第十二話 導きの涯 (5)
第十二話 導きの涯 (5)
その夜。
宣言通り、狩人協会は宴会場と化した。
基本的に胃も肝臓も強い人種が多い職業のこと、消費する酒も食べ物も半端ではない。届けにきたアグライヤの住人が青ざめるほどの量が吸い込まれていった。
「全く、あっという間にあれだけあったこの協会の金庫がカラですよ。予想外です。君達の貯金額にも呆れましたが…。近隣の狩人協会から至急送金して貰わないと…」
ブツブツと酒を呑みながらの支部長の文句に、しかしいっこうに堪えた様子はないルイスは、自らも酒を呑みながらリディの手元をさりげなく注意していた。
「そんなに心配?」
彼と同じテーブルにつくラウレッタが面白そうにグラスを揺らす。
「いいじゃない、たまには。ちょっとやそっと暴れるくらいなら、ティアやアハトがなんとかするわよ」
「ちょっとやそっとじゃねえんだよ」
宴もたけなわになり、酔いの回った男のひとりがまたしてもルイスの眼を盗んでリディに酒を呑ませてみようとするのを睨んで追い払い、自身はいっこうに素面のまま杯をあおる。
「ふーん…でもちょっと見てみてーな」
銀髪の男――『テトラル』所属の棍使い、アベラルド・ソレスがこちらも全く酔いを見せずに笑う。
「お前らもそう思わねえ?オリヴァー、ガデス」
水を向けられた、隣のテーブルにつく、『トリル』所属のそっくり双子の兄弟は、同じ意味合いの言葉を、しかし全く違う言い回しと表情で応じた。
「…別に」
「備品壊れたら誰が弁償すんだよ?」
陰気な方がガデス、冗談混じりなのがオリヴァー。これに、酒に弱くさっさと隅で潰れている姉のエッラを加え、ウェストレームばらばら三姉弟というらしい(アベラルド談)。ばらばらというのは性格のことだ。
「…さっきから黙って聞いてれば、人を危険物みたいに…」
地を這うような声音が、向かいから発せられてルイスはおっと、と意識を戻す。不貞腐れた金の眼が彼を睨んでいた。
「酒を飲んだお前は間違いなく第一級指定危険物だ」
「…知らないし。だいたい酔っぱらったことなんてないし。どいつもこいつも…」
「お前が憶えてないだけだ」
どきっぱりと言い放たれ、リディはますますぶすくれてそっぽを向いた。本人も常々周囲の家族から酒を呑むなと厳禁されているらしく、酒を進んで呑もうとはしないが、こうもまわりが酒を楽しんでいるのを見ると、不条理を感じるようだ。
「まあ、お酒じゃなくてもジュースがありますよ。どうぞ」
カインズの穏やかな声に、リディは仏頂面のままグラスを受け取って喉を潤す。そろそろ腹が水で膨れそうな気がしてきた。
オリヴァーが言った。
「ま、こんだけ酒の匂いがしてる中でぴんぴんしてるんだから、弱いってこたねーだろ?」
「臨界点がわからない」
真面目に答えたルイスに周りは失笑する。
この時点では誰も、ルイスの言葉を本気で捉えていなかった。繰り返すが――この時点では、だ。
「いいか、絶対呑ますなよ。何があっても俺もリディも責任取らないが、それ以前に呑ますな、いいか?」
「はいはい、わかったから行ってきなさい」
ラウレッタの苦笑に釘を刺すように一瞥を向け、ルイスは仕方なく踵を返した。
向かった先は、騎士二人を逗留させている宿、マグノリアである。既に日付を跨いだこの時間に、街を歩いている者は少ない。
いくら酒に強いとはいえ、あの酒気の漂う空間の中で酒を呑んだせいで少し火照る頬に、冷たい風はひんやりと気持ちがいい。
時折見える酔っ払いとおぼしき影を避けて、速足でルイスはマグノリアに到着した。
「パリス、エディ。入るぞ」
こんこんと扉を叩いてから返事を待たずに開け、中に入って扉を閉めた。
「ルイス様」
二人部屋の隅のテーブルの前にいる二人をまずは無視し、ベッドの上でぱたぱたと尻尾を振ってルイスを出迎えたネーヴェに顔を綻ばせてその頭を撫でる。
「ありがとな、ネーヴェ。こいつらサボってなかったか?」
サボってません!と上がる声と、ぴゃ!とネーヴェが頷く動作が重なる。にっこり笑ってルイスはネーヴェを抱き上げ振り向いた。
「出来たか?」
「…はい…」
疲れきった顔のパリスが、積まれた書類を指す。その一番上に乗っている束をぱらぱらとめくり、ルイスは満足げに頷いた。
「計算ミスはないな?」
「一つにつき三回は計算しました!」
エディかはきはきと答える。こっちが元気なのは十代の若さゆえか。
「よし。…明日、お前達はこれを持ってザイフィリアの首都までいけ。それで仕置きは終了だ」
「ええっ!?この計算だけじゃないんですかっ?」
「当たり前だ」
ルイスが二人に下した仕置きは、今日の支出の総整理だった。どちらかというと脳筋が多い騎士に書類仕事、まして計算事務など地獄の沙汰。それをわかっていて、ルイスは今日の山とある出納計算をやらせたのである。
「起きて身支度整えたら発て。あんまり時間の余裕もない。俺が使えるなら猫でも使うのは知ってるな?」
「…はい」
「じゃあ俺は戻る。あいつほっとくのも不安なんでな。ネーヴェ、帰ろう」
踵を返したルイスの背に、お待ちください、とパリスの声がかかった。
「あいつ、とは、リディエーリア嬢のことですか」
「……」
立ち止まり、すっと眼を細めたルイスには気づかず、パリスは言葉を連ねる。パリスさんっ、と止めに入ろうとしたエディすら視界に入っていなかった。
「私は賛成できません。なぜ、あのようにがさつで品性の欠片もない娘が貴方様の隣にいるのですか。貴族の身分だけは高く、淑やかさも女性らしさも教養もまるで欠如しているではないですか。なぜ公爵家ともあろうものが、あのような育て方をしたのか理解できませんが、ましてなぜルイス様が連れていらっしゃるのですか。女ごときの身で剣をふるい、狩人などに身をやつし、見るからに傲慢な」
「パリスさんっ!!」
叫び、否半ば怒声に近いエディの声が、パリスの苦言を遮った。さしものパリスも言葉を飲むが、時すでに遅い。
振り返ったルイスの眼は、氷より冷たかった。
「お前は、システィアさんの説教の意味がまるでわかっていないようだな、パリス」
主の常ない極寒の声音にパリスは息を呑む。
「お前があいつを気に入らないのはわかっている。だがお前があいつに関して俺に諫言する権利をいつ与えた?俺が選び、兄上が認めた相手に対して罵詈雑言をいう奴を俺がはいそうですかと認めるとでも?思い上がりもいい加減にするがいい」
「ル…」
「品性の欠片もない?まぁあの場ではそうだろうな。狩人に品性は要らない。だがお前は式典のときのあいつを見たか?――見てもいないくせに、あいつを語るな。傲慢なのは、お前の方だ」
鼻で笑って再び踵を返し、ルイスは部屋を出ざまに吐き捨てる。
「気が変わった。それを首都まで届けたら国に帰れ。戻って来なくていい。――おおかた兄上に手助けするよう頼まれたのだろうが、不要だ。足手まといはいらん」
―――――――――――――
夜道をてくてくと戻りながら、ルイスは堪えきれないため息をつく。
エーデルシアスを出る際検問が殆どなかったことや、城を出る直前の会話から、彼には兄がわざと自分を行かせたのだと予想がついていた。聞けばリディを追ってきた騎士達も、王太子には行かなくていいと止められたのだという。
その状況下で、わざわざ兄が騎士を寄越した理由があるとすれば、相手が竜、それにつきるだろう。
「だからってなんであいつを送る…」
ぶつぶつと文句を言うルイスに、肩に乗るネーヴェが心配そうな眼を向ける。あんな言い方をしてよかったの?と訊いているのがなんとなくわかって、ルイスは自嘲的な笑みを溢した。
「いいんだよ。リディを侮辱されて黙ってられるか。それに――あいつは俺派の人間なんだ。思いきり言ってでもやんねえと離れてかない」
ルイス派――つまり第二王子派は、騎士団関係者が多い。
強い者に惹かれるのは武人の性だ。片や病弱、片や大陸有数の戦闘能力。…どちらに流れるかは、自明といっても過言ではない。特に若い者に、その傾向は強い。
「全く、いい迷惑だ」
本来喜ぶべき、人望があるという事象。それを厭わざるをえないルイスの醒めた横顔に、黙ってネーヴェは身を寄せた。
説教のせいで多少延びた外出時間ののち、狩人協会の門前に帰ってきたルイスは、頭の中で一人賭けをする。
(さあ――無事か、否か)
深呼吸して、扉を開ける。
そして瞬間、どごっ!と凄まじい衝撃音と共にすぐ左の壁になにか大きなものが吹っ飛んできて、半分事態を早くも悟りながら、ずりずりと床まで落ちた物体を見やる。――予想通り、気絶したアハトだった。
(やっぱりやったか)
視線を上げれば、唖然とした狩人達一同が、吹っ飛んだアハトと、蹴りを放った足を下ろしたリディを見比べる。どうやらコトは今まさに始まったらしい。
ふわり、と室内なのに風が吹く。危険を察したアベラルドが、今更ながら止めに入ろうとしたが。
「あぢぢぢぢぢっ!?」
手を火の玉に掠められて飛び退く羽目になる。そしてそれは多方向に及び、一気に広間は大騒ぎに陥った。
「だから呑ませるなって言ったのに…」
ルイスは額を抑えたが、だいたい計算通りか、とも思っていた。
扉から離れて(ちょうど火の玉が飛んできた)、呆然と事態を見ているラウレッタに近寄る。
「あいつ何杯呑んだ?」
ラウレッタははっとルイスを仰ぎ、居心地悪そうな顔を作る。
「四杯、くらいかしら。アハトが――」
「どうせアハトさんが呑み比べとか言って挑発したんだろ。四杯か…、こんだけ酒臭い中でそれなら、普通の限界は五杯か」
下戸というわけではないらしい、と冷静に呟くルイスを唖然と見つめ、それからラウレッタはもしかして、と顔を歪める。
(全部計算通りだったっていうの?自分が去ったあとでアハトが挑発して呑ませることも、あたし達が面白がって止めないことも、ティアが様子見を選ぶことも、全部想定した上で)
その上で、それならばとその状況を利用した。事前に『わからない』と言っておくことで、周囲に彼女の『臨界点』を見届けさせてその結果を知る。さらに『結果』を狩人達に思い知らせることで、再発させない。そしてまだ残っていたであろう、彼女を『小娘』と侮り隙を狙っていた輩を一掃する。
そしてそれに伴う被害に対し、はなからなんども注意を喚起しておくことで自分には及ばせない。
(この子っ…)
頭が良さそうな子だとは思っていた。だが、ここまでとは――。
ラウレッタの視線に気づいているルイスは、黙って肩を竦める。それからそろそろ悲鳴が飛び交う惨状を止めてやろうと足を踏み出した。
途端に飛んでくる火の玉。それを水で中和し、続く風は頭を傾けて避ける。雷が来る前に距離を詰め、背後を取ると「リディ」と呼んだ。
とろんとした瞳と眼が合って、ルイスは苦笑する。
「寝ろ」
とん、とうなじの一点を手刀で叩き、一瞬で意識を刈り取る。
暴走していた魔力がふっと消え、前のめりに傾いだ体を抱き留め、膝裏を掬って抱き上げた。
あちこちで浮遊していたものが落下して音を立て、ジョッキや食べ物ごと避難させていた狩人達の呆然とした視線がルイスに集まる。
「俺は責任取らねえっつったからな。散々止めたのに呑ませたのはお前らだ。修理費は『テトラル』が払えよ」
有無を言わさず釘を刺し、ルイスは沈黙漂う広間をあとにした。
青年が少女を抱えて出ていった後、しばらくの沈黙ののち、ラウレッタが盛大なため息を吐いた。
「ティア、わかってたなら止めてよ」
一人部屋の隅の壁で最初から最後まで事態を静観していたシスティアはその訴えを肩を竦めて切り捨てる。
「ルイス・キリグがしつこいほど止めただろう。聞かなかったのはお前達、という意見には全く賛成だ。まさに自業自得だな」
そのいっそ清々しいまでの断罪に、ちょうど目が覚めたアハトともども中心メンバーが沈没する。げんなりしているアニタがやけっぱちに訊いた。
「そもそもなんでシスティアは知ってたのよ…酷いことになるって」
「あれの母親がそうだからな。それにあの慎重そうな男がああまで言ったことが嘘なわけないだろう。諦めて自分達で片付けるんだな」
システィアは鼻で笑い、狩人達はその場で項垂れたのだった。
――――――――――――――――――
午後結局宿を取り忘れ、借りたままの仮眠室のベッドにリディを運び、ルイスは慎重にその躯を下ろした。
(つかやっぱ軽…筋肉量あるのにな)
ルイスの筋力が並外れているのもあるにしても軽い。襟元を少し緩めてやり、髪留めを外すと、細く滑らかな赤い髪がさらりと頬を滑った。
「……」
窓から漏れる月明かりが、酔いで赤みがさしたリディの頬を照らしている。薄く開いた唇に、流れた髪の毛が引っかかっているのに気づいて、苦笑して取り除いてやる。その時、微かな声がリディから漏れた。
「…ィス…」
「……」
明らかな寝言。しかしルイスはなにかに吸い寄せられるように起こしかけた上体を止めた。
屈んだ姿勢を更に屈め、顔を寄せる。
無防備な平和な寝顔の、形のよい唇に、自分のそれで触れようとしたところで。
ぴたり、と動作のすべてを停止した。
数秒の停滞ののち、はー…、と肺の中身を全て吐き出す勢いで息をつき、ぼすっとリディの顔の横に頭を埋める。
(なにやってんだ、俺)
寝込み襲うとかアホかつか自制も利かないガキかよ俺はいや据え膳食わぬは男の恥といやいや何考えてんだ俺!
寸前までの自分の行動を思い出して、無言のままぼすぼすとベッドの側面を叩く。よく自制した自分と誉めていいのか、不甲斐ないと罵るべきなのか。
いくらかの煩悶を乗り越え、ようやくルイスは肘をついて上体を起こし、頬杖をついてリディの寝顔を眺めた。
(……人形みたいだ)
今は閉じられている金の双眸。くるくると表情を変えるそれは、令嬢らしくはないけれど色彩豊かで、リディがリディたるのに一役も二役も買っているように思う。逆に、それがないと、精巧な人形のように整った顔だけが浮かび上がり、まるで彼女ではないかのようにすら感じてしまう。
ジョンあたりは黙ってれば美少女、などと評すが、ルイスにしてみれば、大人しく黙っているリディなど、ルイスが惚れたリディではない。
指を伸ばして、また少しずつ伸びてきた赤い髪を梳く。多少傷んでいても、その鮮やかな美しい色彩に遜色は見えない。
しばらくその感触を楽しんでから、名残惜しげにルイスは指を解き、去り際に白い頬を撫でて放す。そのまま踵を返しかけて、ふと思いついてもう一度屈み、リディの前髪をかきあげ、そっと額に唇を落とした。
(これくらいなら、許せよ)
「…おやすみ」
微笑んで、小さくそう溢し。
ルイスは今度こそ部屋をあとにした。
部屋の隅で空気を読んで気配を消していたネーヴェは、足音が遠ざかるのを待ってから、とことことリディの枕の横によじ登り、ぐふっと変な笑いを漏らしてからやれやれと首をふり、丸まったのであった。
―――――――――――
月明かりのみがうっすらと青白く照らす室内で、一人佇んでいた少女は、ふ、と顔を上げた。
ほぼ同時、なんの前触れもなく、少し大きめの鍔付きの帽子を深く被った、まだ年端もいかない少年が空中に現れ、彼女の前の空間にたんと降り立つ。背に負った細く長い大きな包みが、床を掠めて微かな音を立てた。
「やぁ、アズリシューラ」
「…こんばんは、オージディス」
少女は驚いた様子もなく、静けさを湛えた瞳で少年を見つめ返す。少年――オージディスは肩を竦めた。
「今更ながら、ヒトの前の君と、僕らの前での君との差は凄いものがあるね。なにもああまで作らなくてもいいと思うけれど?」
少女は暗がりの中では赤茶に見える長い髪を揺らして首を傾げた。
「私達の基本は、擬態ですから」
「……ああ、そうだね」
天井を仰いだオージディスに、少女は懐から取り出した小瓶を差し出した。
口を蝋を固めた栓で閉じた、その透明な硝子の小瓶の中には、薄暗い中でも白くきらきらと輝く粉末が収められている。
「約束のものです」
「……」
すっと表情を消したオージディスは、ちらりと少女の白い手を見遣る。痛ましげな顔つきに彼がなる前に、少女は微笑した。
「貴方とかの方からの命とはいえ、望んでやったことです。お気に病まれませんよう」
「……ありがとう」
謝罪は不適と感じて、オージディスは深く頭を下げる。少女は首をふり、それからつとオージディスがその小さな背に負った細長い包みに目を移した。
「それは…」
「…ああ。君の想像通りだと思うよ」
「そうですか」
頷く少女に変わらず動揺はない。まぁ、昔からそうだ。
「…じゃあ僕はちょっくらエーデルシアスに行ってくるよ。まだ何も始まらないとは思うけど、何かあれば頼む」
「承知しています」
少女はさくりと再び頷き、それから思いついて述べた。
「滞在される間、あなたの系譜にお会いになられては?『黒』のこともありますし」
「…いいよ、別に」
オージディスは首をかくと、彼方を見据えるような目になって呟いた。
「どうせ、いくらもしないうちに会うんだから。…僕の予想が正しければ、一人を除いて、ね」
「……」
少女は沈黙する。
歯車は変わらない。いくら狂わせようとしても、呪いのように何も変わらない。
自分達がいくら向こうを消そうとも、向こうがいくら彼らを殺そうとしても、結局それは成ることはない。
予感をもとに手を打っても、効を奏さなかった。
そしていつの間にか身の裡に巣食った蛇に食い荒らされた者は、既に数名。彼らの予感が正しければ――また、増える。
「…じゃあ、またくるよ」
たん、と軽快に少年が身を翻したと思えば、もうすでにそこに姿はない。
数分前と同じようにひとりの少女に戻った室内で、彼女は細く息をつき、少女もまた、部屋を後にしたのであった。
書く前までは零距離にするつもりだったのに…予想外に我らがヒーローはHETAREでした…。