第一話 始まりの約束
――こんな日が来るなんて、思ってもいなかった。
伽耶の頬に触れた指先が、ほんの少しだけ震える。
それでも、離したくなかった。
この手を、もう何度離さなければならなかっただろう。
政争の波に引き離され、
攫われた伽耶を夜通し探し、
敵国の刺客に命を狙われたあの瞬間も――
何度も、何度も、奪われかけた命。
「……誠」
自分の名を、あの人が呼ぶ。
柔らかく、でも確かに揺れる声で。
姫と護衛、身分の差が、これ以上進んではならないと心を縛る。
伽耶はそっと目を閉じた。
もう戻れない。
それでも――
(この方を、一生守りたい)
胸の奥で固く誓った、その瞬間――。
第一章 春風とともに
季の国の朝は、静かだった。
幾重にも重なる白絹の帳のすき間から、やわらかな春の光が差し込み、揺れる簾が、風の音を淡く織り込む。
遠くからは鳥のさえずり、庭の水を打つ女官たちの音が、まだ夢の中にいるような心地を呼び起こしていた。
「……ん……」
季 伽耶は、小さくうめくように声を漏らして、
薄い布団の中で身じろいだ。
もぞもぞと髪が乱れ、寝起きの瞳がゆっくりと光に慣れていく。
「……朝、かぁ……」
声はまだ眠たげで、どこか甘えた調子を含んでいた。
「姫様、そろそろお目覚めのお時間でございますよ」
寝台のすぐそばから、ぴしりとした、それでいてどこか温かみのある声が響く。
「……ん〜……あと、すこしだけ……」
布団にくるまりながら、伽耶はもぞもぞと返事をする。
「……もう五つになられたというのに、お召し物も、お顔も整えず、“はしたない姫”と思われてしまいますよ」
その声に、伽耶の返事が一瞬止まった。
「……はしたなくなんか、ないもん……」
むくれたように布団をかぶり直す伽耶の姿に、芳蘭は小さな笑みを漏らす。
けれど、すぐに気を引き締めるように、姿勢を正し、きちんとした口調に戻る。
「本日は、姫様に新たなお付きが参ります。
学び役として、国よりお選びした少年でございます」
「……えっ!? ほんとに!?」
ばさっと布団がはね上がる音。
「どんな子なの!? 男の子? ねえ、わたしより大きい? 小さい!?何歳? わたしと気が合うかな!? 早く会いたい!!」
「……お顔も拭かずに、誰かに会いたいとは思わないことです」
「うっ……」
がくりと肩を落とす伽耶に、芳蘭はふっと笑みを浮かべた。
「さあ、姫様。お支度をいたしましょう。
今日は――“出会いの日”でございます」
伽耶は、仕上がった装束の裾を少しだけつまんで歩きながら、廊下の端に落ちる陽の光を見つめていた。
「……ねえ、芳蘭」
「はい、姫様」
「今日、お兄様やお姉様は……来てないの?」
ふとした声だった。
さっきまでのはしゃぎようが嘘のように、その瞳はどこか、不安げに揺れている。
芳蘭は、歩みを緩めることなく、それでも、声にほんの少しの優しさを滲ませて答えた。
「……烈翔様も、総雅様も、華蘭様も姫様のお姿をご覧になりたいと仰っておりましたよ」
「ほんと?」
「ええ。けれど王…景仁様がおっしゃったのです。
“この子にとって初めて、同年代の子どもと向き合う日だ。一人で、その第一歩を踏み出さなければならぬ”と」
伽耶は、目をぱちりと瞬かせた。
「……お父様……」
ほんの少しだけ、頬が上気する。
嬉しさと、照れくささと、それでもやっぱり心細さと――全部がまざった、そんな顔だった。
「……わたし、ちゃんとできるかな」
「できますとも。姫様は、“季の姫”でございますから」
芳蘭の言葉に、伽耶はこくんと頷いた。
そして、ふっと――ほんの少し、背筋を伸ばした。
広間の奥に据えられた重い扉が静かに開いた。
その向こうから差し込む朝の光は、金襴の床に柔らかな筋を描き、まるでその先を照らすように伸びていた。
芳蘭に背中をそっと押され、伽耶は、一歩、広間へと足を踏み入れる。
「――参りました、父上」
その声に、広間の静寂が、わずかに震える。
景仁は王座の脇に腰かけたまま、
視線をただ一度、ゆるやかに娘へと向けた。
「来たか。……此方へ、伽耶」
伽耶はこくりと頷き、すこし緊張した面持ちで、父の横まで進む。
ふわり、と衣擦れの音。
動きに合わせて、朝日を受けた衣の裾がわずかに揺れる。
そして――
正面に並んで頭を垂れている、ふたりの姿があった。
ひとりは、大人の男。
深く額づき、礼の形を崩さぬその背に、威厳と誠実が宿る。
そして、その横に……
まだ幼さを残した、少年の小さな背。
伽耶はその姿を見つめた。
自分とそう変わらない年頃。
けれど、膝をついたその背筋は、驚くほど真っ直ぐだった。
(あの子が……)
胸の奥で、なにかが“そっ”と鳴った。
景仁は、王座から穏やかに声を発した。
「伽耶。……この者が、そなたの学び役となる少年だ。名は“誠”。陸家の者である」
その言葉に、伽耶がわずかに目を見張る。
父の声で語られる“名前”。
まるで、それだけで何かを託されたような響きだった。
その横で、誠の父が深く頭を下げたまま、
重みのある声で名乗った。
「初めてお目にかかります、姫様。
臣、陸 奎、そしてこの子は、我が嫡男、陸 誠でございます」
静けさの中、景仁がもう一言だけ告げた。
「――顔を、上げよ」
伽耶は、ふっとその顔を見た。
年の近い少年。
けれど、その顔には不思議な“静けさ”があった。
どこか緊張しているはずなのに、怯えても、浮き足立ってもいない。
特に、その瞳が印象的だった。
きりっとしていて、濁りがなく、まっすぐに、伽耶を見据えている。
伽耶は、ほんの少しだけ目を見開き――
やがて、ふわりと微笑んだ。
言葉は、なかった。
けれどそれは、“姫としての最初の応え”だった。
景仁は、ふたりの様子を静かに見つめていたが、やがて視線を広間の奥――控える臣下たちへと向ける。
「……伽耶。この者に、宮内を案内してやりなさい。芳蘭も、付き添ってやれ」
伽耶は、すこし驚いたように目を見開く。
「はい……!」
ふと、広間の空気に変化が訪れる。
奥の席に控えていた臣下たちが、そっと文を手にしはじめた。
――これから、政の話が始まるのだ。
それを察した芳蘭が、静かに頭を下げる。
「では、陛下。失礼いたします」
「うむ」
伽耶と誠、そして芳蘭の三人は、礼をしてその場をあとにする。
重たい扉が静かに閉じられ、朝の光と共に、三つの影が広間を離れていった。
そして、ふたりの新しい一日が、ゆっくりと、始まった。
広間の扉が閉じる音が、背中で遠くに消えていった。
廊下には、朝の光と、わずかな春の風。さっきまでの重たい空気が嘘のように、やわらかくほどけていく。
伽耶は、数歩歩いたところで、ぴたりと足を止めた。そして、はぁぁぁっと大袈裟なまでに大きく息を吐く。
「……はぁ〜……緊張したぁ〜……」
ふり返って、にこっと笑った。
「ねぇ、さっきはきちんとできてた?
私、こういうの慣れてなくて……ふふ」
伽耶は困ったように笑った。
そして、誠の方へと向き直り、すぅ、と軽く息を吸った。
「えっと、改めまして――私は季伽耶。よろしくね」
そう言って、伽耶は少しだけ顔を傾けるようにして、照れくさそうに、でも誠の目を見て、笑った。
その笑顔は、広間で見せたものとはまた違う、“年相応の少女の笑顔”だった。
伽耶のくだけた笑顔に、誠は一瞬きょとんとしたような顔をした。
その様子を、少し後ろから見ていた芳蘭は、ほんのわずかに目を細め、微かに口元を緩めた。
誠は、少しだけ視線を泳がせたあと、気を取り直したように背筋を伸ばした。
「……陸 誠と申します。
姫様の教育係という大役を仰せつかり、誠に光栄に存じます。至らぬ点もあるかと存じますが、精一杯、努めさせていただきます」
きちんとした口調。
練習した通りの、まっすぐな挨拶。
伽耶は、きちんと頭を下げた誠を見て――
ふっと、首をかしげた。
(……あれ?)
なんとなく思っていた“お友達”とは、少し違った。もっと、話しかけたらすぐに笑ってくれるような――そんな想像をしていたのかもしれない。
でも目の前の子は、まるで“真面目に仕える”ことしか考えてないような顔をしている。
だから――
伽耶は、そっと歩み寄って、両手で誠の手を握った。
「そんなに、かたくならなくていいのよ。
わたし、ずっと――お友達がほしかったの」
誠が、少しだけ目を見開く。
伽耶は、にこっと笑って言った。
「だから、気軽に“伽耶”と――」
「姫様!!」
ぴしりと響いたのは、芳蘭の声。
ぱっと伽耶が手を引っ込める。誠も思わず背筋をしゃんとさせた。
芳蘭は、やや厳しい目で伽耶を見つめながら言った。
「姫様。
あなたは、この“季”の国の姫君なのです。
そのようなことは――許されないのですよ」
伽耶は、きゅっと口を結んだあと、
すこしだけ視線を逸らしながら、ぽつりと呟いた。
「……はい。でも、こうやってお話しするのは――いいでしょう?」
芳蘭は、しばらくじっと伽耶を見ていたが、やがて、ふぅ……とため息をついた。
「……それくらいなら、構いません」
その瞬間、伽耶の顔に、ぱっと花が咲いたような笑顔が浮かぶ。
「よかった! じゃあ、わたしの宮内を案内するわ!」
言うが早いか、伽耶はくるりと振り向き、陽の差す廊下へと歩き出した。
誠も、少し戸惑ったような顔で伽耶のあとを見送る。
伽耶の後ろに控えていた芳蘭が、音もなく一歩だけ横にずれ、手をそっと、伽耶の進んだ方へと差し出した。
誠は、一度だけ小さく頷いてから、その足で伽耶のあとを追った。
――そして、ふたりの“はじめての冒険”が、静かに始まった。
「まずは……ここ!」
伽耶が少し誇らしげに、扉の前で立ち止まった。
「ここが、わたしのお勉強のお部屋よ。
見て、明るくて、窓からお庭も見えるの。とっても素敵でしょう?」
誠は、扉越しに中を見て、静かにうなずいた。
書房には整然と並んだ机と、壁際の書物。
一面に陽が差し込む窓辺。
伽耶の言うとおり、それはきちんと整えられた空間だった。
「……立派なお部屋でございます」
「ふふっ、でしょう?」
次に、伽耶は嬉しそうに部屋の奥にある扉へ向かった。
「それからね、こっちが――」
「――姫様」
芳蘭の声が、やんわりと割って入る。
「姫たるもの、居室に易々と人をお通しになってはなりません」
「……あっ、そっか。ごめんなさい」
伽耶はちょっとだけしゅんとしたように頷く。
「でも、大丈夫よ。ほら、次は――」
少し歩いた先、開けた場所にたどり着いた。
「ここが、中庭よ。見て、きれいなお花でしょう?
小さな川もあるのよ。こっちは、鯉もいるの」
風にそよぐ花の香りと、水の音。
伽耶の横顔は陽に照らされ、ふんわりと笑っていた。
ふと、彼女は芳蘭の方をちらりと見て、
まるで“聞こえないように”というように――
誠の耳に、そっと顔を寄せた。
「秘密の場所もあるのよ。……こんど、案内するね」
そして、にこっと笑う。
その笑顔は、“姫”ではなく、“ただの女の子”のものだった。
誠は、言葉を返さずにただ静かに頷き、それを見て、伽耶はぱっと顔を輝かせた。
「案内できるのは……これくらいかしら。
どうだった? すごく、いいところでしょ?」
その目は、曇りも疑いもなく、
“この世界がとても誇らしい”と語っていた。
その気持ちは、きっと嘘じゃない。
誠は、そう思った。
けれど――
自分が暮らしていた町や、連れられて旅をした場所、城外で目にした広い世界を思うと、その“誇り”の輪郭が、すこし切なく浮かび上がる。
この方は、本当に、“ここしか知らない”のだ。
そして、その“知らなさ”が――
どれほど大切に守られてきたものなのかも、
どれほど閉ざされているものなのかも、
痛いほど伝わってくる。
(……やはり、この方は姫君なのだ――)
その言葉を、心の中だけでそっとつぶやき、誠は、廊下を歩いていく伽耶の後ろ姿をまっすぐに見つめていた。
そうして伽耶の静かな暮らしの場、書房へと戻ると規則的な足音が廊下にひびいた。
「失礼いたします。
陸様より、お迎えの使いにあがりました」
「……もう?」
伽耶は、思わず声を漏らした。
「もう少し……」
そう言いかけたところで、芳蘭がそっと口を挟む。
「姫様。本日はこのあと、礼節のお授業がございます。
――お忘れではありませんよね?」
「う……」
伽耶は、小さくうつむいて、その場でちょんと足をそろえた。
「……はい」
誠は何も言わず、ただ静かに伽耶を見つめていた。
伽耶は、ふっと顔を上げて、誠のほうに向き直る。
「でも……明日からも、会えるんだよね?」
そう言って、笑った。
「じゃあ――また明日!」
誠も、ほんの少しだけ、表情をやわらげて、静かにうなずいた。
「……また、明日」
ふたりは、まだ不慣れな距離感のまま、ぎこちなく、けれどまっすぐに、お辞儀を交わした。
そして、それぞれの道へ――立場と務めに戻っていく。
けれど胸の奥に、“誰かと明日を約束する”というはじめての記憶だけが、やさしく残った。