表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
紅に咲く ― 鳥籠の姫君と誓いの護衛 ―  作者: ゆき
最終章 紅に咲く
117/148

第二十六話 水面に消ゆ、紅の花

翌日――


太陽がすでに天頂を越え、濃くなりはじめた影の中を、一艘の船が静かに川を遡っていた。

甲板の椅子に腰を下ろす少女の髪が、川風にやさしく揺れる。

けれど、その眼差しはどこか遠く。

水面を越え、時を越え、誰の手も届かない場所をただ見つめていた。


「姫様……」


近くにいた女官がそっと声をかける。

だが伽耶はうっすらと微笑んだまま、返事をしなかった。


それは、笑みというにはあまりにも淡く。

まるで“魂”だけが、船の上から少し離れたどこかを彷徨っているようだった。


隣に立とうとした煌辰の足が、ぴたりと止まる。

ただ一目、その横顔を見ただけで、悟れてしまったのだ。


(……もう、届かねえ)


昨日の夜、何かが伽耶の中で“終わった”ことを、彼は本能で察していた。


「おい、誠……いいのかよ、これで……」


甲板の後方へと戻りながら、煌辰は堪えきれず誠の肩を掴む。

振り返った誠の顔には、苦悶が滲んでいた。


「……わたしとて……わかっています。しかし……」


噛み締めるような声。

目の奥には、昨夜目にした――あの、紫宸が伽耶へ向けた“行為”が焼き付いて離れない。


(あれが国のため? ……冗談じゃない)


そう思いながらも、何もできなかった。


陛下の決定。

烈翔殿下の判断。


すべてが「仕方のないこと」として処理される中で、誠はただ、拳を握り締めるしかなかった。


「でもさ……昨日、烈翔殿下は言ってただろ? 翡 陽珀殿との婚儀が進んでるって。

だったら……少しは、ましになるはずだよな……?」


自分に言い聞かせるように、煌辰は拳で船べりを打つ。

その音が、哀しげに川に溶けた。


だが、誠の胸にはひとつの声が、強く残っていた。


『……そうやって……そうやって、わたしを“国のため”と称して側室に差し出すか、

それが忍びないからと、“どうかもらってやってください”と他国に頼み込むなんて――

わたしの…わたしの尊厳はどうなるのですか!』


あの会議の席で、涙を滲ませながら叫んだ伽耶の声。

誠は、あれを決して忘れない。


そして、華蘭の婚礼の日――

色鮮やかな衣をまとい、城門の前で見送られていた姉の姿を眺めながら、伽耶がぽつりと呟いた言葉。


『……いつかわたしも、ああなれるかしら』


あれは希望か、諦めか――

どちらとも言えぬ微かな光を湛えた、切なげな横顔だった。


(……ましになど、なるはずがない)


誠が目を伏せた、その瞬間だった。



カン、カン、カン――!



緊急を告げる鐘の音が、見張り台から響く。


「敵襲!前方に小型船、二艘!乗員数、およそ二十!――賊と思われます!」


「な、なぜこの川で……!?」「接近に気づかなかったのか!?」「上がってくるぞ!」


悲鳴に近い怒号が飛び交い、船内は一瞬で混乱に包まれた。

誠と煌辰は同時に目を合わせ、剣を抜いて船中央――伽耶の元へと駆け出す。


「姫様の周囲を固めろ!一人たりとも近づけるな!!」


誠の怒号が、甲板に響いた。

伽耶の周囲には護衛兵が集まり、四方から彼女を囲むように守る。


だが、伽耶はただ座したまま、その背を見つめていた。まるで、もうなにも関係ないとでも言いたげに。


「誠!お前は姫ちゃんを!俺は前方をやる!」


煌辰は剣を肩に担ぎ、突風のように船首へと走り去った。


誠は鋭く辺りを見渡す。

後方にはまだ敵影はない――だが、風がざわめいていた。

その不吉な気配に、彼の鼓動がひとつ、重く鳴る。


その時――


「ぎゃっ……!」


船首から、断末魔のような悲鳴が上がった。

伽耶がそっと立ち上がる。

その手は、微かに震えている。


「姫様、必ずお守りいたします。ですから――ご安心を」


誠が背中越しにそう告げた、まさにその瞬間だった。


ご、と音がして、護衛の一人が伽耶の前に立つ。

伽耶に向き直り、次の瞬間――


どん。


その手が、伽耶の両肩を強く押した。


伽耶の身体が、船べりを越える。

重力に引かれるように、ゆっくりと

――花びらのように、水面へと落ちていく。


「姫様……ッ!!」


誠は剣を投げ捨て、身を乗り出した。

伽耶に手を伸ばす。

その指先が、かろうじて――あと、少しで届きそうだった。


(……間に合う……!)


そう思った、そのとき。


伽耶が、ふっと微笑んだ。

それは、どこか諦めにも似た、静かな、寂しげな笑み。


そして――自ら、その手を引いた。


頭から落ちるように、小さな身体が水面へと沈んでいく。

それはまるで、一輪の花が水底へと散っていくような、儚い瞬間だった。


静寂の中で、水面がわずかに揺れる。


ざぶん。


水音だけが、やけに静かに、誠の耳に届いた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ