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バーの女

「40歳の誕生日を迎えたら死ぬわ」

「どうして?」

 彼女は俺の問に答えなかった。当時の彼女は30代半ばだった。

 俺は彼女のその言葉を本気にしなかった。ただの戯言だと思った。それに今の時代40歳なんてまだまだ若い。

 その彼女とよく来ていたバーに今日は一人できていた。

 店のなかで流れているサックスの音色がカウンターの向こうで輝いているボトルをスイングさせているように思えた。

「もう一杯」

「同じものですか?」

「ああ、ところで、この流れている曲は?」

「ソニー・ロリンズです」

「そうか……」

「他のものにしますか」

「いや」

 店のマスターが空いたグラスを下げて奥に行った。

 やっぱりそうかと思った。俺は普段はジャズは聴かないが、彼女はジャズが好きだった。なかでもソニー・ロリンズを好んでいた。ソニー・ロリンズは思い出の曲だ。

 彼女と付き合っていた期間はそんなに長いものではない。

 最後に会ったのがこの店だ。

 彼女は結婚願望が無く、子供も欲しくないと明言していた。それは俺も同じだった。だから二人は相性がいいと思っていた。

「どうぞ」

 マスターがジントニックを差し出した。

 すると客が入ってきた。

 女だ。

「そこ、空いています?」

「ああ、どうぞ」

 お盆の期間なのでオフィス街に近いこの店はガラガラなのに、わざわざ俺の横に座った。

「いつもの」

 馴れ馴れしい口調でマスターにオーダーした。

 派手なドレスで着飾っていて年齢は不詳だ。もちろん小娘ではない。

「今日は、どうされたんですか」

 こんな猛暑に正装しているのは大変だろうと俺も思った。

「ああ、この格好、パーティがあったの。大学のホームカミングディとかいうヤツ。キャンパスでやる同窓会のお祭りみたいなものね」

「それでドレス姿なのですね」

「そうよ。男は楽でいいわよね」

 女は急に相槌を求めるように俺を見て言った。

「だって、ユニクロとかでも何の問題もないじゃない」

「女性の方はユニクロじゃあだめなんですか」

「当たり前じゃない。若い時ならそれでもいいけど、歳を取ったら、そうはいかないの」

 そういうと女はカウンターに置かれたマティーニに口をつけた。

「そのホームカミングディはいかがでした」

 マスターが助け舟を出すように女に質問した。

「それが聞いてよ、元カレが来ていたんだけど、すっかりおじいちゃんになっていたのよ。孫がいて、頭は禿げてつんつるてんなのよ」

 なんとなく女の歳が推察された。だが元カレというのは同級生ではなく一回り以上離れた大先輩かもしれない。

「ところが、全然おじいちゃんじゃないのよ。私を見るなり目を輝かせちゃってさ、お酒が入ったら、体育館の器具室に連れ込んでHをしようとするのよ。信じられない。もうお互い学生じゃないんだから」

 どうやら彼氏は女の同世代のようだった。

 マスターはレモンを綺麗に切ってタッパーに入れていた。

「ねぇ、どう思う?」

 女はマスターに訊いた。

「男は、いつまで経っても男で、しかも子供ですよ」

 マスターが渋い声で、苦笑いをしながら言った。

「でも、元カノと会えばいつでもできると思うなんて、ありえないでしょ」

 まあ、いつでもできるとかは思っていないだろうが、学生時代を過ごしたキャンパスに、若くて綺麗に見える元つきあっていた女性、それに少々のアルコール、それで理性が緩くなり、過去に戻ったような気持ちになったのは理解できる。

「あなたはどう思う? あなたもそうなの?」

 急に俺にふられた。

 俺は思った通りに言った。

 つまり若々しい元カノを見て思わず彼の心理的時間が巻き戻ってあの時の彼になったのだと。

 女は俺の答えを聞いてため息をついた。

「口が上手いわね」

 視線が少し艶かしくなった。

「思ったことを言ったまでです」

「できるのなら若い頃に戻りたいわ」

 それよりも、俺は、彼女が元カレと体育館の用具室で何をしたのかが気になったが、さすがにそれは口に出せない。

「そうすると今日は魔法がかかっていたってことなのね」

「魔法ですか?」

「そう魔法よ。でもきっと深夜には解けてしまう。そして、明日からは、私もおばあちゃんとして生きるの」

「そんなことありませんよ」

 女は悲しそうに笑った。首周りの影から隠していた年齢が顔をのぞかせた。

 その時、初めて、俺は隣にいる女に愛おしさを少しだけ感じた。

 彼女はこの店に一人で何をしに来たのだろう。

 それから、彼女は話をしなくなり、マティーニを飲み終えると帰った。

 ふと俺は理解した。

 非日常と日常のはざまで、クールダウンする時間と空間を彼女は求めていたのだと。

 元カレに孫がいると言っていたが、彼女も孫がいるのかもしれない。そして、もう彼女は勢いに任せて一夜だけの関係を楽しむこともできないのかもしれない。それは倫理的問題ではない。美意識の問題だ。

 朝になり、すっぴんで、ウィッグが無く、体を矯正している下着を脱いだ後の陰毛に白髪が混ざっている現実の自分の姿を相手にさらしたくないのだ。

 その点、男の方が楽だ。

「台風が近づいているらしいですね」

 マスターが無難な話題をふってきた。

「ああ、そうらしい」

 俺は酔いに身を任せた。

 ソニー・ロリンズの締め付けるようなテナーサックスが俺の魂を揺らした。

(彼女は、生きているのだろうか)

 40歳になったら死ぬと言っていた彼女は、唐突に連絡を絶った。住所も知らなかったので携帯の番号が変わり、交換したメールやSNSのアカウントも変更されてしまえばもう連絡を取り合うことはできない。

 生きていれば今40代半ばのはずだ。

 ふと、俺は背中に視線を感じた。

 振り返ったが誰もいなかった。

 彼女の気配を感じたように思ったが、店には俺とマスターの他には誰もいなかった。

(まさかな……)

 俺は、マスターにもう一杯注文した。


恋愛と老いがテーマです。

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