第二十八話 あなたを、信じたい
「姫様……姫様……!どうか、目を開けてください……!」
泣きそうな声が、耳元で揺れている。
背中に回された腕は、頼りなくも、必死で、震えていた。
伽耶は、重たい瞼をなんとか持ち上げる。
「せい…?」
その掠れた声に、誠の肩がぴくりと揺れた。
そして、恐る恐る顔を上げ、伽耶を見つめる。
「姫様……!」
彼の瞳は濡れていた。
「……よかった……」
そう呟いた誠は、下唇を噛みしめ、下を向き、懸命に涙を堪えようとしていた。
けれど、ぽたり、ぽたりと――
伽耶の頬の上に、彼の涙がこぼれ落ちていく。
(……泣かないで……)
声は出なかった。
代わりに、伽耶は震える手を上げ、誠の頬に触れる。
涙をぬぐうように、そっと、優しく。
その瞬間、誠は抑えきれず、伽耶をきつく抱きしめた。
彼の背中は、震えていた。
「……わたしが……
わたしが、間違えておりました……」
囁く声は、苦しげで、かすれている。
「国の命だからと……己に言い聞かせていました……
あなたを自由にしてあげられる機は、きっとあったのに……」
伽耶は、静かに首を横に振った。
弱い声で、けれど確かに伝えようとする。
「……あなたは……当然のことをしたの……国のために」
その言葉に、誠は抱きしめたまま、強く首を振った。
「いいえ……わたしは…わたしがあなたと離れたくなくて……
わたしの…我儘とも、欲ともつかぬ想いが……結果的にあなたを……こんなにも、苦しめてしまった……」
誠の声は震えていた。
(誠も……ずっと、苦しかったんだね……)
涙が、伽耶の視界を滲ませていく。
頬を伝った熱い滴が、今度は誠の肌を濡らした。
「……わたしも、自分の気持ちがわからなくなってたの……
でも……やっと、わかったの」
言葉をひとつひとつ、大事に紡ぐように。
誠は、嗚咽を噛み殺しながら、伽耶の声に耳を澄ませる。
「あなたと……ずっと一緒にいたくて……
だから、婚礼がいやだったの……子供よね……?」
伽耶は、少しだけ笑ってみせた。
まるで、自分の心をようやく愛おしむように。
誠は、首を横に振った。
その腕に、ぎゅっと力がこもる。
「……わたしも、ずっと……そうでございました……
ただ、あなたに、そばにいてほしかった……それだけでした……」
「ふふ……一緒だね……」
伽耶は小さく笑いながら、震える背にそっと手を添えた。
まるで、過去の自分たちを抱きしめるように――
「……わたし……もう一度……
あなたを、信じたい……」
伽耶の瞳は、深い揺らぎを湛えていた。
けれどその奥には、確かな光が宿っていた。
誠の肩は、なおも震えている。
けれど――その震えは、もう迷いではなかった。
「……はい……」
誠の声は低く、けれど強く響いた。
「あなたに、もう一度、信じていただけるよう……
何度でも……命に代えても……」
そう言って、誠は伽耶の肩にそっと腕を回し、顔を離す。
そして、まっすぐに、伽耶の瞳を見つめた。
まるで、ふたりが初めて出会った日――
あのまっさらな気持ちに、もう一度立ち返るように。
「……わたしは、もう己の心に嘘は申しません……
……ずっと、胸にしまっているつもりでしたが――」
誠はほんの少し息を吸い込むと、その言葉を丁寧に、まっすぐに紡いだ。
「……お慕いしております……
……伽耶様。」
その瞬間、伽耶の目に、静かな涙がにじんだ。
ぽろり、と一粒、頬をつたって落ちる。
「……やっと……名前、呼んでくれた……」
小さくこぼれた言葉に、誠の手がぴくりと動く。
伽耶は誠の腕にそっと手を添え、もう一度微笑んだ。
「……だいすきよ……誠……
ずっと…一緒にいてね…」
その囁きは、涙よりもやわらかく、彼の胸の奥にしみこんだ――
誠は唇を噛み、堪えようとした涙が、もう抑えきれなかった。
次の瞬間、彼は伽耶を強く、深く、抱きしめる。
伽耶も、静かにその背に手をまわした。
ふたりの間に言葉はなかった。
けれど、心がすべてを語っていた。
彼の肩に埋めた伽耶の頭が、小さく揺れる。
――――川のせせらぎが、ふたりの心を洗い流すように、静かに祝福を告げていた。