第二十六話 水面に消ゆ、紅の花
翌日――
太陽がすでに天頂を越え、濃くなりはじめた影の中を、一艘の船が静かに川を遡っていた。
甲板の椅子に腰を下ろす少女の髪が、川風にやさしく揺れる。
けれど、その眼差しはどこか遠く。
水面を越え、時を越え、誰の手も届かない場所をただ見つめていた。
「姫様……」
近くにいた女官がそっと声をかける。
だが伽耶はうっすらと微笑んだまま、返事をしなかった。
それは、笑みというにはあまりにも淡く。
まるで“魂”だけが、船の上から少し離れたどこかを彷徨っているようだった。
隣に立とうとした煌辰の足が、ぴたりと止まる。
ただ一目、その横顔を見ただけで、悟れてしまったのだ。
(……もう、届かねえ)
昨日の夜、何かが伽耶の中で“終わった”ことを、彼は本能で察していた。
「おい、誠……いいのかよ、これで……」
甲板の後方へと戻りながら、煌辰は堪えきれず誠の肩を掴む。
振り返った誠の顔には、苦悶が滲んでいた。
「……わたしとて……わかっています。しかし……」
噛み締めるような声。
目の奥には、昨夜目にした――あの、紫宸が伽耶へ向けた“行為”が焼き付いて離れない。
(あれが国のため? ……冗談じゃない)
そう思いながらも、何もできなかった。
陛下の決定。
烈翔殿下の判断。
すべてが「仕方のないこと」として処理される中で、誠はただ、拳を握り締めるしかなかった。
「でもさ……昨日、烈翔殿下は言ってただろ? 翡 陽珀殿との婚儀が進んでるって。
だったら……少しは、ましになるはずだよな……?」
自分に言い聞かせるように、煌辰は拳で船べりを打つ。
その音が、哀しげに川に溶けた。
だが、誠の胸にはひとつの声が、強く残っていた。
『……そうやって……そうやって、わたしを“国のため”と称して側室に差し出すか、
それが忍びないからと、“どうかもらってやってください”と他国に頼み込むなんて――
わたしの…わたしの尊厳はどうなるのですか!』
あの会議の席で、涙を滲ませながら叫んだ伽耶の声。
誠は、あれを決して忘れない。
そして、華蘭の婚礼の日――
色鮮やかな衣をまとい、城門の前で見送られていた姉の姿を眺めながら、伽耶がぽつりと呟いた言葉。
『……いつかわたしも、ああなれるかしら』
あれは希望か、諦めか――
どちらとも言えぬ微かな光を湛えた、切なげな横顔だった。
(……ましになど、なるはずがない)
誠が目を伏せた、その瞬間だった。
カン、カン、カン――!
緊急を告げる鐘の音が、見張り台から響く。
「敵襲!前方に小型船、二艘!乗員数、およそ二十!――賊と思われます!」
「な、なぜこの川で……!?」「接近に気づかなかったのか!?」「上がってくるぞ!」
悲鳴に近い怒号が飛び交い、船内は一瞬で混乱に包まれた。
誠と煌辰は同時に目を合わせ、剣を抜いて船中央――伽耶の元へと駆け出す。
「姫様の周囲を固めろ!一人たりとも近づけるな!!」
誠の怒号が、甲板に響いた。
伽耶の周囲には護衛兵が集まり、四方から彼女を囲むように守る。
だが、伽耶はただ座したまま、その背を見つめていた。まるで、もうなにも関係ないとでも言いたげに。
「誠!お前は姫ちゃんを!俺は前方をやる!」
煌辰は剣を肩に担ぎ、突風のように船首へと走り去った。
誠は鋭く辺りを見渡す。
後方にはまだ敵影はない――だが、風がざわめいていた。
その不吉な気配に、彼の鼓動がひとつ、重く鳴る。
その時――
「ぎゃっ……!」
船首から、断末魔のような悲鳴が上がった。
伽耶がそっと立ち上がる。
その手は、微かに震えている。
「姫様、必ずお守りいたします。ですから――ご安心を」
誠が背中越しにそう告げた、まさにその瞬間だった。
ご、と音がして、護衛の一人が伽耶の前に立つ。
伽耶に向き直り、次の瞬間――
どん。
その手が、伽耶の両肩を強く押した。
伽耶の身体が、船べりを越える。
重力に引かれるように、ゆっくりと
――花びらのように、水面へと落ちていく。
「姫様……ッ!!」
誠は剣を投げ捨て、身を乗り出した。
伽耶に手を伸ばす。
その指先が、かろうじて――あと、少しで届きそうだった。
(……間に合う……!)
そう思った、そのとき。
伽耶が、ふっと微笑んだ。
それは、どこか諦めにも似た、静かな、寂しげな笑み。
そして――自ら、その手を引いた。
頭から落ちるように、小さな身体が水面へと沈んでいく。
それはまるで、一輪の花が水底へと散っていくような、儚い瞬間だった。
静寂の中で、水面がわずかに揺れる。
ざぶん。
水音だけが、やけに静かに、誠の耳に届いた。