの。本当困った子よね。」
くすくすと笑いながら、またひとつ麩を投げる。
「鯉に……お名前を?」
「そうよ、みんな個性があるの。とっても可愛いの」
伽耶は今度は、ケイとは反対側にそっと麩を投げた。
すると、少し小柄だがすばやい鯉が、大きな口を開けて麩を飲み込んだ。
「あれはショウ。要領はいいけど、ちゃんと気を使うのよ。食べられてない子がいると、譲ってあげたりするの」
ショウと呼ばれた鯉は、麩を一口で平らげると、すぐに遠くへと泳いでいった。
「それから、あの子はラン。元気いっぱいなんだけど……たぶん、ちょっと方向音痴なのよね」
「こっちはソウ。見て、自分の模様を自慢してるでしょう?」
次々に紹介される鯉たちに、誠の脳裏にはなぜか見知った顔が次々と浮かぶ。
(……いや、いや、まさか)
「……鯉の、話ですよね?」
誠がおそるおそる問いかけると、伽耶は小首を傾げて、にっこりと微笑んだ。
「そうよ?かわいいでしょう?」
その笑顔に誤魔化されるようにしていると、伽耶はふと、池の端で泳ぐ小さな鯉を指さした。そして、その鯉が食べやすいように麩を丁寧に投げる。
「あの子は、セイ。最近この池に来たばかりなの。
とっても不器用で、うまくご飯が食べられないから、こうやって手伝ってあげるのよ。……でも、そこがまた可愛いの」
伽耶は心から愛おしそうに笑い、セイに向かってそっと麩を投げる。
誠はなぜか、顔が熱くなるのを感じた。
(……セイは、不器用……)
まるで、自分のことを言われているようで、居心地の悪さを覚えながら、顔をそむける。
最後の一片を手に取った伽耶は、池に向かって優雅に手を振った。
「みんな、こんなに丸々太って……そのうち食べられちゃうかもしれないわね」
にっこりと笑って、最後の麩を放る。
ケイが、それを豪快に飲み込み、満足げに水面を揺らした。
誠はケイを見ながら、引きつった顔を必死で隠した。
(……セイは、まだ小さいから……猶予はある……だろうか)
そう思いながら、そっと自分も麩を一粒、セイのいない方に向かって投げた。




