第二十七話 色褪せた世界と、君のぬくもり
両肩を押された瞬間、伽耶の身体はふわりと浮かぶように傾いた。
風が頬を撫で、最後に目に映ったのは――
今にも泣きそうな顔で、懸命に手を伸ばしてくる誠の姿だった。
でも、その手は……取らない。
(……もう、いいの。誠……)
見上げた空は、どこまでも青く澄んでいた。
雲ひとつないその空に、何かを許されるような気がした。
(……きれいな、空……)
次の瞬間、冷たい水の抱擁が全身を包み込む。
風の音も、船の喧騒も、すべてが遠ざかっていく。
伽耶の身体は、ゆっくり、静かに、深く――
まるで誰かの腕のなかへ戻っていくように、底へと沈んでいった。
思いのほか、水の中は明るかった。
光が差し込み、柔らかな揺らぎが肌を撫でる。
(……ああ、ここで終わるのなら、
案外……悪くないかもしれない……)
ひとつ、ふたつ、水泡が唇から離れ、空へと昇っていく。
(……もう、誰も、信じたくない。
裏切られるくらいなら――
全部、全部……)
(このまま流れて、消えてしまえばいい……)
そう願いながら、伽耶はそっと、瞼を閉じた。
瞼の裏が、じんわりと明るい。
ゆっくりと目を開けると、そこには見慣れた書房があった。
けれど、それはどこか、少しだけ違って見えた。
(……ここ、は……?)
夢の中にいるような、そんな浮遊感。
直前の記憶を手繰ろうとしても、思い出せない。
窓から差しこむ陽射しは春のようにやわらかく、頬をくすぐる風は、ひゅうと心地よく髪を揺らした。
その穏やかさに、伽耶はふっと目を細める。
(なんて、気持ちがいいのかしら……)
久しく感じていなかった、満ちるような静けさだった。
だけどその分、胸の奥で小さく疼くものがある。
(今日は、誠はこないのかしら……)
ふと辺りを見渡せば、誠どころか、いつも傍にいたはずの女官たちの姿もない。
ただ、静寂だけが満ちている。
「……!」
ずきりと、頭が痛んだ。
よぎったのは、あの手を――取らなかった自分。
(……そうだった…わたし、全部を…手放したんだわ…)
逸らすように首を振ると、視界の片隅に、白い本が見えた。
机の上に、ぽつんと置かれている。表紙には何の文字もない。
けれど、なぜだか目が離せなかった。
吸い寄せられるように机へ向かい、椅子に腰を下ろす。
そして、そっと表紙を開いた。
最初のページには、色鮮やかな絵が描かれていた。
まだ小さな女の子が、真剣な表情で広間を歩いている。
(……これ……わたし……?)
女の子が進んだ先には、男と少年の二人。
二人は跪いている。
景仁の言葉に促されて、少年が顔を上げる――
その瞳は、まっすぐに伽耶を見ていた。
(……誠……)
心の底から忘れられない、あの瞬間。
そっとページの上に指を重ねると、まるでその熱が、今もそこにあるようだった。
ページの中で、幼い伽耶が幼い誠を連れて宮を歩いている。
(こんなにも……嬉しそうな顔、してたのね……)
不意に笑みがこぼれる。
その瞬間、ふわりと風が吹いたように、ページがひとりでに捲れた。
新たに現れた絵は、白黒。
色のない世界に、ぽつんと書房にいる伽耶がいた。
窓の外を眺めながら、退屈そうに頬杖をつく少女。
後ろに立つ芳蘭が何かを言うと、はっとして姿勢を正した。
(誠が来る前の……わたし……?)
胸がちくりと痛む。
あんなにも小さかった自分が、ただ一人でいたことが、今になって心を締めつける。
また、ページが捲れる。
色の戻ったページには、花を指差す誠と、本を手にする伽耶の姿。
小さな中庭、初めての授業。
(「共に、学んでまいりましょう」――)
あの時の声が、耳の奥によみがえった。
心の奥が、じわりとあたたかくなる。
(誰かに、共になにかをしようと言われたのが初めてで、とても嬉しかった)
ページが勝手にふわりと捲られる。
真っ白なページに、墨で描かれたような淡い線が浮かび上がる。
そこには、大人の教師と机に向かう伽耶の姿があった。
けれど彼女は、筆を取る手を止め、ただ遠くを見つめていた。
教師が何かを告げると、伽耶はようやく筆を動かす
――けれど、その筆跡は驚くほどに遅く、かすれていた。
ページが、また一枚、そっと捲られる。
そこに広がるのは、色彩に満ちた世界。
伽耶は兄姉たちの横に立ち、誠へと紹介している。
その顔はどこまでも誇らしげで、頬はほんのりと赤く染まっている。
(わたしったら、随分嬉しそう……)
伽耶は自然と目を細め、ページの自分に微笑みを返した。
次のページでは、絵はふたたび白黒に戻っていた。
けれどそこには、兄姉たちに囲まれて笑う伽耶の姿がある。どこか、必死な様子が却って虚しく映る。
――ただ、それだけだった。
ページが捲られる。
色の戻った場面には、周焉明の執務室の一角が描かれていた。
幼い伽耶が、誠の読破した本棚の前で目を輝かせている。
そして、まだあどけなさの残る誠――「誠坊」と呼ばれて恥ずかしげに頬を染める彼の姿があった。
(そう……誠って、天才なだけじゃない。ちゃんと、努力していたのよね)
(あのとき、それに気づけて、嬉しかった……)
ページが捲られるたびに、世界はふたたび白黒へと変わる。
宮の中、机の前、静かな日々。
変わり映えのない毎日が、繰り返し描かれていく。
色彩が戻る。
幼い伽耶と誠が、煌辰と並んで話をしている。
誠は少しだけ怒った顔をしていて、蒼煌辰はどこか楽しげだった。
(このときの誠、ほんとうに怒ってた……ふふ。蒼煌辰ったら、昔から変わらない)
次のページには、膝を抱えて一人きりでいる白黒の伽耶。
居室の寝台の隅――誰にも寄り添えず、誰からも寄り添われない少女。
ページは、ぱらぱらと捲られていく。
色鮮やかな記憶には、いつだって誠の姿があった。
けれど、白黒の記憶に誠はいない。
そこにあるのは、独りきりの伽耶だけ。
(……誠がいない世界のわたしなんだ)
伽耶の胸に、静かに痛みが走る。
そしてぱらぱらと捲られていくページがぴたりと止まる。
捲られたページは、色鮮やかに中庭を映す。
少しだけ成長した伽耶が、くるくると舞を踊り、誠がその姿を穏やかに見つめていた。
(この時……「元気な舞ですね」って言われたんだった。悔しくて……それで、もっと舞に力を入れたの)
ふふっと笑みが漏れる。
(でも、本当にぎこちないわ)
ぱら、とページが捲れる。
白黒の世界でも伽耶は舞っていたが、その傍には華蘭がいて、泣きつく彼女を優しく抱きしめている。
(華蘭お姉様……)
小さな痛みが、胸の奥で弾ける。
ぱらぱらと捲られるページの中。
姫舞に挑む伽耶の姿。
誠を、自分の元に戻すため、ひとり必死に足を踏み出していた。
(あの時、わたし知らなかった……誠も、お父様に直訴してくれていたこと)
市場での一幕。
誠があんず飴を頬張り、こっそりと口元を押さえていた。
(差し出した飴を「美味です」って食べてくれたのよね……嬉しかった…)
ページがぱら、と捲れる。
白黒の世界の伽耶は姫舞には挑んでいないようだった。ただ、宴に参加して微笑みを浮かべている…
そして、ふと止まったページ。
猿轡をされ、縛られた伽耶の頬を伝う涙を、誠が震える手でそっと拭っていた。
その目には、深い痛みと、怒りと――愛しさが滲んでいた。
ページが捲られる。
白黒の伽耶は、二胡を練習している。
(わたしが舞に踏み出さなかった世界では……危険な目には遭わなかったのね)
けれど、その安堵の先に、ふいに生まれるちくりとした痛み。
再びページがぱらぱらと捲れていき、ぴたりと止まった。
満点の星空の下、満面の鮮やかなネモフィラの青の中に伽耶と誠はいた。
誠が差し出す花束を、伽耶がそっと胸に抱いていた。
現実の書房で、伽耶は静かに引き出しを開けた。
そこには、あの日のネモフィラが、小さな栞となって眠っている。
ぱら、とページが捲れる。
白黒世界の伽耶は城にいて、大臣らしき男とその息子らしき人物と、笑顔をうかべ話をしている…
(舞がないわたしは、合同訓練には呼ばれなかったのね…)
そっと目を伏せた。
(この世界のわたしの笑顔は…)
伽耶にはこの作られた笑顔に覚えがあった。
(誰にも、心を許していないんだ…)
目を伏せた伽耶の胸に、静かな痛みが広がっていく。
ぱら、とページが捲れる。
あたり一面白く染まり、木々の茶色がぽつぽつと彩を添えている。その中心の氷上で、伽耶は誠に抱きかかえられ、見つめあっている。
(初めて、胸のどきどきを感じた時…でもなぜかしら…いまは思い出すと…胸がつらい…)
伽耶は目の奥が熱くなってくるのを感じた。
視界が滲む。
ぱら、とまた一枚。
伽耶は遠くを見ている。
白黒に染まった世界、温泉の屋敷。
声も音も届かない静寂の中で、ひとりだけ。
ぱら――
城の舞の練習室、紅の衣を着た伽耶が誠と双人舞を練習した時だ。
誠の腕の中で回転し、見つめ合うふたり。
頬に触れた手の熱、腕に感じた重み、
――そして、視線に込められたもの。
ぱら――
伽耶はひとり、中庭で鯉に餌をやっていた。
誰にも話しかけられず、誰かを待つこともない。
風が冷たく吹いて、彼女の髪が揺れる。
ページが、滲む。
にじんだのは涙か、それとも記憶のほうか。
「私の世界は――
あなたがいなければ、こんなにも色褪せていたのね……」
色のある記憶には、いつも誠がいた。
白黒の時間は、ひとりきりの伽耶がいた。
花の香り、笑い声、叱られて落ち込んだ顔。
教えられ、守られ、時に支えたつもりだった。
けれど、思い出のすべてが、彼に支えられていたのだ――
ぽたり、ぽたりと落ちる涙。
ぱら、とページが捲れた。
伽耶は紅の旗を掲げた広間で景仁と兄たちと大勢の家臣に囲まれていた。
(…もう、見たくない…)
伽耶は震える手で本の背表紙に手を入れた。
が、本はなぜだか張り付いたようにかたくページを捲るどころか動かすこともできなかった。
ぱらぱらぱら、とページが捲られていく。
誠の言葉に傷ついた夜。
自分を置いていったように感じた日。
なにも言わずに遠ざかっていった背中。
「……あのとき、わたし……どうして、信じられなかったんだろう……」
もう、溢れる涙を止めることができなかった。
「わたし…自分の気持ちがわからなくなってた…
誠は、いつも一緒にいてくれて…
守ってくれて…優しく微笑んでくれた…
わたしは、あの優しいまなざしが大好きで…
寂しい時『いつも、共に』いてくれた」
本の上には香り袋がいつのまにか置いてあった。
城を出る時に置いてきた、あの香り袋。
袋を開くと、丁寧に折り畳まれた手紙が入っている。
伽耶はそっとその手紙を開いた。
何度も読み直した、あの『いつも、共に』の文字があった。
伽耶は、ふるえる指でその言葉をなぞった。
頬を伝う涙が、文字のうえに落ちても、滲まない。
その言葉は、まるでずっと彼女を待っていたように、変わらずそこにあった。
「……そうだわ……わたしが、あんなにも誰かとの婚礼が嫌だったのは……あなたと……ずっと一緒にいたかったから……」
伽耶は手紙を抱きしめた。
「わたし、伝えないといけなかったのに…」
そのとき、部屋が徐々に白い光に包まれていく。
眩しさに目を開くことができない。
ーーめさま、姫様!姫様!!
遠くから、自分を呼ぶ声が聞こえる。
(いかなくては…今度こそ…伝えるために)
伽耶はそっと、ぎゅっと、目を閉じた。